下村良之介

1923 - 1998

井上章子|インタヴュー|下村良之介

インタヴュー

Interview

於:徳正寺

インタビュアー:坂上義太郎、畠中光享、坂上しのぶ

井上章子氏

畠中

僕、一番最初にね、下村先生を紹介してもらったのは、章子ちゃん。

井上

私は不動(茂弥)先生に連れてってもらった。不動先生が中学の美術の先生だったんです。

畠中

どこの中学でした?

井上

私は成徳中学。この近くの。校区の。

畠中

あの頃ね、中学の先生してて作家になってる人、何人もおられます。

井上

下村先生もそうだった。

畠中

三尾公三さんもそうです。

井上

三尾公三さんが、白線を、運動会の時に引いてはるというのを誰かが言ってた。

畠中

大野俶嵩さんもそうです。今そういう人いませんね。下村先生の紙粘土はやっぱり中学校の授業でやってる所から出て来たと思うんです。

井上

あの紙の粘ったの、面白かったですね。下村先生の。

畠中

そうですね。先生は器用でしたから。

井上

畠中さんは一番最初の紅画廊(個展)で香月(泰男)さんみたいな(絵を描いてた)。

畠中

そう、香月さんから僕、7年間抜けれなかったんです。

井上

全共闘の人たちの絵が、黒い絵の具で、

畠中

貧乏くさい絵ですよ。

井上

すごいすばらしかった。香月さんを思わせるのはあれかもしれないけれど。

畠中

香月さんはね、僕、高校2年生の時にね、大阪の心斎橋に大丸とそごうが並んでた、そこの中2階で大きい展覧会があって、これでもう打たれてしまって、7年間真似した絵を描きました。

井上

学生たちのあれが伝わってくるいい絵でしたよ。
……(辻惟雄さんは)この(徳正寺の)茶室を円空賞か何かに選びたいって。私も山下菊二さんなんかと一緒に『みづゑ』に「奇想の系譜」というのを書いておられる時に読んでたので、辻先生がここ開けた時に思わず、「高校生の時に奇想の系譜を読んでました」って(笑)。

畠中

大体、章子さんはね、奇想ばっかりでした(笑)。山下菊二さんとかの企画展をされてました。京都書院の(画廊で)。山下菊二さんもやっぱり反戦ですね。それと銅版画の浜田知明とかね。あの頃ね、やっぱりそういうものに興味がないと駄目だ、ってあったと思うんです。今みたいなアホな時代ないと思いますわ。戦争が起こっているのに。テレビも馬鹿なものばかりで。社会情勢に興味がないというのはね、僕は、アホやと思ってるんです。その頃は歌でもね、好きな、谷川俊太郎さんのお父さんに展覧会を見てもらってるんです。それに励まされた事あるんですよ。

井上

あの方、絵がお好きで。俊太郎さん、今江祥智さん……、(夫の)等(ひとし)の展覧会も見に来て下さった。(等さんは秋野不矩さんの五男で6人兄姉の末っ子)

畠中

谷川俊太郎作詞とかね。作曲が武満徹さん。反戦歌ですよ。「♪死んだ男の残したものは、…一人の妻と一人の子供~」ワンマンショーですからね。「後は何も残さなかった~」最後、兵士とかね、「最後、地球が残したもの」って。すごい歌。高石友也が歌ってましたね。ナターシャ・セブン。

坂上しのぶ

お二人は大学で一緒だった。

畠中

(章子さんは)途中でやめちゃった。ちょうど学生運動の時で。

井上

下村先生はちょうど私たちが入学したのと同時に来られた。

坂上しのぶ

何学部だったんですか。

井上

真宗学科って。うちの宗派の浄土真宗の。

畠中

でも(出会ったのは)まだ一般教養の時だったから。

井上

畠中さんが絵が好きで、っていうの、どうして知ったんでしょうね。下村先生の所に私があれしたって。

畠中

下村先生を紹介してくれたのが章子ちゃん。だって僕、奈良の田舎から出て来てですよ、下村良之介なんて誰も知りませんね。僕知らなった。会うたらね、「こんなおもろい人、いないわ」って、思って。

井上

不動さんに中学の時に習っていて、不動先生のお父さんが、不動立山さん。淡路島出身の絵描きでね。いい絵ですよね、雨の。

畠中

大谷大学の最初の頃は、住山(清子)さんが助手してたでしょ。きよちゃん。住山リボンのお嬢さんですよね。石山駿と結婚して瀬戸に行くんですよ。現代美術の陶芸ですよね。その後が上京中で教えてた岡崎(紀子)っていうのが(助手になった)……。

井上

下村先生のお話面白かったですよね。私、授業ほったらかして先生の研究室よせてもらったり。

畠中

授業よりも先生の研究室のお話の方が楽しかったです。

井上

母が、お世話になってるから、ってお酒を持ってきましてね、お酒も飲んだ事がある。研究室で。

畠中

エッチングの鉄板で焼きそば焼いてました。銅板で(笑)。

坂上しのぶ

その頃って学生運動が。

井上

そうなんです、それで私、デモに加わったりして。あの時は何でも。授業料上げでも何でも、学生は騒いで。

畠中

でもその時、僕言われた事あるんです。曽我先生が学長だったんですよね。その時、91歳でした。その方が、いつも衣を着て、大学院の授業しかされていなかったけれども、潜りで行ってたら、やっぱり良かった。

井上

私ね、金子大栄さんってね、の講義は聞いた事がある。

畠中

家にも行った事ありますわ。曽我先生に言われた。「畠中君、あんたらナンセンスナンセンスって言うけどね、これはコモンセンスや」って言われました。それ位聡明でした。

坂上しのぶ

校庭で(デモをしていて……)。

井上

そしたら下村先生が見てはって、「ジャンヌ・ダルクになるつもりか?」って(笑)。

坂上しのぶ

学生は男ばかりで?

井上

女の子たちもその時加わってましたね。みんな地方のお寺から少年少女たち。やっぱり何か自由を求めてたんですね。坂上(義太郎)さんもその時代でしょう。

坂上義太郎

僕が大学に入ったのは1965年。ちょうど学生運動。べ平連とかね。佐世保にエンプラが来た時、みんな行く訳ですよ。関西では小田実がね。

井上

鶴見先生や開高健も入ってた。脱走させようというので。米兵たちを。

坂上義太郎

フォークソングがすごい勢いでね。

坂上しのぶ

皆さんお寺の(跡継ぎ)。

井上

きっと指導が多かったと思いますよ。でも親鸞とマルクスをくっつけたり。昨日YouTube見てたら斉藤幸平ともう一人誰かお坊さんの方とが、マルクス主義は仏教とどう繋がるかみたいなのをね。

