下村良之介

1923 - 1998

紅画廊 展覧会記録|下村良之介

紅画廊 展覧会記録

Exhibition

紅画廊

1964年7月11日 - 1969年11月移転

1964年8月17日 - 23日 来野月乙個展写真

紅画廊の経営者・松永ユリは大正7年(1918)、鹿児島県南方沖に位置する徳之島生まれ。京都に渡り、長岡天神北の日本女子美術学校に通う。同校は主に絵画を教え、別科に花、茶、裁縫、手工を指導する女学校。卒業後に日本の統治下にあった台湾に渡ったユリは、同地の小学校で教鞭を取る。娘の松永智美曰く「当時のモダンガールだった母は、美的なことに関心が高く、学校では創作舞踊も教えていたようだ」。敗戦後日本に帰国したユリが、喫茶「紅屋」を祇園にはじめたのは1959年のこと。料理と芸術を愛するユリは、喫茶店内に美術作品を飾る。画廊喫茶の走りとなった「紅屋」には美と美食を求めた人々が数多く訪れ賑わうようになった。1964年、芸術への熱意からユリは、「紅屋」を現代美術を専門に扱う画廊「紅」へと転業する。

紅画廊懐想 ― 松永ユリ

(『翔 下村良之介追悼集』2000年2月3日発行 発行者:下村志津ゑ)

そもそも、下村先生との出会いは、半世紀以上も前に遡ります。

戦争も終盤を迎えた頃、私は台湾の新高山山麓にある製薬会社の宿舎に疎開していました。宿舎の裏の窪地には、秋田部隊という軍隊が駐屯しており、会社の倶楽部は軍に開放されていました。

午後の陽ざしの中を馬のひづめを「かつかつ」と響かせながらコカ畑の坂道を登ってくる青年将校の姿がありました。秋田部隊には見かけない凛々しい若い将校さんでした。この人こそ若き日の下村先生だったのです。近くの部隊の小隊長をしておられ、秋田部隊長を訪ねて来られたのでした。後で聞けば、京都の絵画専門学校出身とのこと。私も一時期、京都の長岡の女子美術学校で学んでいたことがありましたので話が弾みました。以来時折、倶楽部へ来られ、ビリヤードなどに興じておられました。

私が、主宰しておりました舞踊団が兵隊さんの慰問をすることになり、下村先生が、戦時中には考えられないような野外舞台を組み立ててくださり、無事、会を終え、お陰で大成功を収めることができました。また、私がマラリヤで42度の高熱で寝ている時、マンゴーを丸籠一杯お見舞いに持ってきて下さり、今となっては遠い思い出になりました。

日本に引き揚げた後、先生のご両親が訪ねて来られました。台湾時代にお付き合いしていた女性と私を間違えてのことでした。その責任の強さに感心いたしました。十年程も経ち、私の数年来の夢であった画廊を開きたく下村先生にご相談をしたところ、上野照夫先生をご紹介いただきました。その折り「紅画廊」という名前を付けていただき、「紅画廊」という字も上野先生が左手で書いて下さいました。

昭和39年7月12日、現代美術作家の発表の場としての画廊を開くこととなり、「祇園に前衛画廊出現」と各新聞に取り上げられました。

開廊記念展は、国画会会員須田剋太(絵画)、続いて辻晉堂(彫刻)、安田謙、古田安、真野岩夫(絵画)、来野月乙、佐野猛夫(染色)、下村良之介(絵画)、八木一夫(陶芸)、各先生方の順でスタートしました。

手元にあるその当時のアルバムには下村先生の展覧会の案内状と新聞記事が貼ってあります。「テコでも動かぬ根性の持ち主で堂々とかっぽしている画家、京都美術界のサムライである」などと書かれてあります。そのポートレートは若々しく京都美術界のサムライ足るに相応しい風貌です。

現代美術の華々しいときめきを感じる時代でした。

私の人生において一時代を画すことが出来たのは、下村先生との出会いがあったからこそです。心より感謝いたします。(ギャラリー紅)

1964年8月31日 - 9月6日 下村良之介個展会場写真
1964
7月11日
開設

「祇園に前衛画廊  喫茶店主が転身 まず第一線作家展」
喫茶店を改装した本格的な前衛画廊が、京都・祇園にお目見え、12日から店開きする。

話題の画廊は京都市東山区縄手通四条上ル、喫茶店「紅屋」=松永ゆりさん経営=を改装した画廊“紅(べに)”―。経営者の松永さんは約三年間同喫茶店を開いてきたが、若いころから美術に親しみ、専門の画廊を開くことが数年来の夢でもあった。美術関係者にも交友が多く、画廊づくりを相談したところ「同じやるなら、本格的な前衛画廊を作っては?」という意見が圧倒的。現在、京都には約二十の画廊があるが、前衛作家のための貸し画廊は1、2軒。「出血覚悟で、前衛作家のために、発表の場を提供したい」と決心した松永さんは、親しまれてきた喫茶店におさらばして、さる五月から改装工事にとりかかった。改装にあたっては彫刻家の辻晉堂美大教授、寺尾恍示、松本正司、画家の下村良之介氏ら作家側も積極的に応援、このほどようやく完成した。

新装なった画廊では建て面積約70平方m、壁面の長さが30.5メートル。とくに南側壁面は高さ4メートルという“大作主義作家”にとって絶好の壁面構成。開店記念には、関西在住の第一線作家九人の個展を一週間単位で開き、そのあと九月中旬ごろから一般作家に開放する。

記念展のスタートは、12日から19日まで国画会会員、須田剋太(絵画)の個展。続いて辻晉堂(彫刻)安田謙、古田安、真野岩夫(絵画)来野月乙、佐野猛夫(染色)下村良之介(絵画)八木一夫(陶芸)の順で招待個展がある。関西でも数少ない本格的な前衛画廊の登場とあって、関係者の期待を集めている。

*画像掲載:「招待個展のトップをきる須田剋太個展の陳列」
『京都新聞』1964年7月12日


京都に画廊がまた一つ開設された。京阪四条駅の近く、東山区縄手通四条上ル西側「画廊紅」がそれである。開設は7月11日開廊記念の個展が9月まで京阪在住の中堅作家9人によって開かれ、それ以後は貸画廊として経営される予定である。(田中比佐夫)
『三彩』(177)1964年9月

7月12日 - 19日
須田剋太個展

先号紹介の紅画廊第一回展は〈須田剋太個展〉、強靭性を感じさせる強烈な色彩で複合した渦巻形のフォルムを画面に定着させた大作11点と小品が出品されていた。ピンと張りつめた造形性は出色のもので、強い印象を与えるものであった。(田中比佐夫)

『三彩』(178)1964年10月

7月20日 - 26日
辻晉堂彫刻個展

辻晉堂は数年前からの作品を一堂に会したもので、その一見平面的なソッケない陶土の作品の中に秘めた、深い効果は東洋的な美の世界を表すものであろう。(田中比佐夫)

『三彩』(178)1964年10月

7月27日 - 8月2日
安田謙個展

……安田謙も数年以来からの連作「ドン・キホーテ」の大作十点を中心としてエスキース、それに最近ヨーロッパを廻ってきた時の作品を交えて発表していた。ドン・キホーテの衣服の部分などに織物をはる手法もあったが、この人はどちらかというと工芸的に画面をつくる特質をもち、むしろその特質を強く押し出した作品に文学性と結合した独自の面白さがあったように思う。(田中比佐夫)

『三彩』(178)1964年10月

8月3日 - 9日
古田安個展

8月10日 - 16日
真野岩夫個展

8月17日 - 23日
来野月乙個展

8月24日 - 30日
佐野猛夫個展

8月31日 - 9月6日
下村良之介個展

DMあり(下村資料)

鳥、魚などを抽象化した半レリーフ的近作十点を展示。
『朝日新聞』1964年9月5日


「わが道をゆく二つの個展 「トリの分解 下村良之介」「古田安 幻想と怪異と」
パンリアルの下村良之介(画廊紅)と鉄鶏会の古田安(市美術館)は、京都美術界のサムライである。二人ともテコでも動かぬ根性の持ち主で、堂々とわが道をかっ歩している画家だ。下村はトリと取り組むこと久しく、トリの羽毛をむしり取り、その骨までえぐり出してしゃぶっている。和紙と接着剤を応用したレリーフのような作品は、彼の発明したテクニックであり、その手法によってさらにトリたちを徹底的に分解、自分のものに再生した。その上これを丸く曲げ円柱装飾に利用、新しい建築美術の場にまで進出している。つまり絵画と彫刻の両性能を備えた作品に仕上げた。他の人物群像も同様赤裸々な姿態にされている。……(竜平)

*画像掲載「下村良之介「作品」」
『京都新聞』1964年9月5日


……下村良之介は紙ねん土で浮彫りしたような鳥の連作を依然として追及しているが、神経のぴりぴりした線を押えて強靭(きょうじん)さを加えて来た。さらに画面を円筒形にして柱を巻いたり、丸太にはりつけるなど、立体的な構成による絵画の三次元の世界への挑戦は、この画家のあくない闘魂を示すものだ。(橋)

『朝日新聞』1964年9月5日


もともと日本画の狭いカラを破っていち早く「現代性」を身につけた作家だったが、さらに仕事ぶりが大きくなったようだ。会場には日本現代美術展に出品した二点を含めて新作11点を並べている。いずれも紙ねん土による画面の起伏の大きい作品だが特徴あるシャープな線を押しつぶし(本人はできたところを上から板でたたくといっている)て仕事のあとを消したり、半円筒型の画面を作ったり、変容を見せている。先ごろから陶芸にも精出していたが、その経験も、表芸の絵の制作に大きな刺激になったようである。「いままでの作品は置かれる所や向きを選んだ。最近の仕事はどこにでも合うし、上下左右どっち向きでも一向にかまわない」と作者はいうがテコでも動かぬ土性っ骨が丸味をおびてきたらしい。

