インタヴュー
Interview
於:徳正寺
インタビュアー:下村直美(下村良之介 次女)、藤本陽三(下村直美 夫)、坂上義太郎、坂上しのぶ

坂上義太郎
桑田(道夫)先生がね、徳正寺と親しくしておられたことを井上さんからお聞きし驚いています。
井上
(義母の秋野)不矩さんが桑田先生と親しくて。あそこのお宅にもよく伺いました。
坂上義太郎
銀閣寺の近くのね。
井上
(夫の)等が桑田先生の奥様に陶芸を教えていたんです。その時に、ここをずーっと下がって行った所に、新制作の会員だったか会友だったか、ちょっと何というか、図学的な絵を描かれる、その人のお嬢ちゃんが美大へ入りたいというので、等に。陶芸科を目指すというので。その人は秋山陽っていう人と結婚して。そんな事でね、秋山陽さんは等の事を訪ねて下さったり、純子さんっていうお嬢さんと見えたりしていたので。桑田先生を懐かしく思い出す機会が多くって。
坂上義太郎
新制作で亡くなった作家で、網谷義郎さんっていう作家がおりましてね、京都大学を出て、小磯先生に師事をして、仕事を辞めて、絵の方を専一にされた方が。実はその、小磯先生が、絵を勉強するなら、桑田さんを紹介してやるという事で、桑田道夫さんの方を訪ねられて。それから2人のお付き合いが始まったんですよね。
井上
桑田先生のお坊ちゃんが義郎さんっていうお名前なんですが、同じ、義、っていう字で。だからもしかしたら会われた頃に生まれられて。義郎さんとお付き合いされて。あ、でも前の奥様はポーランド人ですよね、桑田先生の奥様は。その間に生まれられたからハーフできれいで。小磯良平が赤坂の迎賓館に、竹中郁さんを詩人として、義郎さんを楽士だったかな、にして、2人をモデルに描いていらっしゃる頃によく遊びに見えておられたので。小磯先生は模型の汽車がお好きなんですってね。速度も合わせてってそんな話を。
坂上義太郎
実は作品集をつくるのに、以前に桑田先生が網谷さんの文章を書いてらして。それでたまたま桑田先生と新制作で同じ会派ですから、私が、晩年に大阪の梅田で桑田先生が個展しておられる所で、初めてお会いをして、それでちょっとミニコミ誌に桑田先生の記事を書かせていただいたんですよ。で、亡くなられてから、北浜に日動画廊がありましてね、そこで遺作展があった時に、奥様とお会いをしてお話させていただいた。そんなことで桑田先生の文章を是非掲載したいとお嬢様にお願いをしました。字数の関係で、自分が何人かの方の文章を読ませていただいて、セレクトして、資料にまとめたんですよね。で、文章を掲載するにあたっては許可をいただかなくてはならないと思って。それで、桑田先生のお嬢様が京都にいらっしゃるという事でお電話をしてお願いしたら、どうぞ、って。
井上
とてもお父様の作品を大切にして。
坂上義太郎
お嬢様も、父の作品がまだアトリエに残っておりますし、ご興味があったら是非また見に来て下さい、ってお話をいただいていて。先生も、一度遊びにいらっしゃい、っておっしゃって下さっていたのですが、とうとう行かずじまいでね。新制作に所属し、すごくいい作家の桑田道夫さんという方と、同じく新制作の網谷先生が親しくしておられて。
――
(下村直美、藤本陽三夫妻到着)
下村
等さんは、(秋野不矩さんの)何番目の。
井上
一番末っ子なんです。一昨年亡くなったんです。77歳で。(下村先生に)一番最後にお目にかかったのは、小川後楽さんのお茶会のお正月の会で、本当に久しぶりにお目にかかって。それで他にも陶芸家の先生やらいらしたのに、(等は)一番に(下村先生の所に)飛んで行ってね、「ご無沙汰しております」ってね。すごいうれしそうに。はい。うれしそうにご挨拶してました。
坂上義太郎
あの(等さんの写真の)後ろにある仏像も(等さんが)彫られて。
井上
あれはね、藤森(照信)さんがつくられた住宅に洞があって、そこを仏壇にしたいって施主の人が言われて、仏さんを刻んで欲しいって言われて、薪を送って来られたんです。薪を自分で6つか何かに割って。等は「薪の方がいい」って言ったんですけども、「目鼻だけはつけてくれ」っていう事でちょこちょこと。あとでお茶をあそこ(等さんがつくられた茶室)で。
下村
すごい。(茶室の手前にあるオブジェ)龍みたいですね。
井上
藤森さんがね、ダリにすごい敬愛の念を持っておられて。ダリのだらっとした、記憶の何とか、っていう時計の、あれを模して。その上のアーチみたいなものは、コルビュジェがソビエトパレスっていう、それが、完成しなかったみたいなんです、スターリンの時代だったので、コンペに落っこちて。それの吊り天井の図だそうです。でも(アーチの)上の方がはげてしまって変な形に。
藤本
藤森さんとはどういう御関係で。
井上
(もともとは)赤瀬川原平さんと親しくさせていただいていたんです。その時に藤森さんをお連れになったんです。路上観察学会っていう、京都の町を歩いて。で、「発表会を徳正寺でしたい」と事務をやってる松田君っていう筑摩書房の男の人が電話をかけて来て。「プロジェクターとスクリーンを用意して下さい」って言われたんですけど、ないんでね、シーツにアイロンかけて、押しピンで押して。で、プロジェクターも小さい、母が持っていた、こういう風にスライドを入れる。それでね、「徳正寺の汚いシーツに、鉛筆削りみたいなプロジェクターで写した」っていまだに言われるのでね(笑)。「アイロンは一応かけました」って(笑)。
藤本
そのご縁で秋野不矩先生の静岡の美術館に行かせていただいて。
井上
ありがとうございます。そうなんです。藤森さんの処女作の茅野市にある神長宮守矢史料館、ご自分の同級生だった人から頼まれて藤森さんがつくられて。それで「藤森さんがつくられたみたいだから見に行こうか」って等が車を運転して。中央道に入って一本ですよね。で、お母さんがすごい感激してしまって。中に入ったらゴツゴツした壁で。で、不矩さんが「私の絵はこういう壁にかけたいね」って言われた、それを私たちも覚えていたのでね、藤森さんにお伝えし、不矩さんにも「そういう風に要望したら通るかもしれないよ」って言ったら、それからもう、藤森さん藤森さんっていう感じで、実現したんです。だから随分手伝わされました。うちの夫は何よりも大工仕事が好きな人で、藤森さんの子分みたいにして(笑)。いつも呼び出されて。道具も好きなので、いっぱい道具も持って行ってつくってました。藤森さんは45歳で建築家デビューなんですね。それまで建築史家でいらっしゃったので。45歳の時につくられたのを見に行った訳です。今からもう30年近く前ですね。この間も藤森さんの奥さん、数日前にいらして下さって。うちの檀家で。奥さんの方が、神戸の方なんですけども。
藤本
秋野不矩先生のお孫さんという事は、(井上章子さんは)お嬢様。
井上
私は嫁なんです。6人兄弟おりまして、5男1女で、一番下の等っていうのが、うちの養子に入ってくれて。
藤本
秋野不矩先生には一度、下村を通してお会いした事あるんですが、たまたま私、今から30年ほど前に、祇園だとかすかに記憶するんですが、京都教育大学の教授とかが集まるお店があって、たまたま私の隣に座られた方が「秋野不矩の孫です」とおっしゃったので。
井上
それじゃあ、「あゆみちゃん」か「まいちゃん」か。教育大学の美術科に行ってました。
藤本
ほんまに30年前に一度だけ。隣にたまたま座られて。
井上
きれいな女の子でしょう。歌舞伎の発祥の人「阿国」の像を、教育大学の先生、彫刻家の何とかっていう人がつくられて、それのモデルになったりしてるんです。
藤本
ひょっとして三条の。
井上
そうです。等もね、《少年群像》とか不矩さんのモデルを。(不矩さんは)息子を全部裸にして。女の子はしていないんですけど。よつんばいにさせられたりしてね、「長いことスケッチされた」って言ってました。その写真も残っていてね。5-6歳の時からしていたみたいです。で、亥左牟(いさむ)っていう、学生運動していた(等の)兄もいるんですけど、その人は素っ裸でやってたみたいで。
坂上しのぶ
その人はインドに行かれたってね。
井上
そう。(不矩さんと)2人でね。そうなんですよ。
下村
テレビ番組になってたね。
井上
そうです。何か時々ね、おもしろがって取り上げて下さって。
坂上義太郎
(私は)ここで何度か泊めていただいた事があって。秋野不矩さんの絵がかかっているお部屋で泊めていただいて。
下村
よく寝られましたか?