坂上義太郎

僕、学生時代を思い出して、よくデモでねえ、インターナショナルの歌を歌いました。

井上

等が、うちの夫はすごく下手なんですけども、インターナショナルだけはきちっと全部。御経よりも。

坂上義太郎

僕は演劇にかぶれていたからね、芝居で世の中を変えていくってそういう時代で。民芸とか文学座とかね、俳優座でもね、やっぱりこう。民芸が好きでね、他に早稲田小劇場とかね。劇団四季の浅利慶太らが出てきて。私たちは、「資本主義の手先や」言うてね。「あんな芝居は堕落させる」とか言ってましたね。

畠中

章子ちゃんも演劇好きでね。自由劇場とか状況劇場っていうのは、もう。

坂上義太郎

こちらに泊りにこられていたというのをお聞きして。

井上

串田和美が。(今年)81歳になって。はい。チャーミングでしたけど。
……絵が、真贋が何とかっていうのはまったくおかしな世界だと思うけれども、でもねえ、自分で持って死ねへんし。結局お義母さん(秋野不矩、以降お母さん)の贋作が出たのもそういう……あの頃はお母さんの絵ってすごい安かったものねえ。お母さんは子供が6人いるので、描いて描いて描いてね。あっという間に描かはるんですよね。都おどりのポスターでもササササッと。今、何か大丸で都おどりのポスター原画が出てるらしい。でも他の人よりも瑞々しいんですよね。あの頃ね、こんな位のポスターがいっぱい貼りだされるのに、5万位で描いておられた。

畠中

今年か去年かは写真になってますね。去年かな、写真になって。いい絵を描く人がいないんですよね、舞妓さんね。やっぱり秋野先生のがずば抜けていい。

井上

お母さん、ぱっぱっと描いてしまわはるんですけど。瑞々しいんですよ。

畠中

うまい。昔の人で下手な人はいませんわ。

井上

でもお母さん、何とか、何一郎?夏目漱石の舞妓さん、芸妓さんの息子、都おどりのポスターずっと描いていた人、最初の頃、お母さんとその人との交互位で。夏目漱石がえらい感激したお茶屋の芸妓さんで。磯田又一郎だ。

畠中

一つだけ軸を持っているんですよ。磯田又一郎と太田聴雨と合作したやつ。軸一本持ってます。これはどなたの字ですか?

井上

細川護熙さんです。茶室をつくらないといけない時に、細川さんはすぐつくらないといけなくて。うちはお坊さんしながらですから(つくるのに)13か月かかった。細川さんの方が早く出来上がって。細川さんの所は俳優座の舞台係の方に藤森(照信)さんの設計図を渡して、あらかじめつくったものをクレーンで入れて。そこへみんなで。でもなかなか面白い茶室で。湯河原です。等も手伝いに行って。セメダイン使って。難しい所はみんな等に廻ってくるんです。あとは南伸坊とか、赤瀬川(原平)さんとか。

(畠中光享さんが所用で退席)

井上

……鶴見(俊介)さん、子どもの時から自殺願望があって、何か、倒れたり。私がお目にかかった時はもうとてもお元気でいつもわっはっはって笑ってて。その考え方みたいなのが、『もうろく帖』っていうのをつくってね。……

坂上義太郎

(新聞記事を見ながら)ここで対談をなさって。

井上

堀(文子)さんが不矩さんと同じ位だったでしょう。いろんな事が判明していって面白かったです。秋野さんの所に泊ったら男の子が5人いるの。等も入ってて。で、お母さんの部屋で寝させてもらって、「2階のアトリエで寝させてもらってたら、いろんな男の子がね、私の顔を見に来るの」なんて言ってね。

坂上しのぶ

鶴見さんには一度だけ、(京都)造形大で針生一郎さんと対談した時にお会いした事があります。確か、べ平連の辺りの話をされていたのだと思います。

井上

針生さんは新日文だったし、鶴見先生もベ平連だったし、ああなるほど。昨日その新聞を見つけて読んでいたら、ああ、鶴見先生ってこういうお考えだったなって。甦ってきて。

坂上しのぶ

うつ病をくりかえして弱いのかなと思いきや、それが逆に。揺るがない強さみたいな。

坂上義太郎

(茶室の写真を見ながら)これ元永(定正)先生のように見えるんだけどどう?

井上

元永さんも(いらした)。……細川さんも(湯河原では)一緒にヘルメット被ってコンコンコンなんてやって。素人の集団がやるでしょ、銅板打ち付ける時に、釘の跡がきゅっと曲っているとね、等が抜いて、またやりなおして(笑)。それ、南伸坊が言ってた。「僕ら下手くそでしたからなあ~」って。

――

乾杯

井上

等は(酸素)ボンベのケースを自分でつくったんです。等はお酒が好きでしたから、友達がお酒を持ってきてくれると、あの革袋の中にまず入れて。(亡くなった)等にまずちょっと飲んでもらうつもりで。

坂上しのぶ

畠中さんが良く一緒に遊んでおられたって。

井上

ギターを持った青年を良く連れてこられて。昔、工房があった家が墨染にありまして(そこに夫婦で住んでいた)。等は(京都市立芸術大学の)陶芸で、お姉さんは日本画に行ってて。
……畠中さんの香月泰男さん風の絵はご覧になった事ない?すごくいいですよ。黒い画面でね。ヘルメットと手ぬぐいと顔だけが浮かび上がっているようなね。紅画廊にみんなで行って。そしたらお母さんが「すばらしい」って言って。それで、黒い絵具がね、「安物を使っていたら、深みがないから」って言って、畠中さんに黒い絵具をプレゼントしたかもしれません。……

坂上義太郎

(畠中さんは)雑誌で画材の事を良く書いておられて。日本画はもっと画材を大事に。自然の素材を(吟味して使うようにと)。人工的な画材が出回っていて、だけど絵の為にはもう少し画材を選ぶべきだという事をね。下村先生はいわゆるその辺、後々の事を考えておられなかったって。

井上

不矩さんもその時、自分の絵が美術館に入って残るっていうのはぜんぜん考えておられなくて。それで(洋画家の)桑田道夫さんなんかに、油絵で絵具の深い色がうらやましくて、日本画の絵の具はどうしても薄くなってしまうでしょ、その乾いた感じが日本画の魅力でもあるんでしょうけど、お母さんは何か、刻み付けるような絵を描きたいって言って。ぺたぺた筆で描いているようなものでは物足りなくて。棟方志功みたいな、そんな絵を描きたいって。ちょっとそれにも挑戦していたんですけど。水上勉さんの所で和紙をつくっておられる、それをお母さんが(耳にして)、何か水上さんの挿絵を、アナーキストの生涯の、それで水上さんと親しくなって、水上さんのその和紙を漉いてやらはるというそれに共鳴して。紙をぶ厚くしてもらって、そこに黒い絵具を吸いこんで、彫刻刀でやろうとされたんだけど、何かあんまりうまくいかなくて。等は彫刻刀やナイフいっぱいお母さんにプレゼントしてましたけれどもね。絵描きがペタペタと、特に日本画はやわらかいでしょう、筆が、ああいうのですーっと塗ってるのがつまらなくなったみたいで。
……私は不動先生に(下村先生を紹介していただいて)、下村先生の所にしょっちゅう(出入りするようになった)。下村先生もある抵抗をした、日本画に抵抗した方で、素晴らしいと思った。けれども学生運動がああいう風に(下火に)なってきて、みんなちょっと落ちて、それから(私も)結婚生活に入っていく、ってなって。だから大きな顔して言えないんだけどね。畠中さんは何でパンリアルを辞めはったのだろう。不動先生も辞めはって。