*画像掲載:「カット・下村良之介」
『毎日新聞』1964年9月5日


紙ネンドの上に型をおいて、ふんだり、おさえつけたり、絵は描くものだという考えの人からみれば、およそ、おかしげな行為をくりかえしてできるのが下村の作品。もちろん、その上からドロえのぐを効果的に塗っているから、絵として仕上がっている。

「工芸?まあ、そうもいえるが工芸家の場合は、その技法なり方法が前提だが、わたしの場合は発想が先行して方法がそのあとになる。だから、一般にいう工芸とは違うのだが…」職人と作家の相違論みたいなことをおっしゃる。

だが、この人の作品は、なにか古い壁画のようなものを思わせるのだが、ふしぎに古くさくはない。シャープな、感覚がみごとに織りこまれているからであろう。

「いままでの絵は絵をみることを強要している。それは絵画のもつ平面性というやつだが、わたしは、そうしたみることの強要を少しでもやわらげるため、まるくして、どこをみてもかまわぬようにした。いうなればサービス精神である」タブローの中ではせまくてかなわぬと、勝手にとびだしたのだろう。(富永静朗)

『サンケイ新聞』1964年9月3日


下村良之介個展・画廊紅は近代美術展に出品した200号前後という大パネル2点のほか、近作の円柱、その半分の凸形横長二点のほか数点をならべて、たくましい制作意欲をくりひろげている。そのモチーフの鳥はいよいよ変幻して、華麗な装飾ともなり、強ジンな飛翔(ひしょう)や抵抗や激しい争闘の世界をも展開する。寺の門の仁王の像にぶっつける「しがんだ」という紙をかんではき出したのと同じようなマチエールに、押したり、つまんだり、打ち込んだりの手法は、あるいは紙塑(しそ)といってよいかもしれないが、だれもがやらなかったこの仕事を、実におもしろそうにやって行く。それを見ると彼の仕事師としての面目が余すところなく出ており、にくらしいほど巧みなのにおどろかされる。ここらでこれをおさえて、今後どうすすんでゆくか、興味がある。円筒の試みはいまひと息問題があろう。(A)=写真は大パネル 紙面不詳、日時不詳


……8月に開催された京阪の美術展は個展が主であり、その中に注目すべきものが多かった。前月の「画廊紅」開廊記念展の続きとして、〈古田安個展〉、〈真野岩夫個展〉、〈来野月乙個展〉、〈佐野猛夫個展〉、〈下村良之介個展〉が開かれた。古田安については9月に入ってから京都市美術館で大個展を計画しているのでここでは省略する。真野岩夫はひさしぶりの地元京都での個展であった。カンバス地の上に胡粉石こうなどとボンドで地を作り、顔料を流しこんだ大画面十点を発表していたが、いずれも陶器の表面を流れる釉薬の面白さを拡大してたたきつけたようなダイナミックなものであった。来野月乙は染めの専門家であるが、その長い経験を生かして作品をつくりあげていた。下村良之介はこの個展の直前大阪北画廊でも〈下村良之介小品展〉(8・24-30)を開催していたが、どちらも彼特有の熱気にあふれた情熱を感じさせる展覧会であった。

「紅」の方では現代展出品作などもまじえて大作も多かったが、最も特徴的なことはベニヤで円筒形、半円筒形の画を面つくりあげ、その上に、いよいよ流動性を強くしてきた鳥の形象を紙粘土などで造形していた点であろう。これは建築へアプローチする試みであろうが、今後の注目すべき動きである。(田中比佐夫)

『三彩』(178)1964年10月

9月21日 - 27日
野村久之個展

型取りした足首の生々しい複製(?)が、何本もニョキニョキと突き出た作品。怪奇なスリラー場面を思わせるようだが、それほど怪奇でもない。あるいは、さまざまに突き出された足は、なんらかの感情を語るかと思って見ても、そうでもない。ただ足がいかにもリアルに突き出ているわけである。

なぜ足を突き出すか、何に向かって足を出してみせるのか、少しもこの作品は語らない。また、ナンセンスかといえば、そうした気配も感じられない。足を出すという着想だけが生々しく突き出た作品である。(高橋亨)

『日本美術工芸(314)』1964年11月

10月12日 - 18日
松本正司個展

「10の同一のエレメントに依るハコの会議」という立体のシリーズで、木箱にピンポン玉のような球がいくつかくっつけられ、全体が金色に塗られている。ただそうした状態を見せるだけのものである。こうした作品の登場してくる展観の多い近ごろは、美術における不毛期の到来を恐れさせる。(高橋亨)

『日本美術工芸(314)』1964年11月

10月26日 - 11月8日
ヨシダ・ミノル展

10月19日 - 25日 大阪・画廊あの、10月26日―11月1日 京都・画廊紅


円とその幾何学的ヴァリエーションを簡明に組み合わせたフォルムと、青系統に限った色調この二つのもので画面をつくっていったことは、小品においてさわやかな、リリシズムをかもし、大作においては物体的生命力の幻覚的な展開を見せるというぐあいに、意外に自由な発展を可能にしている。単純の中にかえって変化の妙があるわけである。その機微をたくみにつかみ、かなり注意深い計算でまとめていった点で、幾何学的造型を試みる最近の一つの行き方の中では注目される一人である。

大作ではその図形を重量感のある物体として分厚く盛り上げたが、それはたとえば大仏殿の屋根ガワラを手にしてみた異物感と共通の効果をもっている。日常の感覚的基準からケタはずれの大きな尺度の世界が、日ごろ気づかぬ物体のヴァイタリティ―の存在を強調してみせるのであるが、その物体の野生ともいうべき力にもたれず、どこまでも自己のコントロールのもとに保つことが、この作家の勝利につながるようである。(高橋亨)

『日本美術工芸(315)』1964年12月


……その点では可塑性の材質を使って、単一の立体的なフォルムをズボリと画面の中央に打ち出したヨシダ・ミノルの作品は、明快で自由な造形だが、反面そのユーモラスな表情をたたえた単純な形体は、要約されたきびしさを欠いて、固定的なオプティミズムが支配している。これまでの平面的な仕事に比べると、強烈ではあるが、形体と空間、立体と平面との緊迫した関係がうしなわれて、空虚なデコラションに堕してしまう危険がある。

*画像掲載:ヨシダ・ミノル《The Blue Flower》
『美術手帖(247)』1965年1月

11月16日 - 22日
関根勢之助展

……これとは全く対照的に、あるいは刻みつけるように鋭いオートマチックな線描に翳りのような色彩を滲ませて、密度の高い空間に心情の息づきを通わせているのが関根勢之助である。解体するデッサンの痕跡とかたちにもならないでたゆたう色面とが、静寂な空間のなかに共鳴しながらイメージの深まりを見せている。強烈な意識過剰の作品の多いなかでは、あまりにもひそやかな閉じられた感性の世界だが、その透明な詩情が印象に残った。

*画像掲載:関根勢之助《烈しい朝》
『美術手帖(248)』1965年2月

11月23日 - 29日
樋口シン作品展

……素材と行為との対決は彫刻においてはより決定的な関係を強いられるわけだが、特に樋口シンの紫壇彫刻には凝縮されたエネルギーがひそみ、材質のもつ抵抗と制約に挑む行為が、強靭な表現力となって結晶されている。自由な形体へのイメージがこの頑固な材質の抵抗と組みあって生みだされた球体やくり抜かれた正円が、過剰な要素とならずに量塊の生命力のなかにしっくりと息づいているのは材質と緊密に結びついた必然的な造形行為の結果だからだろう。これらの作品は小さいながら、無意味に磨きあげられた単純さの代りに、節度のある、快適な一種の多弁さがあって、流動的な空間に豊かな量感をうたいあげている。東京展以後に作られた三点の新作が酸化して黒変する以前の初々しい肌をみせて印象的だった。

『美術手帖(248)』1965年2月


組織のつまった硬くて重い紫壇は、そのみがかれた木目と肌に密度の高い生命の充実を感じさせるが、みがきたてることによって素材のもつ生命をひきだすという仕事自体は、造型以前の技術にすぎない。また、硬い素材から形を彫りだすという作業に、その困難の克服という点から造型的意味を付与することも適切ではない。それはどこまでも木工という言葉の範囲を越えないのである。

紫壇を使ったこの木彫作品には、そういう造型以前の問題が多くからんでいる。そしてまだその造型以前の技術を克服していない面も見られる。これは、ほとんど未完成品といってよさそうである。うがたれた円やコブのような球体を主要なエレメントとした抽象形態だが、大部分がきれいにみがきたてられている反面、彫り損じたノミのあとや仕上げたりない細部が目につく。細工面でのきれいごとは床の間の置物につながるという危険を考えた上での処理とも見えない。

そういう技術上の難点は解決できるわけであるが、根本的な問題は、紫壇という素材を克服することを通して、またその密度高い生命と合体することにおいて、充実をとげたはずの作者自身の生命が、この作品には希薄なことである。いわば紫壇を必要とするだけの内的な燃焼が作者の内部にあったかは疑問であり、むしろ趣味的な選択のように思われる。紫壇であることによって、この木彫は興味をひくが、それはあくまで素材が生む魅力であり、造型の力量と混同することを警戒しなければならない。(高橋亨)

『日本美術工芸(316)』1965年1月

11月30日 - 12月6日
第1回 十人展

DMあり(下村資料)

展1……最近の仕事

11月30日 - 12月6日
第1回 十人展

DMあり(下村資料)

展2……小品
出品者:来野月乙、熊倉順吉、佐野猛夫、下村良之介、須田剋太、辻晉堂、真野岩夫、古田安、八木一夫、安田謙

12月14日 - 20日
第二回『前衛作家によるチャリティーショウ』

DMあり(下村資料)

師走も押しつまって何かとあわただしいことになりました。

さて今年も関西在住の前衛的な画家、彫刻家、工芸家が、恵まれぬ人々のために、第二回『前衛作家によるチャリティーショウ』を十四日から二十日まで画廊「紅」(縄手四条上ル)で開きます。

