インタヴュー
Interview
於:京都市左京区真如堂町 畠中光享アトリエ
インタビュアー:坂上義太郎 坂上しのぶ
僕は1966年に大谷大学文学部に入学しました。下村先生と同期入学です。卒業したのは70年です。僕は寺の子で、実の母は6歳の時に亡くなりました。小学校4年になる前かに後妻さんが来たんですが、結構きつい人で、僕は「おしん」みたいやったんです。高校は就職がいいからと、歩いて5分で行ける工業高校に行けと言われたのですが、結局、普通の高校に行きました。その後は、先生になったら食い扶持心配しないでいいからって、奈良学芸大学という、今は奈良教育大学になってますけど、そこに行けと言われた。それでそれまで一度もお腹を壊した事のない僕が、体調悪いって言って受験しなかった。だから僕は受験しなかったというだけで1年浪人してるんです。本当は美大に行きたかった。その時から僕は大阪市の美術館の地下にある研究所でデッサンしたりするようになりました。通天閣の下のストリップも行きました。「にいちゃん100円でいいから」って。融通が効いたんです。学習しました。ヌードデッサンもやってる訳だから、同じようなもんじゃないですか。お昼はびっくりぜんざいっていう丼鉢一杯だけどお餅も入ってる、それだけでお腹いっぱいになっちゃう、そんなもんでした。予備校も行かしてもらえなかったから1年間は美術館の地下と図書館で本を読む。デッサンとか写生とかするだけでしたよ。うちの親父、大嫌いで。何もしてくれんしね。合わん親父でしたけども、一言いいよったのはね、「お前に総理大臣になってもらうよりも、ただの坊主になってほしい」「大谷大学に行かんか」って。そんなの聞いた事ない事なので、じゃあ行こうかと思った。それが大谷に行ったきっかけだった。その時は美大の受験もしてない。でも僕良かった。下村先生に会えたでしょう。

僕はもともと格闘形が好きなんです。親父が少林寺拳法をやっていて。でもこいつはろくな事がないと思ったのか、教えてくれへんかったけど。子供の時は床や廊下の拭き掃除や庭掃除してから学校行きました。中学校位の時からは親父の拳法のお弟子さんがやってくれるようになったからあまり掃除しないで良かった。それで柔道やったり、右でも左でもボール放れるので、どっちも投げの野球やったりとかしてたんです。
僕の田舎は、町のまわりにいくつか被差別部落があるんです。住井すゑさんの『橋のない川』って読んだら、これはどこや、ってすぐわかります。小学校って1人の先生が全教科教えるでしょう。その先生が嫌な奴でね、えこひいきの塊。その頃は、町のちょっと金持ちの子はみんな中学は越境入学したんです。1クラス5人位が大阪の学校、近代付属とか桃山、追手門。で、先生はその子らの家庭教師をする。試験では先に先生が答えを言ってあげてるから、こちらはどんなに頑張っても3番4番位はなれるけれど、そっから先は無理でした。それ位えげつない先生でした。僕、わざと相撲で気合い入れてやろうと思って、立ち合いでキンケリ食らわしてもうた。そしたら次の通信簿1つけられました。1って初めて見た。このやろうって思った。
そこで美術が出てくるんです。図画の時にね、僕はサクラの水彩絵の具で絵を描く。大阪の学校に行く子は油絵で描く。木のパレット広げて、ペインティングナイフで描く。そしたら下手でも上手に見える訳。もうほんまに『一房の葡萄』みたいなものでした。すごいうらやましかってね。僕は母が早く死んだからおばあちゃん子やった。当時は高校に入ると何か買ってくれるというのがあって、大抵は時計か万年筆やったんですが、その時におばあちゃんに「油絵の道具が欲しい」って言って買ってもらったんです。高校に入ってもしばらくは柔道やってた訳だけども、上の連中が女の子に悪さしよって部活停止になった。それで美術部に入ったっていうのが最初。その美術の先生が法隆寺の近所に住んでて、入江波光さんのお弟子さんでした。その時から日本画を教えてもらった。日本画の画材に取り組むようになった。その先生は「龍神」という人。龍の神と書く。和歌山に古い龍神村ってあります、そこの出身の人です。絵は少ないけれどもいい絵を描いておられた。