坂上義太郎

創立時のメンバーでずっと解散に至るまで長くいらっしゃったのは下村先生だけでね。だけど本心は辞めておけば良かったかなあみたいな事を回顧されていたような。

井上

三上誠さんが亡くなってずいぶん傷心されて。

坂上義太郎

大学の時に下村先生が幼児教育か何かをご担当だったんですね。そうすると章子さんが講義を受けられるのは、

井上

なかった。私が絵が好きだというので。私が何か美術史みたいなものをちゃんとやって、もし出来たらそういうお仕事をしたいなと思って。でも思う大学に行けなくて。それでうちの宗派ではあるので大谷大学に。そしたら不動先生が、「僕の友達が今年から幼児教育科に行ったから」って。それで私、入学と同時に下村先生に出会ったので、しょっちゅう行って。先生の制作風景も。大学の大きな教室を与えられたというのでそこで描いておられるのを。それこそ紙粘土の作品をやっておられるのも見ました。

坂上義太郎

制作の時はそういう見られる事にはぜんぜん問題なくて。制作中も。

井上

はい。不矩さんなんかは、制作中は、息子たちでも上がってきたらって、沢宏靱(夫)さんがいらしたから、上ってきたらいけないっていう事だったらしいですけど。男の子はね、はしゃぎまわるから。下村先生は本当にちょくちょく。それですごい立派な絵が出来ていくので。立派というか、深い、刻みつけるような。

坂上義太郎

鳥がモチーフで。

井上

鳥が。どこかに頼まれておられたお仕事かもしれないけれど、大きな鳥が何羽か、こう、紙粘土でやっておられるのを見ました。学校で。

坂上義太郎

制作の、休憩か何かあった時に、お話が。

井上

やりながらも。

坂上義太郎

どんなようなご質問をしていらっしゃったんですか。

井上

放光堂って絵具屋さんがいらして。そしたら私が秋野不矩の息子とフィアンセだなんて、仲良くしてるなんて知らないで、「美大の学生が秋野不矩さんのとこにはお金を借りに行くらしいです」って(笑)。貧乏で一番大変な時だった。でも貧乏だったからお母さんもあれがあるんでしょうね、お金貸してあげられるし。それから畠中さんに「もっと深い絵の具を使い」って、自分の絵の具をあげたり。そしたら放光堂さんが「上村松篁さんの事は大嫌いだけど、秋野不矩さんは、」って。話が終わって悪口じゃなかったから、下村先生が、「この人、秋野不矩の末息子の嫁」とか言って(笑)。飲み屋さんの、八参のちっさいおじいさんが、下村先生の所に、おのみ(クジラの身)を持ってね、そこで切ってくれはって、私もお相伴に。それでうちの母が学校に(御礼の)お酒持ってきて(笑)。大谷大学の学校入った所に赤レンガの建物があるんですけど、大正位に建ったんでしょうけど、そこの2階でね。帰りは、「章子ちゃんこれから紅画廊に行くから一緒に来るか」って言って下さって。美術展にもよく連れて行ってくれはりました。

坂上義太郎

下村先生、ご自分の絵の事なんか、自分はこんな思いでこういう作品をつくってるんや、とかそういう事は。

井上

それは全然言われなかった。そういうの肩ひじ張っていうのが、まったく違う感じで。上村松篁さんが、不矩さんよりちょっと、前年位に(インドに)行っておられたんですよね、それで、庭にいる、檻の中にいる孔雀とかね、不矩さんみたいにバスに乗って違った方向に行って放浪して帰って来るみたいな、それを全然、そういうの怖がって、「ホテルから一歩も出なかったですわ」って言ったとかいって。そんな話を面白おかしくしゃべったり。その後(先生は)お金をもらって(インドに)行ったとか。

坂上義太郎

(下村先生は)イタリアかフランスの留学賞とられて、ウナックサロンという(のを主宰者している)海上さんとね、一緒に、1年遅れて行かれたんですよね。で、帰りにどこか、インドか、寄られて帰ってきた。

井上

インドに寄って帰って来たみたいですね。その時に、秋野不矩はもう日本に帰ってたけど、亥左牟(いさむ)ちゃんっていう次男がヒッピーで、日本でものすごい学生運動して傷ついて、子どもも日本に出来たのに、お母さんが、もうこの子死んでしまうかな、というのでインドへ連れて行って。そしたら亥左牟ちゃんはインドでビートニクの人たちの思想に触れて。その頃に下村先生もインドに行って、亥左牟ちゃんに出会ったはず、らしいです。大谷大学にイースタンブディストっていうのがあって、西谷啓治さん、京大の哲学の先生が、イースタンブディストの情報を知ってらして、私の親戚の者がそこの学芸員みたいなのになったんですよね。そしたら「イースタンブディストのポスターを描いて下さい」って、親戚の者から頼まれて。バンドウさんっていうんですけど。1枚だけのポスターなんですよ。下村先生の部屋で描かせてもらった。薄くぼやかした蓮の花弁を描いていたら、「章子ちゃんは何か変な感覚を持ってるなあ」って言ってくれて。下村先生すごい褒め上手なんです。朝日のカルチャーセンターで講師しておられたから。この間も、オオウチさんって友人が、スーチーさんがちょうど留学していた時で、スーチーさんと仲良しで、スーチーさんを連れて下村先生の教室に行ったんですね。スーチーさんはそんなに今みたいに有名じゃなくて、京大の留学生で、何か退屈そうにしているからいっぺん行こうって言って。それでカルチャーセンターに行ったら、スーチーさんの絵もすごく褒めて下さって。みんなすごいいい気持ちになって。先生やっぱり、そういう、いいとこ見ていこう、って。だから鶴見さん流ですね。私も褒めてもらえて、すごく気持ちが良くなって。スーチーさんもすごく楽しかったみたいです。