全てに第一線でありたいと希う進歩的な作家数十人が、それぞれ力作をもちよりこれを二十日正午までに会場で、入札していただこうというわけです。

昨年の売り上げは京都府聾唖学校に寄贈しましたが、今年も又他の、幸うすき子供たちの為に贈りたいと考えています。

どうか歳末チャリティーのために御協力をお願い致します。

 昭和39年12月11日
「前衛作家によるチャリティーショウ」
 幹事  辻晉堂 古田安 ヨシダミノル


「施設に善意のお年玉を  関西在住の前衛美術家 作品をもちよりチャリティー・セール」

関西在住の前衛的な美術家が、恵まれぬ人々のために自作を持ち寄ってせり売り、売上金を施設に寄付しようという“チャリティー・セール”が14日から東山区縄手通四条上ル、画廊「紅」で始まった。須田剋太、下村良之介(絵画)辻晉堂、堀内正和(彫刻)八木一夫、佐野猛夫氏ら43作家が1、2点ずつ持ち寄った作品を20日正午締切りの入札制で売る。

初日の14日は午前7時すぎからイス持参で開場を待つ熱心なファンもいた。

この“チャリティー・セール”は昨年も催され、総売上金を府立ろう学校に寄付している。

『毎日新聞』1964年12月15日


京都を中心とした関西の前衛作家によるチャリティーショーが、20日まで縄手通四条上ルの画廊「紅」で開かれている。昨年末に続き2回目の催しで、辻晉堂、古田安、ヨシダミノルら第一線の前衛画家、彫刻家、工芸家約50人が作品を1、2点ずつ提供、20日正午まで観客に入札させ、最高値をつけた人に売渡す。昨年は1点2000円で売り、収益十万円を約20万円相当の彫刻とともに府立ろう学校に贈ったが、ことしも全収益を幸薄い子どもに贈るという。

『朝日新聞』1964年12月15日


関西在住の前衛的な画家、彫刻家、工芸家約50人が作品を1、2点ずつ出品。売上金を幸薄き子らに贈る。

『朝日新聞』1964年12月19日


「前衛作家“しわすの善意” チャリティー・ショー開く」

ジングルベルのメロディーが流れる“しわす―”京都・縄手四条上ルの画廊・紅では「前衛作家によるチャリティー・ショー」が14日から開かれた。

この歳末チャリティーは「せめて、われわれ美術家にできる“善意”が、幸薄きこどもたちに贈りとどけられれば……」と京都在住の前衛的な画家、彫刻家、工芸家が思い立ち、昨年からはじめたもの。

昨年は総売り上げ金を京都府立ろう学校に寄贈、あわただしい年の瀬に明るい話題を呼んだためか、ことしのチャリティー・ショーには、京都作家だけでなく関西各地からも自発的に参加、狭い会場いっぱいに約70点の前衛作品が並んでいる。国際舞台で活躍中の有名作家から、苦しい作家生活を続ける若手にいたるまで、それぞれ日ごろの“力作”を持ち寄り期間中会場を訪れた鑑賞者に入札してもらう計画。「ことしも恵まれぬこどもたちの所へ贈りたい」と協力を呼びかけている。会期は20日まで。

*画像掲載:「フタあけした前衛作家のチャリティー・ショー」
『京都新聞』1964年12月14日

1965
1月18日 - 24日
八木一夫 下村良之介 迎春二人展

DMあり(下村資料)

迎春二人展 御案内
あけましておめでとうございます
清々しい元旦を迎えさせていただきました
ひとえに皆様がたの御庇護御鞭撻のたまものと
ふかく感謝いたしております
実は われわれ 元旦から絵筆をとり
土を握るという けなげなしぐさでして
“鳥”の蹴立ちもさわやかに 今年一年を
皆様とともども 順調なる飛翔をつづけて
いきたいと希っています
そうした意味で 迎春二人展をたくらむわけですが
なにぶん酒仙のわれら二人の微薫低唱に
代わる陳列物です なにかのみぎりにお立寄り
いただき御笑観下さいますれば これにまさる
めでたさはなしと つつしんで御案内申上げる
次第でございます
 下村良之介 八木一夫 敬白


大阪展 昭和40年1月8日 - 17日 大阪・画廊あの
京都展 昭和40年1月18日―24日 京都・画廊 紅


いまの京都美術界のチャンピオンである二人が“まともな作品”であることを強調して、遊んでみた展覧会。下村は定紋入り、黒うるしのツイタテやびょうぶ、ふすまなど6点、八木も香炉、置物など7点を、ごていねいに一組ずつ組み合わせて並べている。下村はいずれも鳥をモチーフに、銀パクや朱、群青など日本画の材料を使った“純日本画”。八木の陶器も故意に古風な意装をまとわせている。ともに教養とものを作る術の備わった作家だから、仕事にソツがない。だが遊んだ遊んだといいながら、とことんまで遊びきれずにどこかテレているようだ。むしろ、下村が付録のように出している紙ダコに素ぼくな味わいと作者のセンスの結合が巧まずにあらわれていて楽しい。

『毎日新聞』1965年1月23日


八木一夫は独自の言葉でしか語ろうとしない。彼だけしか使えない言語で歌う人です。だから矢張り最もらしい香炉や水滴の類いよりも、詩情のあるオブヂエ作品のほうに精彩があります

下村良之介の絵筆の作品と云うのを実は始めて見たので、軽快且つ淡白なのは以外でした。紙粘土や陶のレリーフから受けた印象とは凡そ遠い繊細さです。しかし抽象化した鳥の複雑な造型は、さすがに重厚な粘着性をもっています。

頌春らしい整いとでも申しましょうか何か改まった姿勢を見せた二人展でした。

(あの画廊)長谷みち子

*画像掲載:「八木一夫、下村良之介 二人展。屏風〈霧笛〉下村。黒陶〈恋重荷〉八木」
『方寸』第307号 昭和40年2月1日


正月向きに、めでたくふざけた展観のつもりが、八木一夫の陶器、下村良之介の絵ともふざけきれず、かえってその間の両者の素顔めいたものを現したようである。

陶器では、そり反った箱に怪獣の足をつけたような「舞炉」が、鉄器にも見えるほど、巧緻さを秘めた陶芸技術の上に立つ鋭い才気で、この作家の本質を浮き上がらせていた。

絵は、日ごろ発表する紙粘土の熱っぽい浮き彫りではなく、ふすまやびょうぶに描いた日本画であるが、鳥の主題を正確なテクニックで表現した線描はムダなく洗練され、シャープな形態美をつくっている。この清新さこそ作者の本領で、紙粘土や陶器のレリーフで見せるやや古めかした味は、作者にとってよけいな付けたしのように思われてくる。(高橋亨)

『日本美術工芸(317)』1965年2月


正月には正月らしい展覧会が開かれた。〈下村良之介 八木一夫二人展〉(大酒 画廊「あの」1・8~17、京都 画廊紅1・8~24)がそれである。八木は黒陶オブジェ「野守」「恋の重荷」などと「三島牛」「逆立ち獅子香炉」「鳥盒子」、古代中国の青銅器をおもわす「舞炉」など、そしてそのバックには下村の「霧笛」「天鼓」「聴風」などと名付けた枕屏風、風炉さき屏風など、また定紋の黒漆ぬりのつい立て、古い引き手のついた襖などに得意とする鳥を描いたのが並ぶ。いずれも長年手がけた素材を安定した腕をふるって一種の名人芸を披露していた。伝統的な雰囲気の中に遊ぶ前衛造形作品とでもいうのであろうが、おなじやるならもう少し沈潜してもよかったのではなかろうか。ただ下村が京都展で数点陳列していた凧はユーモラスな味と面白い形態を示して興味をひいた。(田中比佐夫)

『三彩』(183)1965年3月号

2月1日 - 7日
山崎脩展

……彫刻では山崎脩の鉄板の作品がダイナミックな量感の充実した構築性を示して注目された。垂直に屹立する矩形面を重ね合わせた構成には極度に空間を凝縮した正面性が意図されているようだが、その材質や幾何学的構成にもかかわらず意外にデリケートな感じである。殆ど旧作だが、最近作の「吽」には、そうした余剰な要素を排した単純化の方向が見られ、直載に空間を切る構成には好感がもたれた。(赤根和生)

*画像掲載:山崎脩「吽」
『美術手帖』(250)1965年4月


……また画廊「紅」では鉄の彫刻に取りくんでいる〈山崎脩個展〉、走泥社の〈鈴木治陶展〉などが開かれた。山崎は最近の作品を含めて大作十点あまりをならべていたが意欲的な個展として印象的であった。(田中比佐夫)

*画像掲載:「山崎脩個展会場」
『三彩』(184)1965年4月号

2月8日 - 14日
荒木高子陶彫展

「陶彫」ということばは、陶器と彫刻のアイノコみたいだが、陶器を素材にした彫塑という意味であろう。ブロンズによる彫塑とか大理石彫刻と同じく、立体を造型するのがそもそもの目的で、そのさい陶器はブロンズなどと同様あくまで媒材であり手段であるにすぎない。

スジを通せばそういうことになると思われるが、陶彫あるいはオブジェ陶芸界の実情は、じつは“あいのこ”と解釈するほうが正しいようである。陶芸家の関心は立体の造型そのことより、素材であるはずの陶器の質的形成に向けられ、固執している。立体はむしろ、陶器の可能性を試み、あるいは楽しむための媒体にすぎない印象を受けることがある。本末顛倒というべきだ。

もっとも、陶器の質的表現の可能性が幅広く、妥当な意味において立体造型と結びついたとき“陶彫”は彫塑の分野で、独特の領域を確保しうることが考えられる。

ところで、この陶彫展の作品は、立体表現の意図のもとに、あくまで陶器を媒材の地位にとどめ、かつ駆使しようとした。彫塑として、きわめてまともで素直な行き方だが、この態度がかえって新鮮に感じられるのは、どちらかというと造型より陶器の肌を焼くことの方に興味がかたよった“あいのこ”が、日本に日ごろはびこっているからであろう。2年に満たない陶芸歴の作者の、いわば無垢な感覚がそのまともな態度をとらせたといえる。