井上
うちは永眠も大丈夫ですよ(笑)。
坂上義太郎
本堂で本当に遅くまでお酒をいただきながら、お話をさせていただいて。こちらは文学座の方がご利用していらっしゃったりとかね。
井上
俳優座も民藝も。
坂上義太郎
そんなお話を聞いたらね、自分が芝居が好きだったものですから。最近は小池一子さんがここで泊まられるという事を、去年かな、一昨年聞いたんですよ。びっくりしちゃって。その話で小池さんとも盛り上がりましてね。
井上
この間は事務所の仲間と盛り上がって。いろんな人が集まって来る。変な人が(笑)。下村先生も変な人集められて(笑)。私たち、ビリヤード台をね、応接セットより、古道具屋さんで安く買ったので、ビリヤード台を置いてその上で飲むというのをやったら、等のお父さんと一緒に来て下さったんです。それで「ビリヤード台買うわ」って。
下村
それで真似して買ったんだ。あれはついに廃棄しました。
坂上義太郎
沢さん(沢宏靱)。秋野不矩さんのご主人も画家だったんです。
井上
沢宏靱って。
藤本
沢宏靱先生なんですか。何度もお目にかかって。
井上
そうですか。ちょっと沢宏靱に似てます、夫は。お2人で酔った勢いでお見えになって、おもしろかった。その時にビリヤード台の部屋で飲んでいただいたら、「うちも絶対これを買う」って。
下村
どこにビリヤード台が?
井上
今は息子の書斎になっているんですけれども2階に。
下村
重いでしょう。
井上
でもあれ、板が4つに分かれるんです。天板っていうんですか。それを、寺町の三条をちょっと上がった所に「大阪撞球」ってありますよね。
藤本
下村に「(撞球用の)象牙の球を何とかならんか」って言われて。で、大阪撞球に行ったんですよ。そしたら「もう取引できません」と。売れへんので、象牙を。唯一の方法は、三条河原町上がった所のスナックの間にある玉突き屋さんに行ったら、そこのおばさんにうまい事かけおうたら、してくれるかもしれないよ、と言ってくれる人がいて。下村の誕生日に。
井上
あの頃ね、(台は)5万位だったんですけど、球一式15万位とか言われて。で、私たち、球はプラスチックでいいです、って言って。そのままで。プラスチックでやってました。
藤本
下村も、象牙が手に入らないので「いっぺん探してくれ」って言われて。行ったら「ない」って言われたんですが。一応その話を聞いて、その時は父親に言うよりは、母親の静江に言って。こういう話があるんやけども、多分10万位、それを誕生日プレゼントで渡す、と言って、10万円持って。中古っていうか、新しいのがないので。重みがやっぱり違うんですね、ズドーンといって。
井上
等も「音が違う」って言ってました。
藤本
今もお使いですか?
井上
もう使っていないんですよ。
藤本
今もお使いでしたら(笑)。
下村
キューと球だけ置いてあるんだよね。
藤本
もともと卓球台だったが、今の話のきっかけで玉突き台になって。(今は)その上に板を張って陶芸をやる事になって。
下村
父の亡き後に、人の出入りがなくなったら、家がどうなるか心配だったのですが、いつもいつも人がいる家だったのに、誰もいないというのがちょっと怖かったので、何かしようって事で。そしたら佐藤敏さんとか(宮永)東山さんが、「陶芸教室やったらどうや」って言ってくれはって。それで父亡き後に陶芸教室を始めた。で、陶芸教室に、東山先生が「愛子を行かすわ」って。ちょっとだけ来てくれはって。
坂上義太郎
現在、開催中の六甲の芸術祭に、光の教会、という安藤忠雄が設計した教会に、愛子さんの作品を展示してらっしゃる。
坂上義太郎
洲之内徹さんの息子さん、京都に生まれていらっしゃるんですね、原田光さんという方。で、鎌倉で学芸員をされていらっしゃる時に、こちらで、洋画の山下菊二さんの「ふくろう忌」をやってらっしゃる時に(一緒に来たのが最初)。
井上
山下さんのお骨をここに納められたので、法事をここでさせていただいた時に、飲む人が集まって来て、さっきの本堂で飲み会が始まった。ふくろう忌。ここには小さな納骨堂があって、そこにお骨をお納めになって。残りは大谷さん何かに納骨されるんですけれども。
坂上義太郎
宇佐美さんは大阪の(出身で)、関東で活躍された、ここにも作品が納められている、井上さんが宇佐美圭司さんと親しくしておられて。宇佐美さんは福井県にお住まいでしたね。
井上
その宇佐美圭司さんって方の奥さんがものすごいおもしろい方で女傑で。不矩さんと一緒に旅をすると言い出されて。で、西部邁って評論家のおじさん、自殺されましたけど、西部さんが最初、不矩さんの大ファンになって。それで「友達を連れて来る」っていうので、インドに連れてみえたんですよね、宇佐美さん一家を。そしたらインドで西部さんと宇佐美さんの婦人のさわこさんっていうのが、大喧嘩して、殴り合いの喧嘩になって。私もうびっくりして(笑)。すごい。そんな事が起こってるのに、不矩さんは居眠りしてて(笑)。翌日に山に登らなならんのにって。ちゃんと体力を蓄える為に。耳もちょっと悪くなっていたからもあって、しっかり眠って。お母さんだけ元気で、翌日みんなふらふらで(笑)。
藤本
下村と出会って、高名な画家とか、お会いしたんですが、一番印象にある2人の内、一人が池田遙邨先生で、一人は秋野不矩先生だった。
井上
そうですか、そうですか。遙邨さんのお孫さんになるよしのりさんはご存知ですか?
藤本
いえいえ。遙邨先生は本当に1回だけ。下村と遙邨先生で、どなたかのお葬式の後に、どなたかの出版記念パーティがあって、で、「送れ」って言われて。池田遙邨先生が、喪服ですよね、で、黒いネクタイをはずして、「ちょっとすまないがコンビニでマジックを買ってくれ」と。何をしはんのかなと思ったら、喪服で、カッターシャツに♯のマークを描かはるんですよね。シューっと滲んで。要するに白いカッターシャツが模様になるという。しかも背中は描かずに、ここにだけ。で、(喪服が)黒のスーツになる。それっぽいネクタイをして。本当に普通のマジックなんですよ。内田洋行の。太い。
井上
日展嫌いの下村先生も遙邨さんはお好き。おおらかな。日展って感じがしませんでしたね。
下村
先生は入江波光さん。
井上
入江波光さんのお話はよく、大谷大学で伺ってました。入江さんは、絵専の時ですよね。お弟子さんでいらした。ご縁ってどこでどういう風に。
藤本
私、下村と一緒に、お客さんが(家に)来られてお帰りになられて、(その後に)2人で、最後、お茶漬けを食べるというのが、大体、一週間に2回位あったんです。その時に、よく出て来るのが、下村の実の父の戦争の時の話とか、もうひとつが、波切に行って、大谷の学生と、その時に出て来る話が石積み。石垣は必ず法則があると。学生に描かすと、これでは必ず石垣が潰れるという描き方をするんだけれども、という事を、「俺は入江波光先生から厳しく怒られた」と。つまり石垣というのはちゃんとここがこうなっているから積まれているという。繰り返し繰り返し。
下村
美術部の先生としては父は厳しい先生だったんですか?
井上
私は大谷大学に入っておりまして。中学は不動茂弥さんに習っていたんです。そこの成徳中学という所で習っていて、不動先生とは時々お目にかかる。中学に押しかけて行って先生にお話を伺ったりしていた。私が大谷大学に入った時に、連れて行って下さって、それで、大谷大学で下村先生を存じ上げる事になったんです。下村先生が大谷大学に入ってみえた年なんですけれど。私は1年生で。それで畠中(光享)さんも。
坂上しのぶ
その後に美術部には一緒に入られた?美術同好会?