坂上義太郎

ここにも来られたんですよね。

井上

(軟禁から)出てこられて。初めての時に。その親友だった人が、「お昼ご飯スーチーに食べさせてくれよ」って言って。

坂上義太郎

先程お聞きしてね。大学を中退されたってね。その時下村先生に「何でやめんねん」って言われたとか。

井上

ああ、その時は、何かカーっとなっててね。でも等と結婚した時には、お祝いに駆けつけて下すって。不動先生も下村先生もすごい面白いスピーチをして下さって。1970年に結婚したんです。その後(学校を辞めた後)私、京都書院に入ったりとかしてるから。不矩さんからもらったサリーを着ていたんです。そしたら下村先生が、「もっとヘソ出したり、インドはもっとそうなってるんや」って(笑)。サリーもお母さんが着せてくれはったんだけど、ホッチキスで止めたりとかして(笑)。ホッチキスで私の身体まで(笑)。下村先生本当に面白かったです。だから中学の先生してらしたというのも、きっと面白い先生だっただろうと思います。

坂上義太郎

熱心なのは、中学の学校の先生をしておられる時にね、美術か図工に関する書籍をあらわしておられる。美術教育に関して。熱心に指導をね。それにテニス部の顧問をしておられたって。先生テニスもしておられたのかなあって思ってね。それに作家活動もやっておられたから。すごい方だなあと。学校の仕事もしっかりしておられた方だなあと思って。大学でも幼児教育の学生さんだけでなく、他の学科の中でもそういう風に接しておられたというのはすごく度量のね。

井上

……等は大工さんになりたい位。陶芸家だったんですけど。夜中に(工事をしてしまうと、ご近所の方から)怒られてねえ。下村先生は、等のお父さんとも仲が良かったんです。沢さんと。不矩さんも日展に反逆した人たちの事が好きで、下村先生のパンリアルを見に行っておられたし。ケラ美術ってのもありましたね。その中に野村久之さんっておられて、その奥さんのはるみさんっていうのはここに下宿しておられたの。大体昭和24-25年、25-26年位かな。その時に、はるみちゃんが、「先生が離婚された」というのを言ってて。それが秋野不矩だったんです。今思えば。だから初めて等と出会った時に、何となく頭をよぎった気がするんですけど。でも(はるみちゃんからは)私が小学校2-3年の時に聞いたから、ちゃんとまあわかってなかったんですけどね。そんな事もあって野村さんとも親しくなって。そしたら美大の先生は、学生の時に発表すると(先生は展覧会を)見に行っちゃいけないって(ルールがあった)。「でも(秋野)先生だけはちゃんと見に来てくれはった」って言って。野村さんも不矩さんの事とても好きでいて下さって。下村先生も不矩さんの事大好きで。でも沢さんと何かいろいろ男同士お付き合いがあったみたいで、結構仲良かったみたい。「ずっと木屋町の高瀬川に(沢さんが)座っておられた事があった」って聞かせてもらった事が。

坂上義太郎

野村久之さんはね、亡くなった京都近美の、国立国際にも行かれた、すごい個性的なコスチュームでいつも歩いておられた、福永(重樹)さんと(友人同士)。二人とも関東の方の出身だから。高校か何かの時の同級生。

井上

(野村さんは)東北の方の創画会の先生の紹介で、一番最初、京都美大に入った時は、不矩さん所に、その秋田の絵が(あって)、「それで一番最初に伺ったのが秋野先生のおうちだったんですよ」って言って。だから野村さんの事もお母さん気になっていたのか、「秋野先生だけが(展覧会を見に)来てくれはった」って言ってくれて。……鶴見先生が、ケラ(美術協会)の、ケラ村って昔あったんですよね、そこに脱走米兵をかくまうって、野村さんとこに誰かの伝手で行かれたら、久之さんの方が「どうしようかな」ってちょっと弱気になったら、はるみちゃんの方が、

坂上しのぶ

「アメリカの方が悪いんだからあなたやりなさい」って。

井上

そうそう、そうなんですって。それを鶴見先生が、「感心したなあ、あの妻君には」って。

坂上しのぶ

まさか日展の、すごいおしとやかな感じの。

井上

おとなしそうな方だけどものすごくしっかりしてらして。私が幼稚園か小学校1-2年頃に、はるみちゃん、この上に下宿しておられて。絵を描いてはったんです。この2階で。父が早く亡くなったもので。下宿屋さんをしないとやっていけなかったんですよ。だからここの2階に3人、向こうの2階に2人、合計5人位を下宿して差上げた。誰だっけ、名前が出てこない、吉岡堅二と…創画会のあけぼのの時ね。

坂上しのぶ

野村さんの所に「かくまってくれ」と言ってきたのは鶴見さん。だけど野村さん曰くは、何で鶴見さんがうちに来たのかわからない、って。

井上

鶴見さん突然行ったりするからねえ。ケラ村ってのが、自由を求めていろいろ活動してるんだってのは。

坂上しのぶ

ここがアンテナという訳では。

井上

ここも全然、まだそれほど鶴見先生とは縁がないんです。でも一番最後の下宿人は鶴見太郎さんだったんです。80年位に浪人してられて。大学の先生になれなくて浪人してられて。「ここにちょっと本を読む部屋を貸してもらえるか」「どうぞどうぞ」って。もう下宿料も取らないつもりだったんだけど、ちゃんと3万円位。等と一緒にお酒を飲んで、夕食食べるのが80年代のすごい喜びだったの。だけど、私も等もお酒飲んでお話聞いてるとね、すっかり忘れてしまって。お酒飲むと記憶力が(笑)。

坂上しのぶ

鶴見俊介さんとはどうして。

井上

亥左牟ちゃんっていう、等の2番目の兄、インドに行って最後ヒッピーになって解放されてという、その亥左牟ちゃんが高校生の時に、鴨沂高校で火炎瓶投げてね、火炎瓶闘争っていうのが昔の共産党にあったのね、若い人を使って。亥左牟ちゃん洗脳されて。それで、あ、でも、不矩さんは理解しようとしたみたいね。逮捕されたの。少年院に送るみたいな。沢さんが迎えに行ってね。まあそういう時代があって。その時に亥左牟ちゃんより一つ上の北沢恒彦さんっていう、黒川創っていう作家がいる、その人のお父さんで、亥左牟ちゃんと鴨沂高校の同級で、彼がいろんな事を教えたらしいの。その人が鶴見さんの片腕みたいな、『思想の科学』みたいな仕事をして、ここに出入りするようになって、なんです。で、いろんな事がありました。宇佐美夫妻も見えて。来て下さったんですよ。畠中さんがうちに見えてた70年代前後は、まだうちにお手伝いさんがいててね。でももう誰もいなくなったの。今は息子と私がいろいろと。