その時は、大阪の阿倍野にあった昭和堂って絵の具屋に買いに行ってました。他の人はみんな油絵。僕だけ日本画。田舎の県展ってあるじゃないですか、高校三年生の時には、日本画県展賞、油絵市長賞、書道ただの入選、工芸ただの入選。書道以外はほとんど全部入ってました。こんな性格やから、学芸大でも行っていたら、光風会か一水会の親分になってますよ(笑)。卒業しても、この先生とは結構仲良くって、観音霊場三十三箇所に行く時も、先生がお金を出してくれて、泊めてもらって、一緒にいくつも旅行しました。真面目な写生の人で、奥村土牛さんより写生が上手でした。うまいけども絵はあんまり描いていなかった。ちょっと病弱でね、戦争にも行けなかったみたいです。
そんな事があって。大谷大学入るでしょう。その頃は西賀茂の一様庵(いちようあん)という尼寺に住んでました。大谷大学から自転車で15分位です。上賀茂の御園橋まで行って、右に曲がると上賀茂神社、そのまったく反対、西に行くんです。そこまでしか舗装はしてなかったから、ガタガタ道の所を5分ほど行った、白土三平が結核療養していた病院があったとこの横の寺でした。すごくいいお寺です。近衛家の菩提寺。
大谷大学文学部では仏教史を学びました。学長は曽我量深(そが・りょうじん1875-1971)さんです。真宗学の第一人者でした。91歳です。学生運動が盛んな時じゃないですか。機動隊に捕まりました。催涙弾にやられた。その頃は「なんでもいいからナンセンス」ってね、で、曽我量深さんは、「ナンセンスって、畠中君、これはねえ、コモンセンスだ」って言う訳。それ位に頭の切れる人でした。それから金子大榮(かねこ・だいえい1881-1976)って真宗学の大家が普通におられました。その時にね、哲学の先生が西谷啓治(1900-1990)さんっていう京大の、あの人が専門ニヒリズムだった。それで僕は余計アナキストになりました。大谷大学ね、美術の先生もいい先生多かったんですよ。普通の芸大に行かんような先生が多かった。東洋史が長広敏雄(1905-1990)さん、中国美術ですよね。絵巻物が梅津次郎(1906-1988)さん。で、陶磁器は満岡忠成(1907-1994)さん。考古学は角田文衞(1913-2008)さんとかね。錚々たる人がいたんで、いい学校でした。
僕が入った時と下村先生が入ってきたのと同じ時期です。先生は、幼児教育科という、図画図工を教える為の先生として来られた。最初は下村良之介って知りませんでした。奈良の田舎にいてたから。大阪の美術館とか行ってても、東山魁夷とかいうような普通に有名な人しか知る訳がない。それでも好みはありました。その頃から、香月泰男さんの絵がすごい好きでした。でも大谷大学に入った時は下村先生を知らなかった。同級生の井上章子(いのうえ・しょうこ)っていう(京都の)徳正寺(とくしょうじ)の娘が先生を知ってたんです。章子ちゃんの結婚相手は、秋野不矩の五男の等(ひとし)さん。陶芸やっていて。等さんが行ったお寺です。2人とも(章子ちゃんが通っていた)日吉ヶ丘の美術科の時から付き合うてたと思うんです。あの子は町の娘でしょ。で、下村先生をよく知ってて。それで下村先生に引き合わせてもらった。それが最初です。まだ美術同好会だった時です。そこで美術部を立ち上げる。入った時には美術の同好会はあったんです。でも同好会では学校は1万円しか助成金をくれなかった。だから部活にしようと思って美術部を立ち上げた。僕は3年間も部長したんですよ。次の奴は大学に残って教授になった。
井上章子ちゃんらのおかげで先生の所に行って、先生と知り合うたら、まあ、ベタベタでしたね。週に2回は先生のお供で酒飲みに。京都って5つ位文化人の溜まり場みたいなのがあったんです。一番行っていた飲み屋は「きぬよし」ってとこ。それから「らん」、先斗町の「ますだ」はタヌキがあって背中バンバン叩く奥さん。辻晋堂がいつもいた「カリーノ」。絵描きさんは少なくて、詩人とか小説家、シナリオライターとか。そこで知り合う人多かったですね。で、必ず先生は、近美とか市美のオープニングの時に僕らを連れて行くの。その時に、僕、先生を偉いなって思ったのは、決して、僕らを学生だとか弟子だとか言わんかった。作家として紹介してくれはった。これはなかなか出来んなと思った。まだ19歳20歳ですよ。えらいなと思った。絵は一つも教えてもらった事がない。