黒陶という陶器としては素朴な形式が、またそれを助けたわけであるが、この円筒を基本形としたオブジェは、さらに鋭く、簡潔な構成の計算が加わって、黒陶の気安さのうちにも厳しい格調と量感を身につけたら、それは成功である。(高橋亨)

『日本美術工芸(318)』1965年3月


……荒木高子の黒陶による陶彫展には土という素材に甘えないで、むしろそれを統御し、変質させてしまうような造形の意志が感じられた。これまでガラスなど硬質の素材を手がけてきた人だが、はじめての個展によい素材を選んだものである。すべて彎曲した円筒を原形にしたモチーフだが、大きな機械の部分の断面を見るようなメカニカルなフォルムでありながら、磨きあげられた光沢の背後からにじみ出てくる、たとえば瓦や土管に感じられるような素朴な味はまぎれもなく陶器の世界であろう。いくつか過渡期的な造形の不自然さも見られるが、最近作では意図する方向が明快にスタイルとして決定されてきている。しかも大きいものがはるかによい。内容とサイズの関係は一考を要する重要な問題であろう。(赤根和生)

『美術手帖』(250)1965年4月

2月15日 - 21日
鈴木治個展

これは陶器オブジェが陶器の良質を生かしながら立体造型を高めたものとして、いわばよい意味での陶彫“あいのこ”の代表作とみてよいだろう。ここにならべられた作品のいくつかは、この陶芸作家自身としても最近の佳作と思われるものであった。

この作家は、感覚的なひらめきに、やや鋭さを欠く感じがするが、独特の風格を作品の上にきずきつつあるようだ。「泥像」「泥の碑」「土面」「土偶」といった作品名からもうかがえるが、あくまでも土の素朴な本性を打ちだそうとしている。しかも素朴さだけの次元にとどまらず、茶褐色に引きしまったこの陶器の肌は、作者の制御の手を経て、それ自体すでに確かな物質的表現力をもっている。だがもし作者がそこで陶器の肌あいにおぼれていたら、物語にみる質剛な古武士を思わせるようなこれら作品の風格は形作られなかっただろう。それはやはり、充実したフォルムの上にその肌が結びついたとき、生まれたものなのだ。

肌に対する欲求より高度な次元において、立体造型としての統一的なイメージが、なによりも強く働いたのでなければ、このような作品は焼きあがらなかっただろう。

ただ、この作家の仕事でのみこめないのは、多数の片仮名や数字を押印して焼きつけた作品であって、その効果は単に外面的な装飾にすぎない。遊びとしても少しも楽しくないうえ、まじめさの勝ったこの作家の資質とどうしてもとけ合わない。そういう作品をしばしば作りだすのがどうも不可解だ。(高橋亨)

『日本美術工芸(318)』1965年3月


「オブジェを聴く 満岡忠成」

縄手四条上るの紅画廊で正月以来、八木一夫・鈴木治さんの陶展がひき続き開かれた。両氏ともご承知のように京都の前衛作家グループ走泥社の錚々たる顔ぶれで、八木さんは第二回国際陶芸展でグランプリを、鈴木さんは第三回同展で金賞を受賞された。

オブジェ陶も昨今ではあまり物珍しくもなく、大ていの陶芸展で見うけられるが、さてその鑑賞となると、戸惑いしたような批評を時に見かけることもあるのは遺憾である。

もちろん、作品の鑑賞では、作者そのものからは離れて、観る者の自由な立場で享受しなければならないのは自明なことであるが、それにしても、在来の陶芸とは大分勝手の違うオブジェにあっては、行き当たりばったりの無手勝流で馬車馬的に盲評するよりも、まず彼ら作家達の主張にも耳を傾けたいものである。

そんな次第で、一度作家たちともその意図について親しく聴きたいものと念じていた折からとて、両展を機に八木・鈴木さんといろいろ語りあった。

美術とか、工芸とかの後世になっての便宜的な分類以前の、人間としての根源的な造形意欲に根ざしているもの。しかもあえて陶としての分野に造形する所以は、八木さんの言葉を借りれば、「土と人との関わり合い」に特に関心を有するが故に、という。

過去のもろもろの古陶は、それぞれに特有の美を発揮している。しかし、何れも過去の特定の社会を母体として、過去の特定の人間感情をにじませたものにすぎない。

現代の作家として、彼らは、テレビがあり、ハイ・ウェイがあり、アメリカがあり、ソ連・中共があり、核爆発があり、戦乱の南ベトナムがある。この生きた現実の社会に培われた人間感情に根ざして飽くまで造形したい。

その造形は、皿とか、壺とかに較べると一見無軌道のようであるが、やはり八木さんの言葉を借れば、「無理があってはいけない」、「終局的に天地の律に適ったもの」でなければいけない。律に適ったものが、つまりいわゆる美しいものである。

とはいえ、別段きまった見方、鑑賞心得といったものがあるわけではなく、抽象絵画と同様に、個々の主体で自由に享受すればよい。そこに現代的な人間感情の交流が生れればそれでよいわけである。

もちろん走泥社の作家たちも、実用的ないわゆる工芸品も作っている。というよりも、今後この方面に精力的に前進の意向でさえもあるようだ。私には、そこからまた新傾向の茶道具も生れそうに思えるし、本来の茶の心とは、限りなく流動性があり包容性のあるものと思われる。オブジェも、ことに八木・鈴木さんのそれには、いかにも人本人の、それも古都京都の人らしい、やわらかい、キメの細かい味いがあって、これはこれでまた容易に茶の世界に登場して来そうに思われる。走泥社のオブジェも、いわば今日における京焼の一つの姿といってもよい。

伝統の陶芸というと、とかく志野とか備前とか外面的限定的なものにとらわれがちだが、伝統とは風土に培われた心情と解すれば両氏の作品などもまたその範疇に入るものとは云えないだろうか。

八木さんは、オッパイの突起した、角状の両腕のある「女王」など四点が、紐育の近代美術館に買上げられたそうだし、鈴木さんの信楽で焼いた努力のモニュメントは、最近伊丹市民会館に飾られた。

*画像掲載:鈴木治作「泥像」「土偶」、八木一夫作「器・賛」「黒釉「曲」

3月8日 - 14日
工芸集団「芃」作品展

金(加藤唯夫)陶(手塚善理)漆(井上英雄)染(山本正吉)の四部門にわたる工芸グループ・芃(ほう)第三回展。それぞれ工芸技術に足をのせながら、純粋造型の表現に幅をひろげようとする意欲がさかんだが、このうち布地の染織などタブロー絵画とするには表現力の上で根本的にハンデキャップをもつものである。むしろ応用造型に新しい開拓を望むべきだという感じを、いつもながらいだかされる。

工芸部門からの純粋造型への進出には、工芸的思考への執着がイメージの自由を制約しがちであるが、加藤唯夫の金工作品にも、いっそ工芸の看板をはずしてレリーフをつくれば、もっとのびやかな性質も生まれるのではないかと思われる。その他全般に、たとえば密教的な神秘臭のようなものを感じるのも、感覚的な開放がなされていないことの結果であろうか。(高橋亨)

『日本美術工芸(319)』1965年4月

3月15日 - 21日
工芸集団「芃」作品展

金(加藤唯夫)陶(手塚善理)漆(井上英雄)染(山本正吉)の四部門にわたる工芸グループ・芃(ほう)第三回展。それぞれ工芸技術に足をのせながら、純粋造型の表現に幅をひろげようとする意欲がさかんだが、このうち布地の染織などタブロー絵画とするには表現力の上で根本的にハンデキャップをもつものである。むしろ応用造型に新しい開拓を望むべきだという感じを、いつもながらいだかされる。

工芸部門からの純粋造型への進出には、工芸的思考への執着がイメージの自由を制約しがちであるが、加藤唯夫の金工作品にも、いっそ工芸の看板をはずしてレリーフをつくれば、もっとのびやかな性質も生まれるのではないかと思われる。その他全般に、たとえば密教的な神秘臭のようなものを感じるのも、感覚的な開放がなされていないことの結果であろうか。(高橋亨)

『日本美術工芸(319)』1965年4月

3月15日 - 21日
森康次展

……それに比べて森康次(3・15-21 画廊紅)と井上仁(3・22-28 画廊あの・大阪)はともに画面の堅固な物質感に依存しながらまったく対照的な内容を見せている。白い素焼の肌を思わせるマチエールを切りつける森の刻線は果して何をたち切り、どれだけのものが集約されているのか、同様に、井上のあの土俗的な熱っぽさに充ちたレリーフ状の画面は、どのような現実との格闘を反映しているのか。すべての余剰を捨て去ったかに見える森の単純さと、すべてを叩きこもうとする井上の錯綜とに共通しているものは画面の自律性へのオプティミスティックな信頼である。(赤根和生)

『美術手帖』(253)1965年6月

3月29日 - 4月4日
市村司展

……寸断されたシャープな色面が乱舞する市村司の世界も幻惑的なリズムが横溢している。並べられたここ数年間の作品のなかでは、デコラ板に油彩をのせた最近作がクリスタルな質感を獲得していてもっとも完成度が高い。空間恐怖症的なオールオーヴァーの画面はやや猥雑で統一感を欠いてはいるが、ホット・ジャズの狂騒を思わせる熱気がこもっている。(赤根和生)

*画像掲載:市村司「作品」
『美術手帖』(253)1965年6月

4月12日 - 18日
現代美術チャリテーショー

DMあり(下村資料)

今回現代美術作家の人達による入札制のチャリテーショーを、作家小倉浩二氏の外遊に際し資金カンパの意味で開く事になりました。皆様方に是非ご高覧御協力御願い申し上げます。