坂上義太郎

下村先生もこちらに。

井上

いらっしゃいました。えーっとね。沢さんはね、私、結婚式の御案内出したんですよね。でも全然返事が来なくって、最後の最後に“欠席”ってそれだけが来て。「やっぱり駄目だったねえ」って等と。そこの田中弥さんとか、狂言仲間が、あ、下村先生のお父様が能楽師で、とても親しいあれで、それで田中弥さんの所も父(沢さん)がよく(行っていて)かわいがって下さって。「弥一が行くなら行きたいな」って(沢さん)おっしゃった(ような)ので、もう向こう(沢さん)は家庭も持っておられて息子さんもおられるのに、私がお父さん(沢さん)に(結婚のご案内を)出したんです。そしたらギリギリの所で欠席なんですよね。で、そんな風にして沢さんと下村先生はよく飲んだの。で、飲み屋で、私に、孫が、子供が出来たらしいというのを聞いて、みんなでわーっと、酔った勢いで、徳正寺に来はったんです。その時2階に玉突き台があって。等が玉突き好きだから。古道具屋さんですごく安くて出ていて、それで玉突き台を入れてあげて、そこで飲んだり、書斎だった所を。下村先生は、玉突き台が古道具屋で売ってるという事実にもう驚かれて。「私も買う!どこの玉突き台だ?」って。沢さんは、(沢さんの孫にあたる)迅(じん)が、あそこの2段ベッドで寝ているのを見てね、ちょっと涙流してはりました。そんな風にして、下村先生と沢さんが酔っぱらった勢いで。その後は小川後楽さんの初釜でお目にかかって。すごい楽しかったです。お酒あてクイズっていうのがあってね。そしたら等が「これは越乃寒梅に違いない!」とか言ったらね、みんなそれ越乃寒梅だと思ったらね、違ったんです。うちは越乃寒梅なんて飲んだ事ないのにね(笑)。それを下村先生に式のスピーチでからかわれてね。「秋野君があんな事を言ったからみんな信じて」って(笑)。

……(ギャラリー)16が寺町のサンボアの所にあった時、あの頃、柏原えつとむさんは16で良くやってて、親しくしていたので良く(16に)行って。あの時(私は)ミニスカートで、ちゃらちゃらした女の子だったんです。ビートルズのお人形を膝の上に乗っけていたら、堀内正和さんが「そのお人形見せて下さい」って。下村先生は「お尻が何とか」っていう堀内さんの(作品を)預かっておられたの。堀内さんとも親交がおありだったみたい。(堀内さんが)そのお人形が面白いって言って下さってうれしかった。

坂上しのぶ

……あの辺り纏足の人いなかったですか?

井上

……吉田日出子ちゃんが『上海バンスキング』の時に、中国で纏足の、元娼婦だったかな、もしかしたらすごい令嬢だったのかもしれない。「纏足っていうのは遠近法があれになって、遠くにいるように見える」って。「纏足の人が小さいせいもあるかもしれないけれど」っていうのが面白くって。吉田日出子ってそういう風に世界を捉えてるんだなって思ってね。面白かったです。彼女は『天平の甍』とかで何度か中国に行ってるみたいで、中国人の恋人が出来てね、遅れて来はったり(笑)。

坂上しのぶ

京都書院で働いてらしたんですね。いつ位に。

井上

1年しか。この子がお腹に出来て。つわりがすごい辛くて。69年末から拾ってもらえて、1年半位。迅(じん、井上章子さんの御子息)が生まれるまで。だからすごいいい加減なんです。その時に山下菊二さんとか谷川晃一さんとか。それで徳正寺が町の真ん中にあるお寺だというのでここみんな来て下さって。泊まるのは墨染の方に。みんなをお泊めしたんですけど。ここでね、私がそこのおうどんやさんでしっぽくをとってね、ここでお昼食べてもらったんですけど。わかるんですよね、なんかしっぽくを持って来てくれはる感じが。で、私が「来はったわ!」って外行ったら、みんながね、「忍者みたいや」って。(京都書院)ギャラリーはね、小さな本屋の上の階で、エレベータもなくて、すごい不思議な展覧会をしてると、へんてこな人が来て。でもその時に生田耕作っていうフランス文学者の、生田先生がいらして下さって。そしたらその人の奥さんが、不矩さんの一番最初の教え子だというのがわかったんです。そんな事でね。不矩さんも山下菊二さんと出会わはった時、「素敵な青年じゃない?」という風にね。(山下さんって)とっても誠実に話される方でしょう?お母さんは朝倉摂さんを通じて知り合いではあるみたいだったんですけど。そしたらもう、お母さんったら、「日本画家には社会主義がありません」ってね、何べんも。山下さんと出会ってからずっと言ってた。そしたら内田あぐりさんが、「そう、何にもない」って言ってた(笑)。生田さんは神戸でサバト館っていうのをねえ。そしたらその前の本妻さんっていうのかな、生田しょうこさんっていうんですけど、その息子たちが成長した時にうちで結婚式をあげて、等が司祭みたいにね、そんなお付き合いなんです。お寺っていろんな事があるんです。お葬式お願いします、とかね。……『ガロ』の長井編集長っていう、とっても素晴らしい編集者なんだけど、その長井さんもここに御骨が納まってるの。友部正人っているでしょ?フォークシンガーの。あの人の息子が長井さんを尊敬していて、ふらふらっと。迅の友達がここに来たから「長井さんのお骨がここに納まっておられるんですよ」って言ったら、「長井さんの歌をつくってた」っていうので歌ってはりました。

坂上しのぶ

柏原さんとはどういう。

井上

田島征彦って、田島征三さんの双子の征彦さんの方がそこのアヅマギャラリーっていう額縁屋さん(で展覧会のキュレーションをしていた)。アヅマギャラリーの息子と私は学校の同級生で。宮城正ってもう死んじゃったけど。真さんって真ん中の人は創画会に出してて。その宮城君の家が額縁屋さんなんだけど、そこで山下さんの展覧会を初めて見たんです。田島征彦さんがいろいろやってて面白かったです。卵に絵を描くのとかね、加納光於さんとか、宇佐美さんとか、そういうちょっと面白い人たちに。アイデアが面白い。近くですから、いつもごはん食べたら何遍も(ギャラリーンに)行って、そこでそこの学芸員だった長曾我部さんという人に山下さんの事を聞いたりして。そんな感じでアヅマギャラリーに足しげく通って。柏原さんともそこで。この辺の画廊では、他に府ギャラリーというのが御旅町の、府ギャラでね、不矩さんはインドの、帰ってきてから展覧会を初めてされたの。その時にガンジス川の一双、一双って六曲が二つですか、それにガンジス川の流れを、前よりもっと過激な絵、流れだけを描いて、濁に渦巻くような黄色い。それも全部焼けてしまって。