先生には官展への不満と、もう一つは、学生の時にちゃんと習えなかった事がある。学徒出陣なんかもあって基礎を全然習えてない。だから戦後の日本がむちゃくちゃになるし、絵画も後期印象派から一歩も出てない。僕はそう思った。線一本引ける絵がなくなった。変な事を言ってしまうとね、堂本印象でも若い時はみんないい訳ですよね。日本画って一番良くなる可能性があったのは、明治の頃は西洋画が入ってくるから非常に中途半端だった。西洋画と中国のをどういう風にしようかという葛藤をやっぱり明治期は持ってるんですよね。日本画って言葉も明治44年(岡倉天心)やと思います。明治維新が西洋画に対して付けた言葉で。だからいつも西洋画と日本画の葛藤なんですよね。僕はね、菱田春草の絵はいいけども、早く死んだというのと、《落葉》ってあるじゃないですか、朦朧体って、あれはね、絹本はぼかしが簡単に出来るんです。これが大きい事ですよね。大観の《夜桜》だって一緒で、上村松園さんのこの辺の生え際だってそうですけど、これは紙とかじゃ絶対出来ない。絹だから出来る事。空気遠近法をぼかしで日本画は取り入れられたから、日本画は早くに西洋画となじんだと思ってるんです。まだでもやっぱり古い筆法自体が一癖あるような筆法でしたから、当時の中国ですかね、中途半端。大正位になってくるといろんなもんが入ってくるじゃないですか。中国だって宋元画を勉強する人が出てくるし、やまと絵を描き直そうという人も出てくるし。西洋画だって、それまでは黒田清輝なんかが印象派の時代にパリに行く訳ですよね、おまけに日本が今でも近代絵画の展覧会が多いっていうのは、その時に黒田清輝とかが美術の教科書をつくってしまったからなんですよね。お兄ちゃんが黒田清隆って総理大臣でしたから。そういう関係もあって、ヌードとか。日本で見た事ないものだから喜んで描きますよ。で、大正位はね、いろんなものが入った時代だった。北方ルネッサンスも入ってくる。大正の12年の関東大震災でガタっと落ちる。それから昭和4年位までなかなか復興出来なかったと思ってるんです。それから10年近くの間が、僕もうちょっと日本画を見直さんといかんかな、と思ってるんです。本流を行きそうな感じ。今でいうとね、新古典派って言われるんです、その言葉も僕嫌いなんです。ラファエロ前派みたいで。で、堂本印象もね、いいとこまで行きかけたのに、自分の線じゃないんです。堂本印象の線ってわからない。普通はね、この線は誰かっての、わかるんです。戦争に負けるでしょ。急に印象派に変わるんです、名前も印象にするから。それでアンフォルメルに走って行くでしょ。本当は印象派の黒を使わないようなバラとか描いてるんですけどね。あの辺で狂った。戦争ってすごい大きかったと思ってるんです、僕は。
下村先生は邪魔くさがりで、まっすぐ線を引けんから、筆で描くよりは墨壺でやるとかしてましたね。材料の使い方も全部自分で考えますよね。ピカソの影響が最初はすごい強かったけども、ほとんどはオリジナリティです。普通の人物描くのにも、後の方に舞妓シリーズとかあるでしょ、首を歪めたりとかね、そういうピカソの癖があって。あれ、僕はね、油絵コンプレックスやと思う。僕のカンですよ。当時の絵画専門学校には日本画と図案しかなかった。だから余計に、油絵とかピカソとかに入りやすかったんちゃうかなと。お宅にもいろんな西洋の画家の本が残ってますね。で、学生の頃は、戦争の時代だったから、日本画の人が戦争画描いても、うまくいく訳ないやないですか。藤田嗣治画伯とかね、宮本三郎とかがね、従軍画家で行ったら、やっぱりリアルに描ける。ところが安田靫彦が山本五十六描いても、ズドンと立って双眼鏡覗いてるだけの力のない絵ですよね。あれ見たら、油に惹かれるの無理ないですわ。