井上
私は自由に。きよちゃんっていう、下村先生の助手の方、あの方が休んでおられる時とかは、きよちゃん役。
下村
それはお世話になりました。きよちゃんっていうのは、助手ではピカイチで。本当にすばらしい方で。
井上
美大を出て、等、夫とほぼ同じ位の時に美大を出てあれだったので、夫ともよく話をして下さって。
下村
辻晉堂先生が紹介してくれはって。
下村
2年しか。
井上
その後は岡崎さんっていう。
下村
はい。
井上
きよちゃんって本当にサバサバして気が利いてねえ。それで作品もあれでしたし。
藤本
その時の大谷って今の新しい建物。
井上
じゃなくて、先生は入った所のこっちの2階にいらして。とってもいいお部屋にいらっしゃいました。昔の教室ですから、40畳位、本堂位ありましたかしら。大きい所で。
下村
教える部屋と自分の部屋とが同じサイズで繋がっているという。すごい吉田の家が狭かったので、大谷の先生が勧誘に来られると、そこだけは強く押して。その希望が通るなら行ってもいいよ、みたいな。
井上
時々そこで絵の修復みたいな事をやってらしたのを傍で見せていただいたりして。きよちゃんと2人で静かに見ていた覚えがあります。
下村
アトリエは自由に描きたい人は出入りするみたいな感じになっていましたね。
藤本
その建物はもう壊されて。
井上
あるんですよ。まだあるはずです。あれは文化財位になってるんじゃないでしょうか。
下村
その地下が絵の保存場所にちょうどいいって言って、地下廊下を広い廊下にして、そこを倉庫に使っていたら、ある日水がついて。
藤本
水浸しになった所から私が関わるの。
下村
大全滅。
藤本
結婚して、何やかんやで、何々せいとか。何かこう、下請け。
下村
何でも。突然命令してね。パネルを今度の土日で15枚つくれとか、
藤本
いや、そういうのはないねん。「一ヶ月位の間に絵を20枚描かなきゃならんのだけれども、何とかならんか」という言い方なんや。「わかりました、では一週間以内にします」っていうの。「じゃあそうしてくれ」っていうのが会話なの。
下村
ちっちゃい子がいたんけど、ずっとこの方は下村の。
藤本
その、あの、声がかかると、
下村
すべての予定はキャンセル。
藤本
旅行行くとか、どっかに出かけるとかは一切。じいちゃんの話が来ると、みんなそれを諦めると。それはもう、どうしようもないという。
井上
一番最初にね
下村
じいちゃんやねん。本当に大変でした。
藤本
でもやってる方は楽しいんですよ。一切その他の事、家に帰ってもせずに、「今、私はえらい仕事をしてるんだ」みたいな感じで(笑)。で、向こうのアトリエでパネルをずっと作っていると、下村が必ず。何か人にやらせておいて、放ったらかしには絶対にしないんですよね。必ず一時間おき位に、がんばってくれてなあ、みたいな。そういう言い方はしないけれども、必ず来て。
下村
で、ちょっと褒められて、喜んで(笑)。
藤本
それがあると母親の方が何か美味しいものをいっぱい食わせてくれる。大宴会が始まるという。で、(妻が)帰って来て、「いつまでうろうろしてるんや」って言うと、もう下村が烈火のごとく「自分の亭主になんて事を言うんや」って。
下村
腹が立って。うちの庭に立てた鶏小屋を潰すのに、ブロックをバーンバーンと叩いたら、「おい、直美がヒステリー起こしとるぞ」って馬鹿にして。むちゃくちゃ。はちゃめちゃや。
井上
何か、朝日のカルチャー教室で教えになっておられた事ありましたでしょう。そこへ私たちが、そんなに昔からの友達じゃないんですけども、友人の奥さんがスーチーさんと仲良しで、スーチーさんをお連れになって。スーチーさん退屈してらしたので、お連れになったら、すごく下村先生が褒めて下さって。何かその友人が言われるのには、(スーチーさんは)そんなにうまいとは思わへんけれども、いい所を見て(下村先生が)褒めて下さるので、スーチーさんもすごく気持ちが良くなって。
藤本
下村は、アウンサンスーチー、あの人がテレビに出はると、「俺はこいつと、ますだ、っていうよく行く行きつけの所で一緒に飲んだんや」と。それで隣に座っていたから気軽にしゃべっていたら、そのもう一つ向こうの奴が、(スーチーさんが)トイレに行った時に「この方は国に帰られるとやんごとなきお方です」って言われたって。
井上
京大に留学しておられましたね。大内さんって人が、京大時代にいろんな所に連れて行ったりあれしたりして。それで何年かぶりに見えた時に、ここにも連れてみえて。お昼ご飯をここで召し上がられるというので。そしたらもう、装甲車は来るし、警察の人も背広着た人ですけども、本堂にいたりして。それで前々日位にはここの見取り図も、どこからあれしたのか。だから何かちょっと。うちの息子が袈裟を着てお参りから帰って来たら、検閲って言って(笑)。入って来るまでに時間かかったわ、って言って。
井下村上
やんごとなきお方で、ますだで飲んでらっしゃる時も、外で見張りの人が立っていたって。学生さんやからもっと気軽な感じでつきおうたはるんやと思ってた。
藤本
でも北区の方に住んではって、自転車で鴨川通って京大まで走ったはったっていうのも。
下村
そうやろ。そういう話しか聞いてなかったから、もっと気楽な感じかと思ってた。
坂上しのぶ
等さんは(日吉ヶ丘の)先輩?
井上
じゃなくてねえ、電車の中で出会った。私が日吉ヶ丘で、で、不矩さんがインドに行ってらした1963年なんですけども、等がお母さんのお給料をもらいに東山七条の昔の美大の所に。私は日吉ヶ丘だからその前の所に乗っていて。で、等が美大の所から乗って来て。で、満員電車だったんだけど、祇園の所で曲がってこっちに来るんですけども。30円位でしたね、往復。そこで出会ったんです。私たち17番とかそういうのに乗ってた。市電。
下村
私は(すぐ近所の)京女で。
井上
大谷高校っていうのもあったから、あの辺はぎっしりのすし詰めの。で、みんなが降りられて。なのにまだ前に等がずっといるから「どうぞ」って言って。それでちょっとぽちぽち話をするようになって。その時は、等はお母さんのお給料を持って、すぐにお姉さんお兄さんとか東京にいる人たちに送らないといけないのに、それをすっかり忘れて、ここまでついて来て。そこで私が何か、晩ご飯を出したらしいんですね。うちは下宿生がたくさんおられたので、同じような食事を何か出したみたい(笑)。
坂上しのぶ
陶芸してらしたんですよね。
井上
はい。それで下村先生が「どういう作品をつくりたいんや」っておっしゃったから、その頃は民藝に心惹かれていたみたいで、私が「暮らしに密着した」って答えたら、「陶枕(とうちん)つくるのか?」って。陶枕って枕ですね。暮らしに密着って(笑)。その後、小川後楽さんのパーティの時もそれをおっしゃってました。「まだ陶枕つくってるか?」とか言って。陶枕だったら本当に暮らしと密着してますよね(笑)。本当におもしろい事をいっぱい言わはる先生でした。
坂上しのぶ
お酒はやっぱり大好きだったんですか?
井上
お酒好きでした。
下村
父はお酒飲まへん人との付き合いはわからへんかったみたい。何かもじもじするんですよ。お酒飲まへん人が来たら(笑)。
藤本
よくお飲みになったんですか?