主催 紅画廊 友人一同



現代美術オークション
4月12日―4月18日
美術愛好家の方々のために現代美術の小品を入札によってお求めいただく機会をもうけました。
ご来場をお待ちいたしております。


「友情が開いた『現代美術チャリティ・ショー』」

「作品入札で資金カンパ 外遊の友へ芸術家仲間」

海外への渡航費がなくて困っている画家に、芸術家仲間が作品を持ち寄って、資金カンパを始めた。

この画家は前衛派で活躍している小倉浩二氏(32)=京都市東山区渋谷通馬町東入ル、常盤荘=小倉氏は六月はじめからアメリカをふりだしにヨーロッパ各地を回る計画をたて、このほど東山区縄手通四条上ルの紅画廊で渡航費のねん出を兼ね個展を開いた。独立展、毎日現代美術展、毎日選抜美術展、国立近代美術館の現代美術動向展などに選ばれるなど輝かしい経歴の持ち主だがこの個展での売りあげは予想外に悪く、目標の渡航費百万円には達しなかった。

マネキン会社で働きながら絵を描き続ける同氏は、この個展での売りあげにいっさいの夢をかけていただけに、念願の渡航計画もダメになりそうだった。

このことを知った同氏の所属鉄鶏会の吉岡一氏(34)や浜田泰助氏(33)ら友人たちは「若い芸術家仲間に訴えみんなの絵を売って小倉君を外遊させよう」ということになり、京都美大時代の友人や、在京の先輩たちの間を走り回った。日ごろから小倉氏の才能を認めていた前衛派の下村良之介、野村耕、関根勢之助、麻田浩、森本岩雄、吉村勲、奥井章夫、市村司氏ら45人が絵画、森野泰明、林康夫、叶敏、寺尾恍示、三宅五穂、小山由寿ら10人が陶芸、中野光雄氏が染色と56人の作家が作品を持ちよった。前衛作家だけでなく日展系の出品者もいる。

画廊主の松永ユリさんも無料で紅画廊を会場に提供することとなり、12日から18日まで幅広い作品をそなえた異色の「現代美術チャリティ・ショー」がふたあけした。並べきれぬほど集まった作品の前に「入札箱」が置かれ、好きな作品一点につき最低二千円以上で入札できることにしている。

「うまくいってるかい?」と連日会場に顔を見せる芸術家仲間。店頭の趣意書を読んでふらりと立ち入り、入札してゆくサラリーマン。「みなさんの友情には身にしみて感謝しています。絵を描きながら海外で思いきって勝負をしてみたいという私の野望をきっとやりとげてみせる」と小倉氏は語っている。

*画像掲載:「みんなの友情に包まれた「現代美術チャリティ・ショー=右端が小倉氏」
『毎日新聞』1965年4月14日


「“渡航の夢”引き受けた 新鋭画家へのチャリティーショー 先輩、仲間が出品 小倉さんに友情の旅費」

若き前衛作家で、画境の発展をめざして欧米への旅を決意した。が“売れる作家”でない悲しさ―旅費がどうしても集まらない。これを知った画家や彫刻家、工芸家たちが「その夢をかなえてやろう」と思い思いの作品を持ち寄り12日から京都市東山区縄手通四条上ル、画廊・紅で「渡航のためのチャリティーショー」を開いている。=写真は小倉さん(円内)のためのチャリティーショー

この作家は鉄鶏会に所属する抽象画家・小倉浩二さん(32)。―7年前、京都美大西洋画科を卒業後、吉忠マネキンに勤めるかたわら、独立展(37年まで出品)や京都アンデパンダン展をおもな発表の場に、特異なアクション絵画を追求し続けてきた。さる36年の独立展で京都新聞社賞を受賞したのをはじめ、現代美術京都秀作展、毎日選抜展に数回連続選ばれ、さらに昨年の国立近代美術館京都分館主催「現代美術の動向展」にも選抜されるなど、花々しい活躍を続けている。

「一度外国をくまなく歩き、違った世界の人間像に接して、自分を確かめたい」と決意、資金かせぎを兼ねた個展を開いたりして“渡航費用づくり”に精出したが、大家の場合と違って、そう簡単に作品は売れにくい。

こうした若手画家の“窮状”を聞いた鉄鶏会のリーダー格、古田安氏や二科会員、吉村勲氏らが中心になりこんどのチャリティーショーを開催することになったもの。

賛助出品者は約40人で、顔ぶれも下村良之介、真野岩夫、関根勢之助、森野泰明、宮本浩二、寺尾恍示、麻田浩、赤松鐐……と多士斉々。会期中(18日まで)入場者に入札してもらい、売り上げ金を小倉君の渡航資金にあてることになり、画廊側も一役買って会場を無料提供している。先輩、仲間の“友情”に感激した小倉さんは「全く幸せです。みんなの好意を無にせぬためにも、単なる観光旅行でなく、アルバイトをやりながら、世界のすみずみまで深く入り込んで勉強していきたい」と希望にもえている。なお出発は六月初旬の予定で、アメリカ、ヨーロッパ、アフリカなどを回りたいという。

『京都新聞』1965年4月13日


「会派越え展覧会  前衛美術家ら 友の外遊費つくり」

外遊を計画している若手の前衛洋画家のために、仲間の美術家たちが作品を持ちよって入札側の展覧会を開き、売上げをそっくり渡航費としてカンパする。この洋画家は京都市東山区渋谷通馬町東入ル、常盤荘内の鉄鶏会会員小倉浩二氏(32)で、京都市立美大卒業後、関西新人展や現代美術京都秀作展、現代日本美術展などにたびたび出品している京都洋画壇のホープ。

ことし初めから本格的な外遊計画をたて、資金集めにさる5日から一週間の会期で、京都市東山区縄手通四条上ルの「紅画廊」で小品の展示即売会を開いたところ、一般受けのしない抽象画のため、33点の作品のうち売れたのは10点たらず。百万円の予算を目標にしているのに、まだ3分の1程度しか集っていない。この話を聞いて、日ごろ親しくしている美術家仲間が「せんべつがわりに作品を出しあって資金集めに協力しよう」と相談、小倉氏の小品展のあと、12日から18日まで、同じ紅画廊で友情の“展覧会”が開かれることになった。

この作品展には古田安氏ら鉄鶏会会員のほか、下村良之介(パンリアル)麻田浩(新制作)寺尾恍司(ママ)(無所属)氏ら関西在住の前衛美術家約40人が会派をこえて一点ずつ出品、売上げの全額を小倉氏にプレゼントする。結束の堅い京都の前衛美術家仲間の間でも、こうした形でのあと押しはいままで例がなく、小倉氏も「先輩や友人たちの好意には感謝の気持でいっぱいだ」と感激している。

『朝日新聞』1965年4月12日


下村良之介、古田安ら40人の絵画、彫刻、工芸作品。6日ごろ外遊する小倉浩二(鉄鶏会)の資金カンパにあてる。

『朝日新聞』1965年4月13日

4月19日 - 25日
荒木絢子個展

……またその他注目すべき個展としては、独立美術で活躍している〈荒木絢子個展〉……(田中比佐夫)

*画像掲載:市村司「作品」
『三彩』(186)1965年6月

4月26日 - 5月2日
麻生花児銅版画展

麻生花児銅版画展もエッチャーとしての優れた資質を示すものであったが、このひとも銅版画という狭い領域におしこめずに自由な分野に解放したい作家である。磯辺行久や加納光於に好例が見られるように、一般に版画家も制約的な表現力の上にあぐらをかかずに飛躍してほしいし、また油彩画家たちも逆にもっと版画の世界にも踏みこむべきだ。(赤根和生)

『美術手帖』(254)1965年7月

5月10日 - 16日
ヘンダーソンの個展

英国人を父に、中国人を母としてマレーシアで生れたヘンダーソンはスピードの早い筆さばきで一見水墨画の筆致を思わす油絵を描いていた。テーマも中国史に現われる戦闘場面や、風景、それに「ハクイン」などという抽象画で、特長はそのカラッとした画風にあったように思う。(田中比佐夫)

『三彩』(188)1965年7月号

5月17日 - 22日
野島佳浩個展

生きもの、ないし人間ということが主題の抽象作品である。その主題が説得力をもって展開されているとはいえないが、肉感的な質的表現に独特なものをもっている。にもかかわらず、具体性のある画面にならないのは、イメージがまだ観念的な次元でかたまっているのではないか。あるいは、もっと具体的な下部の方から発想を築いて行くことが必要かもしれない。(高橋亨)

『日本美術工芸(321)』1965年6月

5月24日 - 30日
不動茂弥展

不動茂弥の場合は全く対照的である。等間隔に交叉する垂直と水平の紙の帯で構成された極めて抽象的な画面は、その発想に強い具象的根拠をもっている。古い祠などの格子を通して見る、密室の妖しい闇の世界が孕む宗教的な幻想がモチーフだというが、そうした予備知識をもたないものはその幾何学的構図に、非情の美しさを要求するのも当然だろう。作者によれば、非情さよりも精神性を表現したいというが、非情さが精神をシンボライズしえず、精神性はこうした方形の窓々に点滅する部厚い顔料の神秘的な表情のなかにある、などとはいえまい。緻密な工業的な技法に支えられて高い完成度を示すこれらの象徴的な画面を、もしその発想の段階まで遡って受けとらなければならないとすれば、われわれはただ困惑におち入るだけだが、こうした画面においては発想はもはや作家の秘密に属する。それは画面の自律性のなかに解消されるべきであり、われわれはただ与えられた画面の素材や冷たい構図にこめられた作家の意識や幻想の質を云々すればいいのである。(赤根和生)

*画像掲載:不動茂弥「定印」
『美術手帖』(256)1965年8月


……5月に京都で開かれた個展ではパンリアルの一員が開いた〈不動茂弥展〉……などが印象にのこるものであった。……不動茂弥は今も地蔵堂などがのこる、むかしの「しとみ戸」の格子からヒントを得たという作品16点を発表していた。いずれも「呪縛」「印契」「迦波羅」「宝珠」「定印」などと題して灰色の画面いっぱいに白く格子を描き、和紙のたくみな使用などから生れる微妙な調子の変化に、夢幻なおもしろさを提示していた。ただその発想の起点があまりに静的なものであることは気にかかる点である。(田中比佐夫)