先生が使っていた絵具は黄土系とか。岩絵の具はほんまにちょっとで、それも数がほんのわずか。ほとんどが土製顔料ですね。膠は使ってました。膠は接着剤ですから。膠と、それから下に布を貼る時に、膠にボンド混ぜたんで貼ってた。上からしっかり絵の具を塗るとちょうどいいんですけど、その上に描くと、ボンドっていうのは酢酸ビニールなんですよね、酸性なんですよ。胡粉はアルカリだから、しっかり塗ると調和出来るんですけど、そのまま描いてるやつはほとんど劣化してます。紙粘土は大丈夫ですよ。
先生はとてもせっかちで、すごいたくさんの絵をあっという間に。それだけ僕がたくさん手伝ったという事なんですが(笑)。先生の最初の後ろに本が立ってる自画像あるでしょう。あれは本のところはほとんど僕が描いたんです。先生は邪魔くさい事するの嫌やから。まあ昔は工房じゃないですか。でも先生から一円たりとももらった事ない。飲み代は先生。後で連れて帰るのが僕ですもん。先生はそれこそ1週間で十何枚も描いちゃう位すごい。100号位なら1日で描くのはありましたね。先生は木の型をいっぱいつくって持っておられたから、紙粘土で型押してってやってた。その後、刷毛でね、水干絵具を溶いたようなやつをサッとかけてた。その上からね、薄麻紙を置いて。絵の具に膠が入ってますからくっつく訳ですよ。空気の層をつくらないために、亀の子だわしで叩きまくりました。僕も手伝った。何かで叩かないと空気が抜けないじゃないですか。で、亀の子だわしで叩きまくり。裏打ちのやり方と一緒です。その上から、乾いてから、かすれた絵の具つけたりとか。中には、縁だけ赤いの塗って、とかあるでしょ、そういうの僕がやってました。
でね、下村先生、写生うまいの。一緒に軍鶏を描きに行った時、一瞬の捉え方、動くものを捉えるというのは、やっぱりうまいなと思った。ただね、じっくり描けん人やった。早描き。動いたものを描くって難しいじゃないですか。それをね、うまい事捕らえる人だったね。そりゃあ相当、鳥食ったりとか、解剖したりとか、途中で死んだカラスを拾ってきたり、それから大谷大学に空気銃、持ってきて、野鳩撃って、食ったりとかね。「ここはこうこうこうなってるやろう」って教えてくれはった。まあねえ。ただ殺すんじゃなくて食べるからいいけどもねえ。そんな人。
……九州へね、2週間、旅行した事あるんです。僕は本当にね、香月泰男さんの絵が好きやった。高校2年生の頃に、香月泰男さんの絵をね、当時、心斎橋にそごうってあったでしょ、そこの中二階の所でやった時に、本当にいい絵やな、と思った。戦後(いま)78年位ですか、戦後70年の時に、ある業界新聞にね、3点3人を挙げてくれ、と言われたんです。アンケートでね。すぐに出てきたのは香月さんでしたね。日本人の油絵だと思った。油絵いうか、絵。いい絵はね、洋画とか日本画とか、ジャンルを超えるもんやと思った。でも自分は日本画絵具を使ってやってる限りは、やっぱこだわりを持とうとか。そういう事だけ。で、大学卒業して、まだ最初の個展の時、香月さんの影響がすっごい強かった。その次の年位かな、やっぱり自分の絵を描かないと思いながらも、引きずられていましたね。まだ卒業する前、4回生の時ですね、個展した時の12月に冨樫実さんと下村先生と僕と3人で山陰から九州四国を2週間旅行したんです。その時に、香月さんとこに行ったんですよ。昼間から、覚えているのはね、3人行ったでしょ、香月さん入れてだから4人でね、香月さん一升瓶の甲府ワインか何か飲んでて。検問でひっかかりましてね、その時に先生、空気銃持ってた。それで時々鳥を撃ったりするんですよ。怪しまれて。強盗の後。鉄砲持ってるからねえ。見つからんで良かった。
僕は4回生の時に紅画廊で初個展しました。69年です。祇園の縄手通の四条上がったとこです。画廊主の松永さんと下村先生は戦争中に台湾で出会ったのが縁という。その半年ほど前だったかな、忘れられないのが、三尾公三さんの個展の時にね、三尾さんってもともと光風会だったんですよね。普通の具象の絵を描いてる。それが突然セメント塗ったような絵を紅画廊で発表してました。その頃、初日の日ってすぐ一杯飲みするパーティっていうか、寄ってはサロンみたいに酒を飲んでいたんですよ。で、そういうとこでね、三尾さんの奥さんが、「こんな訳のわからんセメント塗って」って言ってしもうて。その時に下村先生が「自分の旦那になんて事を言うんだ」って思いきり怒らはった。自分の嫁はんにはよう言わんと思いますけども。それで三尾さんその時ボロボロ泣かはったの覚えてる。三尾さんは、名古屋の中学か高校の先生してたはず。佐々木豊ってご存知ですか?油絵の人で。三尾先生の教え子で、先生の事を、もう本当に神様のように思っておられて、えらいなあて思って。