井上
はい、やっぱりね、沢宏靱の血を引いてるせいか。
――
(お茶室へ)
坂上義太郎
この短冊の作者は。
井上
赤瀬川さんなんですよ。50年以上前に。原平だから(俳号を)原子、って、アトムにされて。このお茶室はほぼ等がセルフビルドしたんです。ステンドグラスも。それをやりたくてやりたくて。木の上に建てるとかは藤森さんが設計されて、作業は赤瀬川さんたちも1日来てくれたんですけども、苦労してるんですよ、すごく。
藤本
ここの町名は徳正寺さんの。
井上
そうなんですよ。もともと二条城の、猪熊にあったらしくて、それを移動してもらうのに、付けてくれはったみたいで。二条城造営の為のあれでここに。等は17代で、今が18代。この建物は割合と新しいんです。京都で100年位って言っても誰も感心してくれないのでね。ここを掘ったら焼けた石がいっぱい、黒い石が出て来て。それで「このあたりも応仁の乱で焼けたのかな」って言うから、私が「もしかしたらここ厠だったから、それで石が黒くなったのかもちゃいますか?」って言ったらみんなもう掘るのを止めて(笑)。それであとは夫が掘ってました(笑)。
・・・
(食事)
井上
私(下村家には)お嬢さんが2人いるっていうのはよく覚えていて、夕食にも入れていただいた覚えがありまして。お宅に。いろんなものを焼く。
下村
料理しないんですよね。
井上
うれしかったです。すごく。
……その池田遙邨さんのお孫さんのよしのりさんって方もよく見えるんですけども、ある時うちに関東大震災の時の何百枚ものスケッチをね(出て来たから)よしのりさんが見せて下さって。80年代の終わりか90年代に入ってから。で、見せてもらったら、鹿子木孟郎と一緒に、その一行が入った都市部に関東大震災、それで本当にね、ファサードだけが残ってる銀行とか、ちょっと人が、遺体があるような景色もね、うーっと涙流しながらスケッチされたらしいんですね。それがカルピスの箱に入ってね、何百枚も出て来たので、いろんな人にお見せしたら、誰が言って下さったのか、朝日のマリオンって、銀座にある、あそこにある会場で、関東大震災の記念の年月ではなかったんですけども、やって下さって。それは遙邨さんの美術館、岡山にある、に入ったみたいですけど。でもこうして見せてもらうのがすごくてね、びっくりしましたけど。そしたらちょうどコンピュータが普及した頃にそれの専門の人が来て、この遙邨と鹿子木孟郎が歩いた足跡をコンピュータで割り出して、あれしたらおもしろいかもしれないなあなんて言われて。去年100年ですね。それから遡るとまだ大分あれだったんですけど、記念の年には至らなかったんですけど。そのよしのりさんも一緒に、この間もちょっと来て下さって。
坂上義太郎
来年が阪神淡路大震災30年で。
井上
京都はそんなにひどくはなかったんですよね。うちも、本が倒れたり、灯籠がばんと倒れたり位で、家の中の傷はあんまりなかったんですけども。
坂上義太郎
伊丹は駅舎が落ちて、下に交番所があったものですからね、そこの宿直していらした方が下敷きになって亡くなられたんですね。それで驚いたのが、貴金属何か売ってるお店があって、あんな時に泥棒が。美術館も亀裂が入ったり。ちょうど柿衞文庫と美術館をドッキングさせるような形で接合したんですよね、そこに亀裂が入って、床は液状化現象で盛り上がっていました。作品は、ちょうどタデウシュ・カントルというポーランドの作家の展覧会をしていて、劇作家で、『死の教室』で有名な。演劇祭でね。作品は落下したものと、それから伊丹の前にセゾンでやってた巡回展だったもんですから、それで一部作品を、伊丹の会場が狭いから陳列せずに収蔵庫にしまってたんです。マップケースの前に置いておいたんです。小さな収蔵庫でしたから。小品を置くような部屋があって、マップケースの鍵をかけてなかったのでみんな開いたんですよ。それで倒れて飛び出して、壁に掛けたりしていた絵に直撃したりしたんです。それで慌ててポーランドの美術館に電話をして、そしたらテレビで報道されたみたいで、向こうの方が、「美術館はどうでしたか」とか「皆さんはどうでしたか」とか。「いや、それは大丈夫でしたが、作品が、」って言ったら、返却の時にキュレーターの人が来られるからその時に見ますから、そのままにしておいて下さい、と。「ちゃんと保険にも入っていただいているから、作品は修復すれば大丈夫ですから、お気になさらないで下さい」ってね。それから館臓品でドーミエの石膏像がちょっと破損していて。彫刻台そのものを収蔵庫の中に置いていたんですね。それが倒れたんです。ちょうど前面で鼻が欠けた程度で、この石膏を拾ってね。で、京都近美の内山先生、あの方、伊丹の出身なんです、母屋のお隣でして、親しくしていただいて。内山先生が「坂上君、東京の修復家をここに派遣させるから、心配しないで。費用はちゃんと国が、震災の為に予算組んであるから大丈夫だから」って。そしたら僕が勉強になったのは、そのドーミエの作品写真を見せて欲しいって言われてね、僕は正面しか撮っていなかったんですよ。そしたら修復家の方がね、鼻を修復するには正面だけではダメだと。右側面左側面、写真を撮っておかれたら、それで鼻の高さが推測出来る、と。「これからは立体作品の館蔵品のリストには、フォトグラフィー正面左右上後ろの写真をちゃんと撮っておいて下さい」って言われた。万が一の時には。そんな勉強をいたしましたね。それからは、彫刻を寝かしたり、柱にくくりつけたりね。まあおかげさまでそんなにひどい被害はなかったんでね。ただ驚いたのは、人々の動きが早かったですね。コンビニがもう行列になって。
・・・
坂上義太郎
ここにねえ、新劇の方がお泊まりになってたって聞いて、うわーっと思ってね。
井上
この部屋はね、宇野重吉さんが。何かね、仲間の会が出来て、私の父が亡くなったので、ここに泊って、宿代を入れてあげたら少しでも母があれだろうというので。それで座員と一緒にいたら麻雀ばっかりしてしまうから、ここをお勉強の部屋にしたいというので、あそこに机を置いて、トランジスタラジオと原稿用紙とペンが置いてあって、帰って来て、あそこで勉強しておられたようなんです。で、寒い日やったからそこにある火鉢にね、鉄瓶があった、1960年代ですよね、それがバーンとひっくり返って、そっちの部屋中に灰があれして、おばあちゃんもねえやさんもみんなで拭きに来たんですよね。そしたら「第五福竜丸を思い出した」って(笑)。宇野さんも一緒に拭いて下さって。だから時々この辺にまだその灰が溜まっているんじゃないかと(笑)。
藤本
……高田浩吉なんて……
井上
私、ちょっと等と一緒に、本当に少しだけ、伊庭伝次郎さんかな、伊庭さんという洋画家のお家にデッサンを習いに行った事があるんです。そこのお家のお庭から見える芝生は高田浩吉の娘の高田美和さんが時々。高田美和さんって京女に。
藤本
私の姉と小学校同級生でした。下鴨神社の近くで、美和さんって。
井上
私も17番の電車で高田美和さん何回か見た事があってきれいでした。
藤本
下村と時々、宴会か何かあって、その帰りに、下鴨の洛北高校の近くに小さなおでんやさんがあります。やよい。その上に八尋不二さんという脚本の方が住んでおられて、下村さんが下に来たとなると、のそーっとお出でになる。
井上
依田義賢さんはお親しくしておられて。
藤本
依田義賢さんは家が下鴨神社のYの字の所にあって。
井上
不矩さんも依田義賢さんと親しくて。多分沢さんからのあれだと思うんですけど。で、お母さんが、亥左牟ちゃんって、学生運動していて、中国に行きたいって言って、それで何か、依田さんにお伺いを、日中友好協会か何かのあれだったから、依田さんにお手紙を書いたら、中華人民共和国の「共」を、協力するの「協」に書いたらしくて、何かそれが、いろんなお返事の一番後ろに正してあって(笑)。「私は馬鹿だねえ」って言ってね。
藤本
私、たまたま小学校に勤務していて、教え子のお母さんが「私の父親は宮川一夫です」っていう、カメラマンだという話をしていて。で、家に帰って下村に、「宮川一夫さんって知ってますか?」って聞いたら、「そんなのも知らんのか」と。確かにあの時代の映画を見ると、みんな依田義賢……、すごい人なんだなあって。
井上
宮川一夫さんは、吉田日出子ちゃんたちが自分たちでつくった『上海バンスキング』という手作りの映画を見に来て下さったんですよね。それがうれしくて、何かのその後の二次会、っていってもここの本堂でただ飲むだけなんですけど、お招きしたら、来て下すって。そしたら、自由劇場の若造の前でね、「何もない所で一生懸命つくるって、こんなに素晴らしい事か」って言って下すってね。みんな感激して。で、ちょうど不矩さんも見に来てくれて、不矩さんと宮川さんを紹介したら、2人とも(お互いの)お仕事をちゃんと知っていたみたいで。それで、お母さんが、大丸で展覧会をしはった時に、宮川さんが来て下すって。お母さんがパッと芳名録を見たら、まだ濡れている字で、宮川一夫、って書いてあったから、「あ、この辺にいはる」と思って、その辺にいたおじいさんに「ありがとうございました」ってお辞儀していたら後ろから「宮川です」って(笑)。おかあさん〜って(笑)。その吉田日出子ちゃんって、変な女優でね、ちょっとちっちゃくってあんまり美人じゃないんですけども、その吉田日出子ちゃんが自由劇場の時にはずっと観世栄夫さんが演出して下すっていたんです。何本も何本も。で、観世さんの能を見せてもらう機会があって、見てたら、観世さんがつまずかはったんですって。それでものすごく大きな声で笑ったって。そしてその後、楽屋にお見舞いに行ったら、「デコに受けると思ってわざとやったんだ」って(笑)。
私、その人(吉田日出子)の事が好きで好きで。わがままな人なですけども。こんなに大きな犬をね、ここに連れて来て。「徳正寺に馬が来たんですか?」って隣の人が言われる位大きな犬を連れて来て、ここにしばらく。
坂上しのぶ
よく遊びに?