『三彩』(188)1965年7月号

5月31日 - 6月6日
吉岡肇展

画面の自律性という点では、未知の新人だが吉岡肇は(不動茂弥と)同じように俯角から見た現実の京都の街区に発想しながら、それを自由な色面構成に転移させているが、その過渡期的な諸要素の結合のなかに構成力の可能性が感じられる。(赤根和生)

『美術手帖』(256)1965年8月

6月21日 - 27日
真野岩夫展

6月28日 - 7月4日
八田豊展

……(森本紀久子展に比べて)その点、八田豊にはきびしく制御された情意がクリスタルな輝きを見せている。あいまいな情感や、一切の集積的効果を排して、単一な幾何学的図形に集約された鋭い線条の軌跡が、精確なムーブマンを示しながら、ふしぎにリリカルなイリュージョンさえ誘発する。精緻なデッサンそれ自体が、タブロー化され完結された世界といえよう。(赤根和生)

『美術手帖』(257)1965年9月

7月5日 - 11日
森本紀久子展

……森本紀久子の近作には、技術的な洗練と相まって、絵画空間としてのユニークな展開という課題が徐々に解決されていて、孤独な白昼夢のようなこの閉じられた世界が少しずつ外に向かって開かれてゆく気配が感じられた。貧欲な自発性に貫ぬかれて、無限に紡がれてゆく連想の織目をびっしりと埋めているあの素朴なオブセッションが、本能的な行為の累積を脱皮してひとつのコスモスを獲得するためには、雑多なボキャブラリーを整理し、むしろ個々のパターンが秘めているイメージの可能性を大きくふくらましてゆく必要もありそうだ。(赤根和生)

『美術手帖』(257)1965年9月


……個展では女流の作品発表がかなりあった。最も注目されたのは〈森本紀久子個展〉。なかでも彼女の彫刻作品は、自身が彫刻した木彫の上に、例の細かい図柄をべったりと描きうずめたもので、注目すべきものがあった。技法的には友禅の文ほりを思わす根気のよい仕事の中に、おのずと表われる人間の凝縮された精神力がはなやかに花を咲かしている。このような性格の文様が木彫の表面にそって効果的に描かれて独特な面白さであった。(田中比佐夫)

『三彩』(191)1965年9月号

7月12日 - 18日
四ひきの梟展

DMあり(下村資料)

暑中お見舞申し上げます
 きびしいお暑さでございますが、ご機嫌よろしくお過ごしでございますか。
 さて、当画廊も7月12日をもちまして、開廊以来満一週年を迎えることとなりました。不案内な道ながらも、皆様のお力にすがり、何とか無事今日の日を迎える事が出来ましたことは、ひとえに皆様のご指導ご鞭撻の賜と深く感謝いたしております。
 尚、この機を記念いたしまして、四人の先生方に版画展を開催していただくこととなりました。傑作の数々をご披露いただけることと楽しみにいたしております。
 お暑さの折ではございますが、ご高覧下さいますようお待ち申し上げて居りますと共に、今後共、相変りませずご支援下さいますようお願申し上げます。 画廊紅


「奇妙なとりあわせの四ひきが集まって気ままに楽しんだ版画を気ままに並べてみました…」という趣旨で、彫刻の辻晉堂、陶芸の八木一夫、画家の下村良之介、不動茂弥の四人が版画展を開いた。事の起こりは石版画十年の腕をもつ辻が、他の三人にすすめて銅版画の道具一式をかいこみ、余技にはじめたとはいうものの、作品は“かけだし”とは思えぬ堂々たるもの。しかも作品には、それぞれ“本職”の特徴や味がその人の顔のようにあらわれているのがおもしろい。辻の石版画には太古のたたずまいを思わす、あのテラコッタのような情感、八木のエッチングには生あたたかい肌のぬくもりのような陶器の味…といったぐあい。「フクロウはまともなトリにいじめられるので、四ひきのふくろうということになった」そうだが、どうしてどうしてその独自な作品やハナっぱしらにかけてはワシのような顔ぶれの四人、当分各界の作家の間にちょっとした版画ブームをよびそうだ。

『毎日新聞』1965年7月15日


「制作の喜び 版画四人展」

彫刻の辻晉堂、陶芸の八木一夫、絵画の下村良之介、不動茂弥―この前衛派四人が組んで、楽しい版画展を開いている。

辻は赤、青、黄などあざやかな原色を重ね刷りした石版画。色感の水々しい作品だが、ドシッとしたフォルムをみていると、彼の彫刻に相通じるものを感じる。八木はアイデアの豊かさを発揮し、セルロイドを利用した版画。版画の制約など意識せず、勝手に楽しんでいるというところがあって、私小説的な世界ながらクスッと笑わすアイロニーを秘める。下村と不動は、ともに銅版画(エッチング)前者はエッチングによる線の効果を生かし、自画像風のトランプ、魚、愛のキューピッド、静物……など、芸達者なところをみせる。後者は、からみ合ったフォルムと色ハダの効果に、キメ細かい仕事ぶりを示す。

版画という非常に親しみやすい作品を通じて、四人の作家が制作の喜びをジカに伝えてくれる。「お遊びだ」という意見も耳にしたが、変に深刻ぶらず、のびのびと他分野の仕事を楽しむという姿勢は、げんだいの作家生活にとって、むしろ必要なのではなかろうか。(F)

『京都新聞』1965年7月17日

7月19日 - 25日
田辺守人展

・・・そのほか……田辺守人(画廊紅)……が注目されただけであった。(赤根和生)

『美術手帖』(258)1965年10月号

7月26日 - 8月1日
川上力三展

・・・そのほか川上力三(画廊紅・京都)……が注目されただけであった。(赤根和生)

『美術手帖』(258)1965年10月号

8月9日 - 15日
川端信二陶展

(ギャラリー16で開催中の奥村考作品展と)どちらも前衛陶芸作品といえよう。生物的ななまなましいフォルムに心情を盛っている点が似ており、そうした感覚がもっぱらフォルムを通してあらわされ、陶器はだは意外にも無関係な神経をみせているのも共通した点だ。

川端信二は人間性に対する風刺の造型であろうか。無気味で無意味な手足のようなものがぶらさがっている。一見おもしろくユーモラスなところもかすかに感じさせるが、感覚的な弛緩は少しやりきれない。(高橋亨)

川端信二作品の画像掲載
『日本美術工芸(324)』1965年9月


……八月の京都では陶土を使った作品展が、三人の若い作家によって開かれた。〈川端信二陶展〉(画廊紅)、〈奥村考作品展〉(ギャラリー16)、〈吉竹弘作品展〉(画廊紅)である。

われわれ日本人にとって、陶土と火による造形は実に長い歴史を経験している。原始美術における縄文土偶はもちろんのこと、歴史時代に入って、古代において始めて群像造形の意欲を満たしたものは、埴土による人物埴輪の造形であった。当時にあって古墳の上にかざる器財、人物、動物の像は埴土=陶土で作らるべき呪術的な必然性があったと思う。一口に言って陶土というものがもっとも「生」から隔絶したものと考えたところに、逆に生あるものを写す可能性が存在したように思う。だからわが国において生あるものの造形化を意図した時の最初の素材が陶土であったと言える。その後、古代・中世・近世を通じて陶土は日本人にとって最も身近かな工芸品の素材となっていた。特にそれは茶道の展開と深い関係にあったといえる。現代においてオブジェを作る作家達はどちらかというと埴輪の頃に還ろうとしているようである。埴輪の素材そのものは、生命感を表わしているものでもなかったし、人間が感情移入できる地肌を示してもいなかった。それが現代的オブジェを作るのに適しているのかもしれない。現代作家はいわゆる陶器の世界からの脱出を試みる。

川端信二は肉塊を想わす、骨状の足をニョキニョキ突出した陶土のオブジェを天井からつる下げ、奥村孝は陶土のもつ流動性と粘稠性を組みあわした効果を考え、吉竹弘はぼうようとした造形性の中にきびしさとある種のユーモラスな手工を加えていた。ただし、全体的に言って、陶土を用いて釉薬を排除しなくてはならない必然性をくり返し考えてほしいと思う。前にものべたように陶土の歴史はあまりに重い。その重さをはねかえすには並大抵の努力ではないと思う。(田中比佐夫)

『三彩』(192)1965年10月号

8月16日 - 22日
橿尾正次展

8月2日 - 8日 大阪・画廊あの、8月16日 - 22日 京都・画廊紅

福井県南条町に住むこの作家は、鉄線で作ったワクに和紙を張り、ちょうど変わった形のタコのような半立体の造形に、強く特色を示している。シブを塗った彩色にも、自然の中からイメージを発見したようなフォルムにも、造型を風土から遊離させまいとする質実さと、積極さがあらわれていて、その奇妙な形の展開に、根強い一貫性を保ち、不安を感じさせないのが、この作品の強みである。

半面、そうした自然とのつながりはイメージの自由な発展をつなぎとめるクサリともなる。これらの作品が、ある種の創造の不自由さを語っているのは、そうした点と無関係ではないようである。その次元が平面と立体との中間的な位置にとどまっていることも、一つのとらわれの不自由さを示している。この方法にもとづいて、イメージの思いきった変質を試みてもよい時期に、さしかかっているともいえそうである。(高橋亨)

*画像掲載:橿尾正次作品
『日本美術工芸(324)』1965年9月


……このような素材の面白さが造形的にも成功しているのが〈橿尾正次展〉であった。彼は鉄線で凧あるいは未開人の質などを思わす骨組みをつくり、その上に福井県特産の和紙をはり、しぶをぬって民俗的な体臭と強靭な造形性をつくりだしていた。(田中比佐夫)