坂上しのぶ

京都書院で柏原さんの関係でいろいろ。それこそ彦坂さんとか。

井上

彦坂さんもいらして下さった。

坂上しのぶ

どういう関係でそういう作家達が京都書院でされていたのかずっと疑問だったんです。

井上

京都書院に私がいた時に、田島征彦からお願いしてもらって、柏原さんに、っていうので。(柏原さんから)“指令”が来てね。水上旬さんっていうのがまた、

坂上しのぶ

知ってます(笑)。

井上

京大の塔から裸で落ちはった人(笑)。柏原さんが私たちに指令して、何かを柏原さんの指令書に添ってやれ、と。向こうはMr.Xとかやってらしたから、指令書を水上さんかに発送しはって。(私はでも)どうしていいのかわからなくて。ちょっと考えて。穴の開いたボードが京都書院の壁面なんですよね、ほんとに一番安でのやつで、私たちその頃、ダーツって言っててね。その穴を使って何かグラフをつくろうっていうので、糸でこういう風にグラフを貼って。何人かのグラフを重ねて貼って。そんな事をして。柏原さんにはそれは伝えてないです。水上さんは文章がダーッと。ものすごく論理的な何かをしていたりして。だから最極端でいいかなって(笑)。そんな事をしましたねえ。それで柏原さんとすっごい仲良しになって。柏原さんも伏見の人なので墨染の前を通って帰られるんですよ。で、彦坂(尚嘉)さんをお連れになったり、誰やらをお連れになったりして。で、このあいだ富岡多恵子さんが亡くなって。それで亥左牟ちゃんの知ってる黒川創って、富岡さんを晩年ずっと支えてた、それで多恵子さんのお骨を大阪でどうしたらいいだろうって、菅木志雄さんがわかんなくて、黒川創を頼ってはったのでね、黒川創が「京都の徳正寺にお骨を納めたらどうか」っていうので。それで富岡多恵子さんのお骨はうちに収められてるんです。4月7日か何かに、迅が一周忌をするみたい。

坂上義太郎

実は伊丹で、菅木志雄さんの展覧会をやったんですよ。菅木志雄さんの神奈川の伊豆のアトリエに作品の集荷と返却にも行って。伊丹でやった時には富岡多恵子さんもいらしたんです。関西の方で、(卒業は)大阪女子大かね。ちょうど朝日新聞の読書欄の書評を担当されておられて。菅木志雄さんと会っていた時は、一切お出になりませんでしたから、初めてお会いして。すごいオーラのある方でねえ。

井上

東京(伊豆)のご自宅でお亡くなりになられたの。赤瀬川さんが装幀してらしてるから間接的には接点があったけれど、私はそんなに富岡さんと。柏原さんと菅さんは多摩美の(同窓)。それでちょうど富岡さんのお骨をお納めしている時に、柏原さんから電話がかかってきて。70年代の京都書院に、「章子さんいはる?」って、柏原さんが菅さんと歩いてたから。年に1-2度しかかかってこない柏原さんから偶然に電話がかかってきてね。(柏原さんは)等が亡くなってすぐにお参りして下さってね。もう涙ぽろぽろでね。本当に仲良くして下さって。菅さんは去年、お骨を持って京都駅に来られて。「どっかで食事してお参りします」って言われたのでね、「お骨を持っていらっしゃるんだったら、徳正寺にいらして下さってご一緒しましょう」って。映画俳優の……

坂上義太郎

彼、映画もつくってるんですよ。監督で。自分も演じて。1本だけ。横浜の美術館の人が役者で出てるんです。

井上

今はなんかね、私と一緒で、YouTubeか何かで、古い、そういう古い女優さんのね、上海リルのね、歌の出てくるのを見てとてもよかったとか言ってらして。私が「上海リル」唄ったら、「そうそう!その歌その歌!」って(笑)。今度8日か、お参りがあるらしいです。この間、妹さんと菅さんとそれから黒川創っていう紹介した北澤さんの息子、亥左牟ちゃんの。ここに一旦お骨を納められて、それから大谷さんに。私、谷川晃一さんの……

坂上義太郎

よくご存じで。実は伊丹で谷川晃一さんの展覧会を。BB(美術館)でも谷川晃一さんの展覧会をさせてもらったんです。伊豆のアトリエに何度も通いました。奥さんも何年か前に亡くなられて。

井上

私、その前の奥さんも存じていて。私、谷川さんのお家に泊めてもらった事がある。宇佐美さんが20世紀美術館で展覧会された時に田島征三がいたりして、谷川さんも見えてたんです。 ……中西夏之さんは、赤瀬川さんとすごい仲良くて、ハイレッドセンターでご一緒だったでしょう、高松次郎さんと私もご一緒した事あるんですけど、中西さんと一緒に、等の初個展の時にどどっと来てくれた事があって。その時に、毎日新聞の偉い人が中西夏之さんの奥様のお父さんで、美術記者なのか、等と話がはずんでました。‥‥…菅さんの姪ごさんがお芝居好きで、すごい新劇や歌舞伎がお好きで、「特に吉田日出子さんはすばらしい」と言って下さってうれしかった。

坂上義太郎

ここにお邪魔したのはね、伊丹の美術館の時に松本竣介の展覧会をしてたんです。神奈川の美術館と。で、原田(光)さんに講演してもらったの。その時に、「これから京都の徳正寺っていう所に行くんだけどあなたも一緒に行かない?」「どういう関係でいかれるの?」「山下菊二さんのふくろう忌があるんですよ。」と。それがご縁でこちらにお邪魔する事になって。

井上

山下菊二さんは何故か徳島のご自分のお家の菩提寺は嫌だって言って、息子のお経で、「徳正寺に行きたい」って言ってくれたんです。

……麻田辨治さんとお母さん仲良かったんですよ。一緒に映画を見に行ったりしてね。一緒にご飯食べたり。お母さんが火事を2回起して。創画会の審査を終えて一人でお手洗いに、お母さんが、そしたら涙をボロボロ流しながら、麻田鷹司さんがお見舞いに。目立った所でしたらいけないから、女性の小部屋で。そういう人なんですってね。二人でボロボロ。麻田鷹司さんってやさしい方だった。

……八木一夫さんはね、下村先生が「これ50円で買うたんや、陶器市で」って。八木一夫さんのおちょこだったって。無名のおちょこでね、下村先生しか発見出来なかったって事があって。八木一夫ってすごいかっこいいし、面白くって。一回、京都書院でシンポジウムをしてもらおうと思って言ったら「いらっしゃい」って。結局してもらえなかったんですけど、伺ってお聞きした話は楽しかった。数珠の話とか映画の話とかいっぱいしてくれて。秋野不矩の息子が来たっていうのもうれしかったみたい。

…芸大は学生運動ぜんぜん気がなくってね、何とか反対っていう人は等一人だったって。ある時不矩さんが「飢えてるのは学生です」って言ったら、新田さんっていう美学の先生が「すごいなあ」って。そしたら「不矩ってアナーキーって事だもん」って。芸大生ぬるかったみたいですよ。

……鶴見太郎さんも小さい時メキシコに行ってたって。その時にね、飯沼次郎さんって京大の農学博士がいらして、メキシコは雑な国で全然給料くれないんですって。それで細々とやっておられて。一番最後の日にドカーンとくれたんですって。それでどうしようと思って、ずっとあこがれて見続けていたタマヨの絵を買われて、持って帰ってみえて。不矩さんがタマヨ大好きで、飯沼先生の所に行って見せてもらったって言ってた。京都の大学の先生、文化人の関係も面白いなあと思って。そういうのもまた書いてほしいわ。京都の立命の先生が…林屋(辰三郎)さんとかみんな交流があるの。

……アヅマギャラリーの息子たちはねえ、下の、のんちゃんってバレーやってた子。宮城正っていうのはうちのボーイスカウトで来ていたのでね、なつかしく思い出す。ギャラリーになってびっくりしました。過激なね。(ギャラリー)16と対峙しているような感じでね。

坂上しのぶ

生まれも育ちもここなんですか?