井上
何かね、よく。お芝居がうまく出来なくなったりした時にね。「これから一ヵ月程行っていい?」とか。
藤本
ご主人が好きで?
井上
私がその自由劇場っていう劇団が大好きで。夫も連れて行って。
藤本
話を聞くというのは。
井上
私なんです。それでデコがお家をつくるというのでね、私、設計用紙を買って来て、デコと一緒にそのお家を。そしたら(彼女は)風水に凝っていてね。等が「ここに水道を通した方がいい」って言ったら、「いや、水はここに通しちゃいけないから、こっちから」とか、難しい事を言われてね。2人で四苦八苦してました。あのわがままはねえ。恋人は次々来るしね(笑)。
坂上しのぶ
……京都書院って、本屋さん、その上の画廊に(井上さんは)お勤めで。
井上
下村先生の大学を辞めて。学生運動でこんなになっていたので、私もちょっと感化されて。
坂上しのぶ
下村さんに「ジャンヌダルクになるのか」とか言われて。
井上
そうそう。デモに出てたらね「ジャンヌダルクか」って言われて。
藤本
京都書院って本当に雰囲気のいい。ただの本屋さんではないって感じでしたね。
井上
美術書と学生運動の書籍が多かった。高田渡っていう、あの人がアルバイトでね。私の上役がそういう、何か、あぶれたような人ばっかり採って来るんですね。何か、学生運動で裁判になっている人とか、そういう人ばっかり勤めて。スカウトっていうか、困りに困って、みんなが来はると、いいよ、って言って。アルバイトですけどもおもしろかった。赤瀬川さんもその時に知り合ったんです。
藤本
河原町蛸薬師をちょっと南に行った所でしたか。
井上
四条をちょっと上がった所に。西側でした。オーム社とか。次々あって。
藤本
四条通りと蛸薬師の間位でしたか。
井上
もうちょっと下。はい。今はファッションビルがありますね。
藤本
わりと細長い建物で。
井上
そうですそうです、4階までね。エレベータもなく。
藤本
本屋さんって、京都書院か、向かいの丸善さんかで。
井上
そうですね。そうですね。あとミレー書房とか。そしたら何か、京都書院で万引きした人が必ずミレー書房で発見されてね。京都書院に本が戻って来るんですって。だから京都書院ってダメな本屋なんだなあって。
坂上しのぶ
京都書院がそういうアナーキーな所だとは。
井上
そうなんです。私のすぐ上の上司が杉本さんっていって、暗黒舞踏とか大好きでね。
坂上しのぶ
どういうきっかけで就職というか。
井上
何かね、それは、横浜ボートシアターってご存知ですか?遠藤啄郎さんって作家がいらして。その人はうちの父何かも知ってて下さっている古い付き合いがあって。その人のお家に行ったら、いろんな人がやって来て、自由劇場の人もやって来たりして、今度京都公演があるから行くわ、とかそんな感じで。でも父の代は宇野重吉さんや千田是也さんとかね、千田是也って今、みんなご存知ないんですよね。千駄ヶ谷のコーリヤってねえ。関東大震災の時にそういう風に名乗って、って言ったら、みんな、すごい人ですね、なんて言ってね。千田先生のお父さんは発明家でね、いろんなおもしろい建築とか発明してらして、その資料を今、藤森さんが東大の生産研で預かっているんだって言ってました。今はもう東大から変わられたからどうなってるか知りませんが。お兄さんが伊藤熹朔っていう舞踏家で、舞台装置でね、一番上の伊藤道郎さんが『鷹の井戸』をモダンバレエで踊られた舞踏家で、天才3人の、あれらしいですね。
坂上義太郎
亡くなった小林多喜二のデスマスクをつくったのが千田是也さんだって。写真に写ってますよ。遺体の周辺にね。
井上
そこの写真の中に吉田日出子のお父さんも入ってるらしいです。築地の舞台装置をやっていた人らしくって。平松豊彦っていう、鶴見太郎さんだけが知っていたという。その遠藤啄郎さんの所に行っていた時にやって来ていた人が、「京都書院で働かないか」と。そういう人を杉本さんが求めているっていうので、それで、嘱託として入ったんです。それで一番最初に赤瀬川さんの展覧会をしてもらった。印刷物と関わりのある展覧会をして欲しいというので、赤瀬川さんに。それで少しずつあれしていって、山下菊二さんにお願いしたり、東京にルートが出来たので。そんな感じなんです。
坂上しのぶ
その前に大学は。
井上
仏教の大学ですしね、そこに行ってたら、私はここを継がなきゃいけないという。このあいだ「私の黒歴史です」なんて言って。本当にちょっと苦しい時期だったんですよね。等と結婚が出来るかどうかもわからないし、等はこれから生活に密着した陶器をやって行きたいっていう意志があったし。だからうまく行くかなあと思って。そしたら何か、等が結構、京都書院で壊れた所を直してくれたり、ペンキを塗ってくれたり。何かいろんな事を手伝ってくれて。何とか。でもね、下村先生はいつも、「秋野不矩の息子嫁」か、いつもそういう風に紹介して下すって。それすごいうれしかったです。まだどうなるかわからない時にね。
下村
不矩さん大好きで。
井上
お母さんも何か、アナーキーな人が好きなのでね。
下村
岡崎で火事の時も、率先して飛んで行って。
井上
そうですか。私はここにいて、ここに来る方の世話をしてました。ああそうでしたか。ありがとうございました。
下村
私もわからないままに付いて行ってぼけっとしてました。
井上
2回火事を起こしてはるんです。1回目は74年の祇園祭の日でね。私、祇園祭の巡行が終わって息子と一緒にここで昼寝をしていたら、等もやって来てて、パチンコにね、そこの寺町のオメガって所に必ず行くんですよね、で、(笑)、あの、お昼寝から覚めて、等は「コーヒー飲みに行く」って、そのパチンコに行ったらしいんですよね。そしたら檀家さんからお電話かかって来て、「秋野先生の所が燃えてます」って言って。近くの方からお電話があって、私も腰が抜けそうになったけども、母に、「こういう時こそクールダウンせよ」ってものすごく怒られて、それでちゃんと靴も履いて、オメガに走ったんです。そしたら等、そんなに出てる所、見た事ないのに、足の下にも、玉のケース置いてね。ものすごく。で、「お母さんとこ、岡崎が火事らしい」って私が言ったら、ここに入ってた玉がパラパラパラって落ちて。母にね、慎重にならんといかん、って言われたって言ったら、ちゃんと落ちてる玉も拾って(笑)。それで前に換金所があったんですね、京極の。そこでお金に変えて。それでタクシーで行きました。そしたら燃え落ちてた。岡崎の動物園の二条通をへだてて一本目の筋をちょっとあれした所で、今はね、ちょっと下がって抜ける通りなんですよ。二条通から上に上がってこういうふうに抜ける通りなんですけども、そこで割合古いお家借りてて、2階で制作してて。そしたら1階のお風呂の種火がつきっぱなしで、そこから火が出たって。お母さんは「お風呂の種火が」って言うから、新聞何かにも「お風呂の種火が」って出たんですけども、でも、お風呂の種火で発火するのおかしいでしょ?やっぱりちゃんとした。で、いろいろ調べて、祇園祭が終わった日で、子供たちが花火をしていたとかいろんな話があったし、お母さんいつも鍵かけはらへんので、もしかしたら不審火でね、何か入れられたかもしれない。だから原因不明で終わったんですけども。ただ等が納屋を(以前)整理した時に、売れてない本画っていうか、どこにも入れていない本画が、1巻がこれ位で、多分10枚位の新制作に描いた絵が(巻いてあって、それが)5本位並んでた、っていうんですよね。だから50点位は大きな絵が燃えたんだろうなあって。だから70年代の、私が好きなインドの絵も全部燃えてしまってて。
藤本
秋野先生はおられなかったの。
井上
一番最初に出て来たの。お母さんすぐ出て来たんですって。その後ろに猫がついて出て来たって噂も。本当かどうか。全然怪我してない。
藤本
で、もう一回
井上