*画像掲載:「作品 橿尾正次〈個展 画廊紅〉」
『三彩』(192)1965年10月号

8月23日 - 29日
吉田弘展

……その他明快な形体に走泥社的な軽妙さをにじませた陶彫の吉田弘……が記憶に残る。(赤根和生)

『美術手帖』(259)1965年11月


……吉竹弘はぼうようとした造形性の中にきびしさとある種のユーモラスな手工を加えていた。ただし、全体的に言って、陶土を用いて釉薬を排除しなくてはならない必然性をくり返し考えてほしいと思う。前にものべたように陶土の歴史はあまりに重い。その重さをはねかえすには並大抵の努力ではないと思う。(田中比佐夫)

*画像掲載:「涙の収録 吉竹弘〈個展 画廊紅〉」
『三彩』(192)1965年10月号

9月6日 - 12日
井田照一展

……その点、井田照一のリトグラフではエロスはより中性化された単純明快な形体から、かえって馥郁と匂ってくる。乳房であって乳房ではないそのパターンが占める空間からは、神秘の微笑がまだ失われていないのである。(赤根和生)

*画像掲載:井田照一「作品」
『美術手帖』(259)1965年11月

9月13日 - 19日
三田村宗二展

……三田村宗二の画面も多分にグラフィックなものになろうとしているが、厚塗りの色面や引掻いた線や記号的なパターンをちりばめたその自由なイメージもやや雑多な饒舌に走りがちである。(赤根和生)

『美術手帖』(259)1965年11月

10月4日 - 10日
石原薫個展

……個展ではその他特異なものとしては石原薫個展があげられるだろう。彼自ずから教会堂の建築設計のプランを考えそこに写真技術を応用してゆれる壁面をかざるべく、その下絵ともいうべき大作を出品していた。そのような目的のための下絵だけに、絵そのものについては、そこに描かれている人物の実在感などをみとめる程度にしかならないが、このような、作家の、積極的な効用性への態度は興味のあることと言わなければなるまい。

『三彩』(194)1965年12月号

10月18日 - 22日
井隼明義個展

10月23日 - 27日
田村尚個展

10月28日 - 31日
服部正実個展

11月1日 - 7日
三尾公三展

三尾公三はとり出された内臓を手ぎわよく整然と処理し乾燥させる、さしずめ練達のミイラ作りである。(前述の)松谷や喜谷に比べ三尾の仕事は確かに乾き、無機化されている。しかし、灰色のセメントのマチエールのなかに装飾化され、オブジェ化されたこの物質こそ、死と交叉し、死の表情に装われた生そのものの凝固であり、生への渇望の象徴であろうか。まさしくそれはミイラと呼ぶにふさわしい。(赤根和生)

『美術手帖』(262)1966年1月


*画像掲載:「作品 三尾公三〈個展 画廊紅・京都〉
『三彩』(194)1965年12月号

11月8日 - 14日
篁邨会展

11月15日 - 21日
安田茂郎展

11月22日 - 28日
麻田浩展

……麻田浩(11・22-28 画廊紅・京都 11・29-12・5 画廊あの・大阪)の近作に突如としてあらわれだした人間の形象は、必ずしも明確な形而上学を投影しているわけではない。それはむしろ生々しい肉体をめぐる混沌と蒙昧そのもののイメージである。古典的なデッサンによって亡霊のように人体やその部分のかたちあらわれる空間には、いわば中性的な神秘の暗黒がふかく垂れこめている。この人体をめぐる崩壊と復活の幻想劇はただそれだけのものなのか、あるいは余りにも大胆なそのアナクロニズムの背後に人間の存在と不在にまつわるどれほどのアイロニーがかくされているのか全く不明である。麻田のこの肉体への突然の回帰は必ずしも理解しがたいことではない。これまでの画面のあらゆる情念をたたみこんだようなあのぶ厚い触覚的な非形象のマチエールには肉体への嗜欲がまざまざと感じられたからである。しかし、だからといって全くリアルな人体の登場がそのまま合理化されるわけではない。その明らさまな肉体への関心が、今日という時点でどのような人間観に支えられているのか、それを探るには余りに過渡期的な晦渋さが支配している。(赤根和生)

*画像掲載:「麻田浩 頭」
『美術手帖』(263)1966年2月


……転機をはっきり感じてその過程の仕事として、作品を発表していたのが、麻田浩であった。今までのセメント類を使って伸縮するしわを利用した抽象画に代って、今度はその中に、幻のごとく手足、顔などが描かれ、深い雰囲気をもったうまみのある幻想的な作品をならべていた。(田中日佐夫)

*画像掲載:「帰宅 麻田浩〈画廊紅〉」
『三彩』(196)1966年2月

11月29日 - 12月5日
由里本出展

12月6日 - 12日
福田芳子個展

12月13日 - 19日
三宅多喜男展

……これに比べて、三宅多喜男の木彫は、はるかに意志的な量塊のダイナミズムによって一貫した存在感をうちだしている。しかし、ここでは素材としての木材の本質や意志が必ずしも生かされていない。作者との対話は封じられ、過重な表現が強いられていはしまいか。そこにわれわれが感ずる違和感は材質に先行する表現意識のもたらすものだ。極言すればこうした作風には石やセメントや鉄がはるかにふさわしい。(赤根和生)

*画像掲載:「三宅多喜男 作品」
『美術手帖』(264)1966年3月


……三宅多喜男は数年来手がけてきた木彫群をならべていたが、そこには、木自体がもつ生命の美しさをねじまげることなく、すなおに追及したノミのあとを感じられるよさがあった。(田中日佐夫)

*画像掲載:「偶 三宅多喜男〈画廊紅〉」
『三彩』(196)1966年2月

12月20日 - 23日
第3回「前衛作家によるチャリティーショウ

DMあり(下村資料)

師走の候となりました
さて今年も関西在住の前衛的な画家、彫刻家、工芸家の人たちが恵まれぬ人々の為に少しでもお役にたてばと、第三回「前衛作家によるチャリティーショウ」を左記の様に開くこととなりました、進歩的な作家多数が持寄った作品を陳列し会場で入札していただこうというわけです
どうか歳末チャリティーの趣旨にご賛同下さいましてご協力をお願い致します
 会期  12月20日より23日正午まで
 会場  画廊「紅」 京都・縄手四条上ル
  昭和40年12月

「前衛作家によるチャリティーショウ」

発起人:依田義賢、奈良本辰也、上野照夫


「前衛作家によるチャリティー・ショー」がきょう20日から京都市東山区縄手通四条上ル画廊“紅”で開かれた。京都在住の前衛作家を中心に、一昨年から行われているもので、今年で三回目。

◇…海外で花々しく活躍する陶芸家や彫刻家、苦しい画業を続ける無名の新人画家までおよそ70人が、それぞれの“力作”を持ち寄った。ことしは関西各地をはじめ、東京作家も出品、昨年より出品点数も30余点ふえるという盛大さ。

◇…会期中に来場者の入札(最低五百円)を受けて、最高値で落札。最終日の23日正午に入札を締め切る。純益は恵まれない子供たちへ“お年玉”として贈る予定。発起人の一人上野照夫京大教授も「作家の善意を結実させよう」と一般鑑賞者の協力を呼びかけており、初日早くも入札があいつぎ、好調の出足。=写真は慈善展会場

『京都新聞』1965年12月20日


「売り上げそっくりプレゼント 京阪神の前衛作家ら」

☆…恵まれない人たちに売上金を全部プレゼントしよう―と20日から京都市の縄手四条上ル、紅画廊で京阪神在住の前衛作家たちによる「チャリティーの会」が開かれた。

☆…三年前、京大教授上野照夫、シナリオライター依田義賢、立命館大教授、奈良本辰也が発起人となり、各作家に呼びかけて始めたもので、今年も呼びかけにこたえて彫刻家の辻晉堂、陶芸家、八木一夫、清水裕詞、画家の古田安、下村良之介氏ら京阪神在住の前衛作家69人が出品、会場には絵画、陶器、彫刻、版画、染色など86点の“愛の作品”がぎっしり並べられた。このチャリティーの会は23日正午まで開かれ、希望者は会場入口の箱に買いたい作品の入札値をいれ(一品五百円以上)23日正午に箱を開いて落札、売上金はそっくり施設の薄幸の人たちに贈られる。

☆…この日開店とともにサラリーマンや美術ファンが押しかけ、思い思いに作品を鑑賞しながら入札していた。(写真は愛のチャリティーの会)

『毎日新聞』1965年12月21日

画廊散歩
選抜シリーズ”も企画 画廊・紅

「昨年までは甘かった。ことしこそりっぱな画廊にしていきたい」と抱負を語る経営者の松永ゆりさん―。そのあらわれか、画廊と同居していた“手芸の店”も閉鎖、小品の常設展示室に改装中だ。二月初旬には工事も終わるので「積極的に抽象作品を売っていきます」という。


オープンは39年7月。前衛作家や評論家のバック・アップで辻晋堂、八木一夫、下村良之介……といった9人の実力作家の“個展シリーズ”を、画廊企画として続けた。これが画廊の性格づくりに大いに役立ったようだ。いらい有名、無名の画家、彫刻家、書家、工芸作家があいついで個展やグループ展を開いている。壁面の長さ25メートル余りという、かなり広々とした画廊で、一部に天井までの高さ4メートルという壁面もあって、大作へいどむ作家の好評を得ている。


1月の「評論家余技展」(ことしから無閑人展)12月の「前衛作家のチャリティ・ショー」などのほかに、今春5月からは1人の評論家の選抜による「紅選抜シリーズ」も企画している。なお個展などの会期は毎週月曜から日曜まで。時間は午前11時―午後7時。貸しギャラリーの費用は一週4万円。京都市東山区縄手通四条上ル西側。

『京都新聞』1966年1月22日

1966
1月24日 - 30日
無閑人展

DMあり

(美術評論家・文人余技)