パンリアルは卒業してから入りました。誘われたのは卒業してから。入れよって感じ。発表する場があるというのはありがたい事ですよね。パンリアルってのはね、個展の集合体だと思ってるんです。広く使えるでしょ。それはとっても良かった。上野照夫さんが親分っていうか、バックアップっていうか、して下さってた訳。だけど上野先生はこういう事を言ってた。「パンリアルってのはトンネルだ」と。トンネル説。「トンネルは入ったら必ず抜けるものだ。だからいつまでもいる所じゃない」と。入った頃はまだ不動さんいらした。三上さんも。僕は別にパンリアルに入ろうなんて思った事はなかった。ですけども、パンリアルの陳列の時とか運ぶ時とかにいつも学生の時から手伝ってました。だから三上さんとか不動さんとか湯田さんとかみんなよく知ってた。パンリアルに入ったら、みんな年上の人たちばっかりじゃないですか。年上の人たちはね、ほとんどすぐ辞めた。最初の頃のパンリアルは研究会ですよ。だけど入った頃は研究会とかはもうなかったかな。僕は最初からね、ずっと、今もなんですけど、展覧会は10年単位で辞めるんです。10年で次の事を考える。今の年になったら5年で一区切り。一つ目標5年。それはやっぱりパンリアルが長すぎたから。先生もポロっと仰いましたよ。「走泥社やめたときに一緒にやめたら良かった」ってね。そういう事もおっしゃったし。それから「長すぎた」って。
僕がインドに行こうと決めた一番の理由は自分が詰まった。絵が詰まった。それだけです。詰まったんです。何せ、自分の中でも、絵って何を描くかと思うと……、今はもう逆ですよ、絵なんて絵空事だと思ってるんです、だからこう、リアルに描くもんでもないけども、そことのせめぎ合いみたいなものが、いつもあるんですよね。でもその頃は、何を描いても、自分と関係ないものが描けなかった。日展とかね、どっかの灯台とか、何岬を行くとか、輪島の朝市とか、自分の生活と関係ない事が多かったんです。一般の風潮がそうやった。それを描くと絵になると。だけど僕は自分の身近なもん、かかわってるもんしか描けへん。風景でも、最初は西賀茂に住んでたから、大谷大学に通う途中の加茂街道の木とか畑とか、そういうのに興味があった。それから、学生運動してると、学生運動の絵描くとか。ヘルメット被っているようなそんなやつ。びっくりしますよ。身近な事しか描けんかった。植物だって、その時はひまわりを描くのもタネを植えるでしょ、これ位伸びた、芽が出た、これだけ伸びた、蕾が出来た、花咲いた、枯れる、それを一枚づつ描いた。花の一生みたいな。他人が植えたやつじゃ辛抱出来んかったんです。で、最後はね、自分になる訳。3年程、自画像ばっかり描いてたんですよ。しんどい。最後は、うんこしてる自画像とかね、飯食った後の自画像とかね、そんなのを描いた。そしたらね、もう夢も希望もないんですよ。アルバイトもなるべくね、時給の高い所。まだ国鉄があって、蒸気機関があって、それの窯の掃除するとか、ジーゼルのスプリングの所の錆落としをして油塗るとかね。それから、電柱が当時はまだ木だったんですね、ほとんど檜なんです。削ったら立派な檜の柱になるんです。電柱って道の横にあるとは限らんでしょ。田んぼの中とか、山の中にある訳。それをね、雨降ったら休みじゃないです、カッパ着てでもやるんです。そんな事してました。脱出の機会は、おばあちゃんが死んで、100万余り入ってきた。それを持って逃げた。それだけ。