もう一回は、その後、ここに1年いて、それでインドへ1年行って、それで兄がいろいろ調べたり、お母さんの教え子があれしてくれたりして、八瀬の何とか神社に行く所の参道に建売住宅で、もうお母さん、みんな子供たちも出ていたので、一人で住めるように、一戸建ての、2階と1階しかないような家を買われて。それでそこにいはったんですけども。そこでも何か、下でご飯つくっていて、上で電熱器に膠を、それに仮張りが多分倒れたんだろうって、等が言ってましたけども。そしたらその1回目の火事を手伝ってくれた学生たちがみんな2回目も来てくれて。「先生同窓会ですなあ」とか。でも前の家は大きかったけど、次はちっちゃな家だったから、みんなちっちゃい所へ、何かものすごく、こう言うのも何か、ものすごくきれいにしてくれはったって、本当に笑ってはりました。笑うしかなかった。
下村
私、岡崎に行った時に、子供さんも一緒やったから、大丈夫やったのかなあみたいな。
井上
いえいえ、もう1人で暮らしていて。猫だけ。でもその猫どっか行ってしまって。
下村
大分はっきりした。記憶が。
井上
不矩さんの家が火事になった時には、お父さんが来て下さって本当に恐縮です。
藤本
そこが下村、義理堅いというか、ニュースがあって、誰か知ってる人が近くでというと必ず。特に火事は多かったですね。上野照夫先生の家の近所が火事だというとすぐ飛んで行って。
井上
上野先生と仲良くていらっしゃいましたね。そうそう、ああ何か、インドのあれを、スライドをして、上野先生が講演されるというのに行ったら下村先生もいらしていて。不矩さんとも仲良く。
下村
父は文章を書くのがすごい苦手だったと思っていたみたいで、原稿頼まれると、上野先生に教えてもらって。
藤本
いつも絵を描いている時は機嫌がよくて、原稿を書いている時は機嫌が悪かったから、いつも何をしているかを確かめてからアトリエに入って相談するという。
坂上しのぶ
(私は)ギャラリー16に勤めていたから、京都書院でされていたようなアーティストとの関わりがすごく深いというか。
井上
16はバリバリの現代美術という感じがしたけど、京都書院はもうちょっと古臭い感じが、
坂上しのぶ
おもしろい作家をいっぱいやってて。誰がこのキュレーションをやってたんだろうと思っていたら。
井上
私も何も知らなかったんですけど、その上役が、あの人頼みに行ってくれへんかなあっていうような感じで東京まで出かけて。
坂上しのぶ
一番最京都書院の人自身もそういう前衛的な美術に興味を持っていて。初にね
井上
何か、学生運動で前衛的な人は多かったけれども、アートは少しお客さんが増えればいいやという感じで。
藤本
出版もされて、そういういわゆる書店も経営されて、文学的なもの、ギャラリーであったり、というすごい本屋さんってそういうのなくなりましたねえ。
下村
お父さんの画集を出したいって言ってくれていたのは京都書院と違かったかな。
井上
桑田先生も京都書院から出してますし、私はそことは全然別だったんです。四条店は。何か、古代の織物の本とか、そういうのが多いですね。染織アートとか。割合クラシックなんですよね。
坂上義太郎
……美術館の仕事を、準備室させていただく事になって、画廊まわりから始まった。それで、初めて下村先生に会ったのは、京都市美のオープニングで、僕を下村先生に紹介してくれたのが、僕の大学の先輩の杉山英行という作家。画面全体が黒の絵を描く方でね。その方に京都市美の内覧会で下村先生を紹介していただいた。「僕、今度、伊丹の美術館で準備室の仕事しているんです」「またいろいろと教えていただけたらと思います」って言ったら、「京都に来る事があったらアトリエに遊びに来たらいいよ」って言ってくれたの。そしたら杉山英行さんがね、先生がちょっと別の所に行かれたら、「坂上君なあ、下村先生の所に行くんだったらなあ、泊まる覚悟で行けよ」と。「帰られへんから」って言われて(笑)。それで時折、寺町通の平安画廊に先生がね(展覧会されていて)、亡くなった平安画廊の中島さんに紹介していただいたのが、下村先生、それから不動茂弥さん、畠中さんも来られました。
下村
あそこは文化サロンみたいな感じでしたねえ。夕方7時位はね。
井上
飲んべえで、皆さん飲んでいて、嬉しそうだなあって。
坂上義太郎
そこへ連れて行ってくれたのが、京都近美の亡くなった福永重樹さん。平安画廊のオーナーが亡くなって後始末しないといけなくなって。たくさん作品をお持ちになっていたのでね。その作品を、中島久子さん、畠中先生と僕と、岡田さんという資料館の人とで分担して、大阪の美術館の準備室に来てもらったりとか、どういった作品が美術館として受け取ってもらえるかとか、見てもらって。とにかく画廊が7時で終わっててもサロンみたいになっていたから、いつも最後はあそこに行って、畠中さん、岡田さんらとあの近辺よく飲みに連れて行っていただきました。
下村
父を木曜日の朝に朝日カルチャーに送るのに、朝日カルチャーが2時からで、12時位には遅くとも町に着いて、中井、三条、射手座かな、で、朝日カルチャー行って、最後は平安画廊に行って。
井上
……不矩さんを美大に引っ張ったのは井島勉という人だったみたいです。お母さんは、やっぱりこれを引き受けたら、沢さんとまずくなるな、というのがあったみたいで、それは兄から聞いたんですけど。で、すごい断って、あれだったけど、何かやっぱり井島勉さんのあれで引き受けてしまって。もうその時は離婚も覚悟だったみたいで。お金もなかったでしょうし、子供もたくさんいて、6人です、本当に貧乏でした。等なんかベルトがないから紐でこうして結んで。ゴム草履でね。
下村
振り返って不矩さんに「大変だったでしょ」って言ったら、「子供がみんな元気だったから」って。
井上
ちゃんと育ててられたのか(笑)。誰かお母さんの事を書く人が、「インドに行っても子供の事を忘れなかった、インドの子供たちを見るたびに、不矩は京都に置いてきた子供を思っていた」って書いたら、「そこ削って下さい」ってお母さんが。嫌だって。そんな事思ってない、って。「飛行機に乗ったらすべて、日本の借金とか忘れて。もうすっかり忘れて」っていうのをよく私が言ってたら、杉本秀太郎さんがね、「ちょっともう一度、その、すっかり忘れて、っていうのを言うて」って言って(笑)。
藤本
猪肉の刺身っていうのは下村の定番正月料理なんです。出町の改進亭。12月30日のお昼に改進亭に買いに行って、下村先生用に鹿の刺身とか熊とかけったいな奴が。その訳のわからんお刺身を2-3種類買って帰って、30日のお昼過ぎですわ、きれいに切って、日本酒飲み始めたら、ついつい2時3時、夜中の大掃除。下村は年賀状を必ず、宛先は手書きなんですよね、それが一番ピークなのが30日31日。機嫌悪いんです。何とかそれで、ちょっと休憩しょうというので、31日の夜11時は私と2人でそれを切って。鹿とかはあっさりして美味しいんですが、熊とかね、何か獣の匂いがします。肉はいいんですけどね。他はねえ。
下村
改進亭のところに全身があって。「下村さん、ここですわー」って言って。不思議な事に猪って睾丸が外に出ていて。開いてあって。お腹の内側からいろいろ出してきて。
井上
すごいですね。解体新書みたいな。私は下村先生に、大谷大学のその教室で、八参のおのみを大切そうに持って来て下さって、こういう風に切って。おのみってクジラです。あの頃、八参は裏寺でお店をしてらしたんですよね。
藤本
吉田の家はね、私は住んでませんけど、居間があって座ったら、そのまわりにいろんなものが。手をこう出せば。ポストの郵便物もこう……。
井上
いつも(大学の)ソファに鈴木治さんが座ってらしたりねえ。思い出します。
下村
吉田の家は本当に狭かったので、食事する部屋、両親が寝る部屋、父が仕事の一部をする部屋、書類をする部屋、私たちが勉強する部屋、みんな1部屋。6畳1部屋。時々自分の物を置いておくちょっとちっちゃいスペースに物をちょっと取りに行く位で。
井上
じゃあお正月の宴会をしていただいたのは。
下村
両親が寝ていたお部屋。
井上
畳の。
坂上しのぶ
え、居間で?