井上

ずっとここ。墨染に行った位で。

坂上しのぶ

まさかお寺に来て、インターナショナルを聴くとは思わなかったから(笑)。

井上

私の父親がすごい新劇が好きで、戦後間もない頃に、文学座や民芸や俳優座等をここでお世話して。本堂を使ってたりして。その流れで俳優座の斎藤憐とかね。等と私、畠中さんも私の黒歴史を知ってると思うんだけど(笑)、等と結婚出来ないかなあとガタガタしている時に畠中さんもそうだったし、斎藤憐っていうのがいろいろ考えてくれてね、「等がここへ入って、ここへ窯を持って、お坊さんをやれば、何とかなるんじゃないか」って。そういうふうに母に言ってくれて。不矩さんにも言ってくれたりして。それでまあ結婚する事になったんですね。そしたら等の陶器が売れないと!ってみんなで何か、憐さんは行商みたいな事をして(笑)。いろんな関係者のちょっとお金持ちの人を墨染の家に連れてきたりしてね。売ってくれたりして(笑)。

坂上しのぶ

窯はどこに。

井上

墨染にあったんです。ここに帰ってきてからは、庫裏に窯を自分でつくって。等は手仕事が大好きだったから、ここの蛍光灯も全部変えてくれて、……全部やってくれました。

坂上しのぶ

この茶室が出来る前はここは壁だったんですか?

井上

そうですよ。普通の京都の苔むした、庭石があって。よくお寺にあるような。それを藤森さん全部砂漠みたいにしてしまって(笑)。でもね、藤森さんとは気が合ったみたいで、不矩さんの美術館をつくるのも、お母さんが藤森さんの処女作見ただけで感激してしまって、処女作だけで「美術館をこの人に」って。お母さんも大胆な人だったから。(茶室は)13か月。1年と1か月かけて(つくりあげた)。藤森さんが関西の方に見えたら1日うちに泊まって等を指導して。等は自分の趣味もあるし。

坂上しのぶ

の上にっていうのは。

井上

藤森さんの案なんですよ。それでこの辺りお便所だったからジメっとしていて。藤森さんも一緒に掘ってくれはったら、黒い石がいっぱい出て来て、「応仁の乱でこの辺もやっぱり焼かれてるんだ~」って言って(笑)。「もしかしたらそこ、お便所の底から染み出たので黒くなったの違いますか?」って言ったらそれからもう掘るのやめはった(笑)。

坂上しのぶ

明治の時、蛤御門でも焼けてますよね。

井上

そうですそうです。でもうちは蔵があったので何とか宝物が焼けずに済んだらしいですけれど。寺町のお数珠屋さんも、お数珠は焼けずに済んだって所がありますし。

……下村先生の新年会にも行った事がある。堂本阿岐羅さんが同級生でいらして。何人もお酒飲んでられて。等と一緒に行って、「秋野不矩の息子と嫁」って(紹介してくれた)。思い出した。いつもお正月にはね。パンリアルとか越えて。堂本さんは日展でいらっしゃるんだけども。

坂上義太郎

僕らが学生の頃の三大劇団といえば、文学座、俳優座、民芸だったのでね。戦後まだ京都で公演される時に皆さんご苦労してるから宿泊費も結構かかるんで、経費的にもかかるしね。
……この仏様はね、等さんの最後の仕事ですよ。かなりもう体調が良くなくてね、僕が最後の方にお会いした時は酸素吸入しながら。ボンベ持って歩いておられた。等さんは喘息でしたかね。

井上

肺気腫で。煙草の吸い過ぎなんです。いつもくわえ煙草してたの。

坂上義太郎

僕はねえ、(村山知義を)演劇でしか知らなかったの。

井上

吉行和子さんのお母さんの美容室(の設計)が村山知義だったんだって。ダダイストでしょ、お父さんが、吉行エイスケって。私、吉行さん、『アンネの日記』以来のファンで。「私の部屋は三角でね、四角の部屋に寝たいと思った」って。

坂上義太郎

僕、村山知義の主催していた東京芸術座へ入りたいと思って稽古場行って、『蟹工船』の演出していらっしゃる時に、村山先生の演出の横で見せてもらってたの。それでね、井の中の蛙大海を知らず。その時(村山先生は)白内障の手術の後で。(手術は)片目ずつやるから。そしたらね、声だけでダメ出しされるんですよ。芝居の稽古を声だけで演出として、ダメだし出されて。「もう一回、もう一回」って。それでリズムのある、靴音で、足音まで聞いておられるんですよ。目が見えないから。「もう一回」「違う」「歩き方違う」って言われて。セリフじゃなくしてね、足音でダメだしされるの。これは僕、もうとても及ぶ所じゃない、って。それで諦めました。でも感激でした。

井上

鶴見先生のおいとこさんが、後藤新平の孫になるんですね。鶴見先生って後藤新平の孫なんです。だからアナーキストたちが後藤新平に(会いに来る)。お金を無心に来る人でも(後藤新平は)まっすぐ来る人にはお金を渡しておられたらしいです。その話もして下さって。それで、斎藤憐が鶴見先生のおいとこさんの佐野碩っていう、ドイツからロシアに行って、メイエルホリドにお芝居を教わって、最後はメキシコで客死されるんですけど、「僕はいとこがいっぱいいるけども、(佐野碩が)一番好きだった」って。いとこっていうのはお妾さんの子供も含めていっぱいいるけど、佐野碩が大好きだったんだって言って。いろいろ話して下さった事があります。佐野碩って人がインターの歌詞を新劇の佐々木孝丸と一緒に。二人でつくられたらしいです。

坂上義太郎

佐々木孝丸って新劇の役者なんだけど、食えない時は、東映とかの悪役で良く出てらっしゃった。京都だったら吉田義央さん、あの方も食えないから東映の映画で悪役をしてられたんです。

井上

遠藤太津朗っていうのはうちの父の教え子で、

坂上義太郎

大阪で演劇活動していらして、食えないからやっぱりね。(映画で)悪役をしてられた。

井上

だから私ね、祖母に、「どうしてうちにはええものがこないの?」って言ったらしい(笑)。千田是也さんでも小沢栄太郎でも、みんな悪役でしたものねえ。

坂上義太郎

僕ねえ、千田是也さんに、大阪でお芝居している時に講演会の講師で来ていただいて。宝塚に静山荘という料理旅館があるんです、清荒神の沿道に。そこで合宿した時に、お部屋の割り振りで、千田是也さんと相部屋する人が、抽選になったんですよ。僕、当たったんです。千田是也さんと一緒のお部屋で寝てね。いろんな質問するでしょ。「先生の是也って珍しいお名前ですね」って言ったら、「関東大震災の時に暴動があって朝鮮の人たちが、なんていうのかなあ、全然罪もないのに引っ張られてね、事故、虐殺されていくと。私はそういう民族問題に憤りを感じてコレアンの是也としたんです」って。