インドを選んだ理由は、上野先生に週1回は会ってたし、下村先生もヨーロッパの帰りにインドに行って良かったぞと。何も知らんと行きました。それとお釈迦さんにお参りというのもあったんです。いろんないい加減な理由です。具体的にはお金が入ったからそれを持って逃げたと。それだけ。その頃は、秋野先生の次男だってインドに行きました。国際ヒッピーの走りですよ。先生のアトリエ行かれて、徳正寺行って、次にうちに泊まる訳ね。で、次の日に絵を忘れていく訳よ。おもしろい男でしたよ。秋野先生の字を書いていたんですよね。先生死んだから箱書、亥左牟(いさむ)に書いてもうたらでっかい字でね。今まで箱書ででかいのはね、秋野亥左牟と岸田麗子です。字が大きいし強い。秋野先生が本紙に書いてる字はひょろひょろした先生らしいピシッとした字やけども、箱書の方が立派。おもしろい男ですよ。
その100万円は全部なくなるまで使いました(笑)。それもケチケチしながらですよ。最初ネパール行ったんです。これはね、高校の先輩の日本大使館に勤めていた人がいたから、その人が下宿を世話してくれた。その前の2日間位は、安物のホテルに泊まったけど、今思ったら高い所に泊まってた。1日1ドル位の所に泊まっていた。それでビール1本飲んだら1ドル。こんなんじゃ1年もたんなと思いましたよ。けど、そりゃあ最初だけ。安物の店、いっぱいあるのに、暗うて汚いからわからなかっただけで。それからもう質素な事して。今、僕インドに行けば絶対に酒飲まない。それから日本ではちょっとしたお魚とかそれからだしとか、ちょっとだけの鳥位にはなりますけども、インドに行ったら完全なベジタリアンになります。いろんな階層の人いるでしょ。そういう人と付き合うのにはそうするのが一番なんです。だから、完全にベジタリアンになるし、酒も一切飲まない。で、絵を描いている時もひとりでは絶対飲まない。人と一緒だったら、とことん飲む(笑)。むちゃくちゃです。
インドで1日だけ豚小屋入った事あります。拓本とってて。それまで仲良かったのに、拓本とってたら、遺跡を汚してると思って、没収されて、豚小屋入れられて。とにかく下っ端の警察に喋ってもしょうがないから、一切。日本語より上手なんですよ、ヒンディーはね。一切、もう物言わん。上の、州の当局のトップを呼んでくれ、って、そこまで物を言わんからって。それで理由を言って、釈放されましたけども、ただ飯一回食った。
インドへ行って変わった事。ありますよ。これは何しても食っていけると思った。僕はその時は1年間行くつもりで1年オープンの飛行機とったんですよね。で、もうちょっといたいから、医者の診断書があったらというので1ヶ月伸ばした。13ヶ月いた訳。最初はね、人を見たいと思った。人はゴマンとぐちゃぐちゃいる訳。インドの南から北から全部行った。行ってないとこはない。最初の時が一番強烈でした。毎日1日、長くて2日おきに移動してました。リックサックで。最初は一人で。前の嫁はんが途中から。郵便も大使館領事館がある所に送ってもらう。そこでピックアップするしかなかった。最初は人を見たいと思ったんですけど、それじゃアホだと思って。博物館もいっぱい。遺跡と博物館と、お寺を古い所ね、それと美術を見て回ろうと。それにかけました。だからインド美術の原点それです。上野照夫先生からいろんな話を聞いたけれども、下村先生からもみんな聞いたけれども、みんなね、ちょこっとしか見てへん訳。当時は東大に高田修さんっていうのがいたんです。西は、京大には上野照夫という先生がいたけれども、上野先生は一生に一回行かれただけ。一生に一回しか行ってなくて、あれだけインド美術の先生って言われるの。昔はみんな英語を日本語に訳して論文書いてるんです。きっかけとしてはいいけども、自分が目で見る事とは程遠かった。昔の学者ってみんなそうでした。まして僕らの時、今もそうですけど、東洋史イコール中国史でした。インド美術なんかない。今、大学でインド美術してる人、誰もいない。阪大にいた肥塚さんも亡くなった。肥塚隆。奥さんがオープニングとか来てましたね。外国人の美術館学芸員とか来ると、うちによく連れてきてたんですよ。奥さんも変わった人でね。ヒンディーが良く出来た。同じデリー大学で知りおうて。肥塚さんは語学は全然。奥さんのおかげ。
インドって700国語位。大きく言えば2つです。ヒンディーとタミール語かどっちかです。公用語は18位ありますけども、一応学校行った子はヒンディーを習うから、ヒンディーが一番。英語は国会とかでは英語でやっとるけども圧倒的にヒンディー。ヒンディーと中国語さえしゃべれればどこへ行っても苦労しない。インド人と中国人はどこでもいます。で、インドへ行って、美術だけを見て回る。全然聞いていたのと違かった。全く違う。旅行者ではわからんやないですか。でも、長く行くと、風習っていうかな、思想的な事がわかってくるんじゃないですかね。