下村
吉田で20人位。
坂上しのぶ
そこで宴会はお開きで、布団敷いてそこに寝るの?
下村
お開きして父母はそこで寝る。
坂上しのぶ
大変。
井上
でも本当にみんな楽しそうに集まってみえてねえ、
下村
大の大人が、おじさんたちが6畳の部屋にギュウギュウ詰め。掘りごたつがあって、足突っ込んだら、みんな足で喧嘩するような(笑)。そこにギュウギュウにおじさんたち詰め込むの。そこに犬、猿、鳥、子供らがいる。擦れ合って。今は考えられへんね。
藤本
私はそこの現場には居合わせなかったけれど、吉田の家で、部屋に行くと、「ようこんな所であんな大きい絵が描けるなあ」って。言ったら、「全体は描けへん」って。部分的に描いたものを2枚合わせて、屋根の上から、物干し台から眺めて。まず2枚、次2枚、それを展覧会で10枚程並べるって。
下村
吉田山に公園があって、行って帰ったら蚊に20カ所刺される、そこに持って行って。
藤本
パンリアルの若い作家さんたちはわかりませんけど、みんな大きなアトリエ持ってはる訳じゃないから、大体くるくる巻いて、巻物スタイルとか。
下村
展覧会は京都市美術館を1人が1部屋を埋めないといけない。だから何メートルも作品をつくらないといけないけど、部屋がそんなで。
井上
だから公園で蚊に20程刺されて。うわー、かっこいいなあ。
坂上しのぶ
その宴会場(居間)でも絵を描いている訳でしょう?
下村
絵は2階で描いているんだけど、それも同じ位の6畳の部屋で、西陽が当たって、廊下も本当に90㎝幅あるかないか。そこにソファ置いて。そこからだとちょっとだけ伸びるやん(笑)。そこでまあ大きな絵は描くんだけど、こんな小さいのはいつでも横に置いてあって、その居間に。そこの隙間が歩く所。そこで母の動きの素早い事!お風呂に入る時もちゃんとお湯を混ぜておかな怒られるから、まぜてちゃんときちんとしておいて、「お風呂入りました」って言ったら、お風呂上がらはるまでに、お風呂入ってはる間に、髪の毛をとく櫛、お風呂上がりの物が一式用意されていて、一瞬の間に次の(絵を描く為の)仕事をここにぴっと並べはる。お母さんすごかった。
藤本
非常に力のあるプロデューサーでしょうねえ。
下村
でもちょっとでもタイミングがずれると「こらー!おいー!」
藤本
私も1回、展覧会の前に下村が絵を描いて、何かこっちで手伝っている時に、「お風呂入るわ」って言って、下で風呂に入っている間に、「早く、早くして」って。次の絵にかかるように、
下村
ピリピリ。
藤本
そんな時にね、「風呂湧いた」って直美が言ったから下に行ったら、下から「なんじゃー!」って声が聞こえて、何かと思ったら、スイッチが入っていなくて水やった、っていう(笑)。冬なのに真っ赤になって怒ってた。で、直美は「ごめーん」とか言って(笑)。あんまり答えてない。
下村
そんなん、しょっちゅう怒ってはるから。いちいちかまってられへんからね。病室でね、亡くなった後、荷物片づけなって思って、足下にポイっとタオル置いて、「あっ!」って。「コラー!」って声が聞こえたと思って。「ごめん」とか言って。もうお亡くなりになってた。もう「コラー!」って言われんで済むわ、って。
井上
私、思い出した!先生がお風呂で、女性が多い家庭だから髪の毛が。それをね、「パーンって投げたら、すごい面白い図が出来た」って。ポロックじゃないけど。下村先生が「昨日なあ、…」って話をしてくれた。「おもろい」って。絵描きさんっておもしろいなあって。
下村
それはたまたま機嫌が良かったんだ(笑)。怖い怖いよ。
藤本
線を描くのでも墨壺で描くので、結構偶然の面白さを楽しんでいたので、宝ヶ池の散歩する時も、棒を持って歩いて、宝ヶ池で、やったらあかんっていうのに釣りをやってね、っていうのが色んなテグスをみんな放って行くんですね、赤とかグリーンとか黄色とか、それを拾うんです。一つは鯉を傷めん為。もう一つはそれを集めてガラス瓶に入れてモニュメントをつくる。
下村
何でも集めて来るから、散歩行くごとにテグスは増えるし、ゴミ屋敷でしかない。後片付けする時に、「いやーん、これ何ー!」っていうのがあって。爪のコレクション。ちゃんとしたきれいな入れ物にギッシリ詰まってるの。「うえーっ」て。
井上
たんぱく源ですよね(笑)。赤瀬川さんはお腹の減った少年時代、戦争の後、爪はね、噛んで食べるのにローテーションが組めるけど、鼻くそは時々出てきて、海産物の味がするとか(笑)。
下村
いやーん。でも半分心が痛いねえ。
井上
赤瀬川さんの食べ物の話も面白いです。戦争中の少年にしか語れないようなそういうのが。鼻くそおかしいでしょ。そんな時代が確かに。そうだ!チューインガムっていうのがね、友達が、甘味を取った後に入って……。赤瀬川さん何かは腕白小僧の中では下の方の位だったらしいの。そしたらもう、みんなが噛んで全然甘味がないのが「はいっ」って廻って来るんですって。だからチューインガムじゃなくてチューインゴムだったって。
下村
赤瀬川さんってしゃれた言い方しはるのね。
井上
そうですね。エッセイもおもしろかったです。
下村
そうですね。気が利いてるわあ。言い方が(笑)。
藤本
下村が、戦時中にね、何を食べたとかいうのを、おもしろおかしく言ってましたねえ。で、ヘビが一番食べやすかったって。焼いても煙が出ないからって。戦時中は食べ物がなかったらヘビ捕まえて焼くんです。でも煙が上がらないので敵に見つからないって。大体ね、酔うて、みなさんお帰りになって、最後にお茶漬け食べる時には、兵隊の時の話、自分の実の父親の話、もう一つ、そのパターンなんです。いつも同じ話なんですけども。そこが私のえらい所で、毎回「へえ」とか「はあ」とか。でもさすがに酔っていても「あれ?これこいつ知っとるな」って。ちょっと表情が曇ってる時もあった。
井上
不矩さんはインドの話ばっかりでした。みんなね、耳にタコが出来るって。一度、親子対談って。一番上の兄とやってもらったんです、テープ起こしした。何話していてもお母さんは「インドではねえ」って言うので、一番最後に、きいちゃんっていうお兄さんが、「この対談読んでくれる人、目にタコが出来る」って。「インドではね、インドではね、」って。その人、『笑いの王国』って、大村崑とかがいた所で脚本を書いてはったんです。だからすごいおもしろい事ばっかり言わはってね。お母さんが1回目の火事の後に、そこの本堂で暮らしていた時に、「おかあちゃんが次に暮らす家を探しに行ったら、消防署が下にあって上がマンションになってるの見つけた」って。大阪にあったんですって。で、下に消防署があるのでいいなって思ってね、でも遠いしそれはやめたって(笑)。でも泣き言言いません。「次に描く絵を見て下さい」って言ってたみたいで。
下村
80何歳かの時に何必館で父が展覧会を見せていただいた時も私横にいてて。その時に不矩さんが「どうや」って自慢してはるのね。何かと思ったら、画面にこう、切り傷を入れてみた、そういうチャレンジをしてみたんだ、って。
井上
ナイフで。時々やってた事がありました。
下村
それを父が「ほお!」って。
井上
そうでしたか。そうでしたか。下村先生に見てもらってうれしかったでしょうね。
下村