井上

「千駄ヶ谷のコーリヤ」って言ってねえ。

坂上義太郎

それから、小林多喜二のデスマスクを取ったのも千田是也って。

井上

白井聡っていろいろマルクスの書いてる男の子が精華に先生でやってきて、徳正寺でゼミをしたいって言うから、「ああ、どうぞどうぞ」って言って。で、何か話してらして。そしたら千田是也が出てきて。でも早稲田の学生誰も(千田是也を)知らない。私、小さな時、抱っこしてもらってね。あそこの徳正寺の階段の所でみんなで写真撮ったのを見せて。皆でこうして見て。ああって。小林多喜二のデスマスクを取ってる人って、それ私も知らなかったけど。

坂上義太郎

それを千田さんから直接聞いたの。

井上

すばらしい。

坂上義太郎

たまたま小林多喜二の亡骸を前にしていっぱい人が集まってる集合写真を見たんですよ。その中に千田さんが写ってるんです。

井上

吉田日出子のお父さんも写ってる。

坂上義太郎

ああそうですか。僕ね、その写真を覚えていたから、「千田先生、小林多喜二の亡きがらのそばに先生写ってらっしゃるのはどういう御関係なんですか」って。そしたら、「僕はプロレタリア演劇だから、やっぱりプロレタリア文学の小林多喜二が亡くなったって事で、悲しみを禁じ得なかった。それで僕はデスマスクを取らせていただいたんですよ」って話を聞いたんです。

井上

千田先生って器用で舞台装置とか。

坂上義太郎

お兄さんか弟さんが伊藤熹朔。

井上

伊藤道郎ってね。

坂上義太郎

そう。三兄弟。『夜明け前』の舞台美術をしたのが伊藤熹朔なんです。それすっごい舞台装置なんですよ、滝沢修が青山半蔵を演じたのもねえ。もう。その舞台はすごいの一言です。

井上

わあ、すごいものを見てらっしゃるんですねえ。

坂上義太郎

僕なんか『セールスマンの死』とかアーサー・ミラーのね、そういう。

井上

うちの母が貧乏で、父が亡くなって、ここに下宿してもうて、野村はるみちゃんも置いてはったんですけど。その時に宇野重吉さんがね、京都の、関西公演の時に、「みんなと一緒の旅館に泊まると麻雀してしまうから、ここでお勉強がしたい」って言うのでこの部屋を。そこにトランジスタ・ラジオと原稿とペンが置いてあって、昼間はお芝居のために出ておられて、夜帰ってきてここで書き物したり、私たちと一緒にご飯食べたりしたんですよね。そしたらある日、あそこに火鉢があるでしょ、そこに鉄瓶がかかっていたら、その鉄瓶が転がってしまっていっぱい灰が落ちて。そしたら千田さんが、「第五福竜丸を思い出す」って(笑)。私、中学生位だったから、うちの祖母も母も、みんなでこの辺を拭いてね。だからどっかその辺にまだ灰が残ってるかも(笑)。

坂上義太郎

宇野重吉で思い出した。宇野重吉ね、コーヒーがあんまり飲めなかったの。フランソワ。阪急河原町駅の横にある古い喫茶店ね。ジャン・コクトーも来てるの。番台みたいなのがあってお金支払う時は。後ろにね、ジャン・コクトーの絵がかかってる。それからマリー・ローランサンの版画がかかってる、戦前からの喫茶店があるんですよ。でね、そこへね、劇団民藝が京都で芝居したら、宇野重(吉)、コーヒーが嫌いだったけどフランソワの珈琲は飲めるっていうの。ちょっと苦いコーヒーなの。古い喫茶店があってね、あそこは民藝の方が良く利用されておられたんだなあと思って。

井上

前進座もね。

坂上義太郎

ああ、民藝とはね。中村翫右衛門という方は、後にちょっと政治的な事で前進座を除名されるんですが。何時だったか宇野重吉が演出で、天皇をちょっと風刺した、原作者忘れたけど客演で、翫右衛門を劇団民藝に招聘されて、客演してるんです。もう一人誰だったかな。天皇をちょっと風刺したお芝居だったんですよね。ご存知のように前進座も、河原崎長十郎が中国共産党に惹かれてたんで、どうもソ連共産党と中国共産党と、共産党の中でもいろいろと思想、違いがあったりしてね。まず河原崎長十郎が除籍されて、しばらくしてから翫右衛門も疎んじられるようになったんですよね。

井上

今日もね、写真調べてたら、父や母と宇野重(吉)が映ってたんです。民藝さんが一番いらしててねえ。

……不矩さんも脳梗塞やりましたけど最後までとんがってましたよ。

……私ね、西部邁って人と仲良かったんですよね。西部邁は不矩さんとインドに一緒に行ったりして仲よかったんですけど。西部さんが、「不矩さんの西武の展覧会のオープニング・パーティがないのでかわいそうだ」って言って。西部さんが主催して、新宿のゴールデン街で秋野不矩さんの展覧会のあれをしてくれはって。西部さんは昔、全共闘のあれ、ブントの一番最初のあれ。やってくる人みんな危ない人ばっかりで。牧田吉明って、もう亡くなったけど、昔三菱に爆弾を持って。不矩さんのインドの展覧会のオープニング・パーティが全部怪しい人ばっかりで(笑)。“ウサミサワコ”(宇佐美圭司の妻)っていうのもまた大江健三郎を怒らはる位に女傑なんだけれどもね、“サワコ”さんがばーんと座ってはるから。すごいパーティをゴールデン街でやったんですよ。

……等は全共闘運動を(美大で)一人か二人でやってたらしけど。私も斎藤憐について京大の封鎖されている所に行って、教養部が塞がれていた、門番が立ってる、中にいらっしゃるベンヤミンの研究家の野村修さんっていう、憐さんが会いたいっていうので、私ご案内。したいんだけど、門番がいて、どこに行ったらいいかなあって。(それで門番に)「自由劇場で中核です」って言ったら、「どうぞ!」って言って(笑)!入れてくれたの。そしたら野村修さんってとっても翻訳のうまいやさしい先生がちゃんと中に入れて下さって。ご自分の昔の教室だったらしい、そこへ行って、教室か職員室だったらしいけど、かっこよかったですよ、野村修さんは。いろんな授業を、みんながそれぞれやってるみたいで。授業っていうか、話し合いしてるっていうの、いいなあって(笑)。

井上

母がで

井上

母がで

井上

母がで