インドに行って考えが変わったかな。日本では絵を描くのに最低限の事は何とかせんならん。さっき言ったみたいにアルバイトして食べるとかって事を考えてましたね。でもインド行ったらね、「あ、これ、物を拾ってでも食っていけるな」って思った。若くって餓死してる人って新聞にも出ない。それ位に、生きようと思ったら生きれる。
インドは1947年、日本の戦争終わって少々の2年後1947年8月15日がインドのインディペンデンスデイです。それでまあインドも相当変わるんですよね。特にマハラジャは何もないから。絵と布と宝石を食ってしまう訳。それで外国に金が流れるんですよね。
インドに行って、みんなから聞いてたインドと違うなと思ったのと、あと「物を拾ってでも食べていけるな」と思った。今、バングラデシュって国あるでしょ、昔は東パキスタンっていいましたね、バングラデシュが独立してしばらく経ってからの10年以内っていうのは、西と東、西はね、中国の援助がすごいあったんです、ところが東は隣にビルマ、隣にインドでしょ、で、すごい貧しかった。それでバングラデシュから難民がカルカッタに100万人位来てました。その人たちがね、1日に30人位が野垂れ死にするんです。餓鬼草紙みたいな。ガリガリでお腹だけ出て。餓鬼草紙の絵っていうのは、あれはそのまま。やっぱり実際そんなだったんですよね。ガリガリで足も骨に皮がついていた。それが行き倒れて死んでいく。30人位。毎日見る訳。その時はまだマザーテレサがいて、そこの事務所があったんで、せっかくいるんだからと思って、10日位、しもの世話のボランティアさせてもらった。外へ出たら死ぬでしょ。死ぬとね、やっぱり暑い国だから、通りすがりに人がわずかのお金をそこに置いていく訳。貯まるでしょ、そしたらそのお金で荼毘に付すんです。火葬する訳。貯まるまでは荼毘にも付してもらえない。ほったらかし。でも3日位で出来る。それ位お金を置いていきます。それで乞食もやたら多いし、「くれくれ」って来るんですよね。で、あげるでしょ。で、今もそうだけども、日本の旅行ガイド見た時、そういうのにお金やったらあかんとか危ないと書いてある。ところがね、向こうの考え方は、ある人はない人にあげるのが当たり前。ない人はある人からもらうのが当たり前。そやから「くれくれ」。ちょっとあげるでしょ。もともとヒンディーでね、ありがとうって言葉ないんです。もらった奴は次に乞食行きます。あげた人は手を合わせて。思うんだけども、これは私がね、「くれくれ」って言う事によって、あんたに徳を積ませてあげた、というそういう考え。これは日本には全然わからん。逆だと思ってる。そういうカルチャーの違いというのは感じましたね。

帰ってきたらね、ちょっと呆けたんです。呆けたというかどうしたらいかわからんかった。それでもう一回学校行こうと思って、芸大行ったんです。芸大の試験は1週間絵を描くでしょ、その間も、僕、夜はバイトしてますよ。あとは美術史と美学と英語じゃないですか、絶対一番にならんと入らん、と思いました。それで芸大に行った。梅原猛が、20歳前から飲み屋で、下村先生のおかげで、知り合いになったでしょ。しょっちゅう会うてる。授業に出てたら、「畠中君、何しに来たん」って言われた。学生ですって。なめてんのか、って(笑)。ほんまの学生ですよ(笑)。絵も僕は出だしが早かったんです。山種日本画大賞って当時あったそれの、2、3、4(回)、ってノミネートされてるんです。芸大の教授連中が出してた展覧会ですからね。だから芸大の時は、僕、どの先生の方とか行かんかった。模写しました。何故かといったら、材料と技法をしっかり勉強せんといかんと思ったから。おまけに学校から給料もらって。非常勤の先生を飲みに連れていってましたよ。とにかく描きました。描きまくり。芸大の資料館の人ともみんな仲良いし、移転する時には、机とか冷蔵庫とかみんな持って帰りました(笑)。