何歳になっても新しい事をする。
井上
一番指でこう、ギューっとしてみたりとかね。孫の使ってるクレパスを使ったり。何かいろんな事をやってましたね。
下村
父も展覧会に行って、若い人の作品の「ここの黒はどうやって出すんや」って聞いてた。陶芸家の佐藤敏さん、家にひょっこり来はるんやけど、その人もネタ探しで、「下村さんとこ来て、2人でうだうだ言ってたら、ヒントがもらえる」って。けったいな作品ばっかりつくる人。ネタ探し大変やったみたい。
藤本
絶対玄関から入って来ない。庭からフラっと入って来てね。
井上
昔の映画みたいですねえ。
坂上しのぶ
あの辺に住んでらしたんですか。
下村
いや、自転車で京都中走り回ってて。その頃は今の造形大のあたり。窯の焚き方で近所の人と喧嘩して、引っ越してばっかりいて。喧嘩しては引っ越しして。
藤本
修学院の山手の方に。大きな所に。で、最後は西陣の町中に。地下に作業場つくって。「窯どうしてんの」って言ったら、どっかに出して、って。
井上
夫は鴨沂高校の社研にいたんですよね。よくインター歌いたくなる、って。
下村
等さんは鴨沂高校で御歳77で(一昨年亡くなった)。私も鴨沂高校なんですけど、学生運動の終わりかけ。高校の時に、ベトナム戦争反対ってデモに行って。円山公園行ったりしたけど。その時に父が「お前デモ行かへんのか?」って言ったのはちょっと驚いた。
井上
まったくそういう事に無関心な人、下村先生はちょっと軽蔑しているような感じが。
下村
そうやったと思います。「お前は行かへんのか?」って。
井上
不矩さんも、自分の息子が、亥左牟ちゃんってのがもう捕まえられてるんですよね。高校生の時に。でも息子は反戦の気持ちを持っているからというので、ちょっと何か。私の母も父もそういう希望を持ってくれていたような気がする。新劇なんかが好きだったのもそういう。
……創造美術が出来たのが昭和23年とか24年で、創造美術の発会式を土門拳が撮りにみえたんですって。それでお母さんが美術館の近くに住んでらしたので、若き夫婦のおしどり作家だからというので撮りにみえたら、その時、土門拳が、貧乏の方に心が向いていた、筑豊の子供たちを撮らはるちょっと前でね、何か貧乏くさいところばっかり撮らはるんですって。で、うちの等が鼻水出してて、一番上の長男が拭きに行って、「あ、そのままそのまま」って言ってね。そのうちみんな怒ってしまって。沢さんは飲みに行ってしまわはって。それが何枚か残ってるんですけど、本当に暗い家族の朝食って感じで(笑)。でもやっぱりいろんな写真撮ってもらってるのを見ると、土門拳のがきちっとしてるんですよね。だから6人の息子で、お母さんが等を抱いてる食卓のシーンはいろんなのに載せて下さるんですけどね。本当に等、怒ってましたよ。小さいなりに(笑)。
下村
6人の子供って本当にすごい。
井上
等の下にもう1人出来たらしいんですけど、その子は弱くて亡くなってしまったらしいです。
下村
不矩さんは絵を描くの早かったんですか?
井上
お母さん早かったですね。都おどりのポスターは朝飯前とか言ってました。アルバイト、アルバイトとか言って。下村先生も早かったですね。
下村
私ちっさい時に、その2階のアトリエから遊びに行く時に、「上手な絵を描いて」って。人形の絵か何かを描いてもらって。その時はササっと早かった。小学校低学年。
藤本
我々小学校の教師をしていて、夏休みの絵日記かワークの所に、絵イラストを貼ったりするんですよね。で、下村良之介の所に行って、「何か描いて」って。下村、さすがに、「おい、俺に言うのか」って感じでね。「俺にこんなん頼んだら高いねんで」って、(笑)自分で言いながら描いてました。「アイツはよう気軽に」って。
下村
上手なんだもん。
井上
すごいお父様とのいい交流がいっぱいおありになるんですね。うらやましいです。
下村
そうですね。まあ、そうやね。良之介さんはまずまず魅力的やった。むちゃくちゃやったけど何か魅力あったから。
井上
お優しいなって思ったのは、沢さんって、等のお父さんがここにくるの何となくあれな時に、一緒に来て下さって。沢さんが孫の顔が見たいっていうので、寝てる孫の顔を見て。
下村
割とそういう機微には敏感でした。
井上
本当に優しくていらした。その時にうちの玉突き台を見て。ねえ。
藤本
一番最初私が聞いた話では、「誰かがこれを押しつけよったんや」って感じで。にね
下村
私が卓球台をプレゼントしたんです。家を建てたので。卓球が好きやったので。前に住んでいた家の近くの卓球場によく家族で卓球をしに行ったりしていたので、じゃあ家に、って。で、そやのに、それを潰して卓球台を下に押し込んでビリヤード台を持ち込んで、私の卓球台を捨てたから。ちょっと弱ったんじゃん?
藤本
静江夫人に、「あいつがもう、先生何とか引き取ってません?言いよんねん、しゃあないねん」って。
下村
一番おかしいなあ。最初にね
井上
大阪撞球に行ってらしたあれですよね。
藤本
そうです。(ビリヤード台が)来たら来たで、「このキューでは物足りないから、ちょっとキューを買いに行く」って。「一緒に来い」って大阪撞球へ。ちょっと上等のキューで。で、もうちょっとしたら「陽三、これプラスティックやけどなあ、根元がもうひとつなんやけども、象牙を探してくれ」って。
下村
でも試合自体は母の方が上手やった。
井上
すごーい。お母さんもすごいですね。等も来た人に教えてて、その人にその日に負けてたんですよ。その人はね、えっと、カナダにあるサーカスのグループ、そこのジャグラーの人でした。負けるわけだ(笑)。
藤本
静江さんは向こうっ気が強かったですね。下村はしゃべりで相手にプレッシャーをかけて。
井上
その時の様が蘇ってきます。沢さんはちょっと恥ずかしそうにね。本当にうれしかったです。でないと等がお父さんに触れ合う機会が少なくて。ほとんど怒られてばかりだったみたいでね、その時代に出て行かれたから。だから小川後楽の会の時も、等、50歳過ぎていたと思うんですけど、宮永東山さんに、「あんた、あの、ご兄弟に会うてるか?」って言われてね。ご兄弟っていうのは沢さんの方に出来た子達に。「はい、僕、沢さんのお葬式、僕が導師しました」とか言ってましたけれども。でもあんまり交流はなかった。
下村
沢さんの所は3人だから。合計9人の子供?
井上
そうですね。6人プラス3人で9人ですね。でもそんなに等は会う機会がなくて。かえって孫の方が、お嬢ちゃんやなんかと、交流があるんですよ。
下村
交流ってここに来て集まるみたいな?
井上
何かね、ヒッピーしていた亥左牟って2番目の兄なんですけど、学生運動やりまくった人、その人が何かちょっと心を開いてて、家においで、って感じで、よくあれだったみたいです。
藤本
今日40年ぶりに思い出したのが、京都書院とヒッピーです。
井上
なつかしいですねえ。
藤本
京都書院って本当に忘れてた。わーっと蘇りました。
井上
そうでしたかあ。本屋の2階にいっぱい学生運動、3階に美術書がいっぱい。
藤本
奥に階段があって。
井上
そうです、そうです。それを上がって来て下さると私が勤めていた京都書院の4階ホールに到着します。印刷にしたものをやろうっていうので。
……