=美学者、評論家、文化人、美術記者などによる美術工芸“余技展”-。絵画、彫刻、工芸など。
朝山新一、上野照夫、亀田正雄、河本敦夫、黒田英三郎、国分綾子、重達夫、下店静市、高橋亨、土居次義、中川脩造、中村敬治、奈良本辰也、山田竜平、依田義賢、藤慶之

1月31日 - 2月6日
版画展 8ピキの梟

DMあり

不動茂弥、石原薫、熊倉順吉、佐野猛夫、下村良之介、鈴木治、辻晋堂、八木一夫


近年、急激に版画人口がふえてきた。洋画家も彫刻家も、陶芸家や染色作家も、それぞれ思い思いの版画をはじめている。

「八ピキの梟」展も、画家の石原薫、不動茂弥、下村良之介、彫刻家の辻晋堂、陶芸家の熊倉順吉、鈴木治、八木一夫(不出品)染色作家の佐野猛夫が、制作のあい間に楽しみながら作った版画数点ずつを並べている。石版あり、エッチングあり、ドライポイントあり、転写法あり……と、約束ごとにとらわれない自由奔放さが一つの強味となっている。大半が小品で、日ごろの制作とは違った気軽さがあるためか、逆に親しみやすい展覧会となっている。

(紙面不詳、日時不詳)

2月7日 - 13日
栄利秋展

DMあり

=京都美大彫刻科出身の若手作家。抽象木彫十数点を発表。


怪魚が相手のシッポにつぎつぎかみついたようなオブジェ―一木彫りのうえ、手間のかかった仕上げと、職人的ともいえる技術を駆使しながら、文学的なユーモアがあふれている。半分に切ったコッペパンを合わせたような作品にしてもセクシュアルなおかしさをねらった“下心”が感じられる。そこには制作上の苦悩とか深刻さをよそおうポーズは感じられず、わき出るイメージを楽しみながらオブジェ化するユーモア精神と、サービス精神が同居している。怪魚のシッポ噛(か)みにしろ、コッペパン風のオブジェにしろ、さらにクルミを割ったような作品にしろ、陰と陽の接合の瞬間にみられる“おかしさ”が共通テーマのようだ。機知と技術が手を結んだばかりの段階ともいえそうだが、小さくまとまらず“額ブチ”を感じさせない大番的な広がりは、これからの飛躍を期待させる。大阪芸大を卒業後、京都美大専攻科で彫刻を学び、昨年春卒業したばかりの若手ホープだ。(藤慶之)

*画像掲載:「作品」栄利秋個展から
『京都新聞』1966年2月12日


昨春、京都市立美大専攻科を卒業した栄利秋氏の彫刻展では、四つの球体をつなぎ合わせた「結合」という木彫りが秀逸だった。フォルムが大らかで、木目の美しさもよく生かされており、落着きと安定感があった。他の作品はいま一つ物足りなかったが、テクニックが秀れているので、今後が楽しみである。(京都市美術館学芸員・原田平作=談)

*画像掲載:「栄利秋作「結合」(個展から)」
『朝日新聞』1966年2月15日


栄利秋の木彫はこれまでかなり有機的な造形に傾いていたが、近作はますますフォルムが簡潔になり、木彫にありがちな素材にもたれかかった態度を拒否して悧怜な表現のなかにウィット(機知)をもちこんで注目される。(赤根和生)

『美術手帖』(265)1966年4月

2月14日 - 20日
深尾博三・村田吉男二人展

=絵画二人展=アトル美術会員の深尾博三、村田吉男が抽象絵画を発表。


ともに二十代の若手抽象画家。昨年末解散した抽象絵画グループ「アトル美術」の創立いらいの会員で、日吉ヶ丘高校出身。深尾は白一色の画面に、虫喰いや細胞分裂を思わす四角い盛り上げがあったり、小さな穴が並んであけられたりしている構成的な抽象作品。一方の村田は緑のバックに、いくつもの馬蹄(ばてい)形のフォルムが浮遊している。二人に共通していえることは、発想と造形の間の必然的結びつきの弱さと、ナマに感じられる仕上げ。これらが満たされると、前者には凹凸による光りと影の美しさが、後者には馬蹄の群がりからくる“戦陣のおかしみ”みたいなものが、それぞれ出てきそうだが……。(藤慶之)

『京都新聞』日時不詳


「立体感をもる」

ともに日吉ヶ丘出身の洋画専攻、深尾はゴ粉と石コウを使った白い作品、村田はグリーンを基調にみがき粉とボンドを使い、馬蹄(ばてい)をやたらと刻して立体感を出した作品)

『夕刊京都』日時未定

2月21日 - 27日
ウメシュヴァルマ展

=インド出身の画家。油絵を発表。


「詩的でエキゾチック 小品には澄んだ色彩」

ウメシュとは覚えやすい名だがインド出身。はじめ医学を勉強し、かたわら趣味で始めた絵画にだんだんはいり込んで毎年グループ展に出品し、5年前セローズ賞を受賞した。デリーで個展を開いた64年秋、陶芸研究のため来日し、現在は工芸繊維大窯業科に籍をおく研修生。

作品はファンタジックな色感に満ち、どことなく詩的でエキゾチックなムードがあり、ことに小品に澄んだ色の美しいものがある。

=写真はその作品の一つ「ドーム イン サンライト」12号

『夕刊京都』1966年2月25日


インド・デリー美術大出身の画家。一昨年、陶芸と美術の研究のため来日、現在京都工繊大に留学している。日本では初めての油絵個展で、会場に並ぶ二十数点の作品には、どことなくお国柄を思わすムードが感じられる。具象的なイメージをかなり抽象化した“心象風景”ともいうべきもの。色調には“鮮明さ”というものはないが、暗重さの中に輝く美しさはある。ただ、画面全体から受ける印象は、凝縮していくような“堅さ”であり、もっとのびやかさが欲しくなる。その点で、小品の「アジンの為に」「橋」「花瓶」「魚」などがいい。(藤慶之)

『京都新聞』1966年2月26日

2月28日 - 3月6日
鈴木治陶展

DMあり

「単純化されたフォルムの美 鈴木治個展・八木一夫個展」

作品はどちらも前衛的な陶芸。鈴木には「土偶」「泥像」などと名づけたものが多い。古代の土偶を原型にし新しい美をつくり出そうとしているようだ。鈴木のこの傾向は、数年前から続いてきたが、こんどの個展はこれまでのしめくくりといってもよいと思う。まず、単純化されたフォルムが美しい。以前のようなデリケートなふくらみがなくなったかわり、線にも面にも、きっぱりとした感じがでてきた。そこに見られる模様は古墳時代の単純な図柄をさらに、記号化したとでもいえようか。

八木の作品は多くが黒陶で、虫の群がっているような表面が特色。単純なかたちに押しつぶし、内へおさえこもうとするきびしさが、以前よりさらに強く感じられる。こうした作品として「顔」「暦」などがすぐれている。ユーモラスな姿の「密売人」には新境地が見られる。水金を一面に塗って焼いた「装った物体」は、彼にとって初の試み。これからどんな境地を開いて行くかに注目したい。(国立近代美術館京都分館 文部技官 鈴木健二=談)

『朝日新聞』1966年3月18日


陶芸家というより、得意の陶土を使う立体造形作家といったほうが、ピッタリしている。近年陶芸界で、会場芸術を意識した大作の壺やオブジェ的なものが盛んに作られるが、立体そのものとして見たとき、フォルムの弱々しさが目立つ作品も少なくない。鈴木の陶彫を見ていると、単純化された形体ながら、そこにはオリジナルなものがあり、そのうえがん強さとアイロニックなユーモアが同居しているようだ。赤茶けた土ハダに、土俗臭の強い記号やリズミカルな文字が固着しているのも、単なるボディの装飾役にとどまらず、ボディと一体となって、不思議なムードをかもす。「泥像」「土偶」「土面」など三十数点。小品の「傭」も楽しい。いわば、抽象的な“現代の土偶”の群像だろう。前衛陶芸グループ「走泥社」の創立メンバーの一人。(藤慶之)

*画像掲載:「土面」鈴木治展から
『京都新聞』日時不詳


陶彫では八木一夫(3・1-7 山田画廊・京都)と鈴木治(2・28-3・6 画廊紅・京都)がほとんど同時に近作を発表、その対照が興味ぶかかった。八木の才気横溢の黒陶を主にしたオブジェと並んで、最近作と思われる水金上絵の細長い作品は今までに見られない作風で、これが今後の展開の兆しかもしれない。これとは対照的に鈴木の近作は才気を抑え、より簡潔素朴な土俗性へと回帰しようとし、彫刻的な八木の世界にたいして、ざっくりした形体のなかにより陶的な感覚を主張している。(赤根和生)

『美術手帖』(267)1966年5月


「鈴木治個展〈京都・紅画廊〉発表会まで・28」

四条通りから縄手通りを少し北に上った祇園の真ん中に、昨年新設された画廊「紅」がある。鈴木治陶展には、鈍いチョコレート色を主調とした陶彫30点あまりが並べられている。顔らしきものをもち、人らしき姿をかたどった「土偶」と、なにやら碑のような「泥像」とからなっている。それらは像(スタチュー)であり、呪物(フェティッシュ)であるとしても、決して日常の実用品ではない。その意味では、たしかに、常識でいう陶芸よりも、彫刻に近いといえる。

京都生まれ、陶歴二十年。前衛陶芸のグループ「走泥社」のメンバーで、八木一夫とともにいわゆる「オブジェ焼き」の旗手であり、一昨年国立東京近代美術館で開催された現代国際陶芸展に選ばれて出品した。――といえば、京都ではもう幾度も個展を開いたにちがいないと思ったのだが、きいてみると、昨年、同じ「紅」での個展についで、これが二度目であるという。東京では、1964年、資生堂で開いた個展が一度だけである。意外に少ない。

陶芸家の作品はふつうデパートや工芸店で商品として展示される。たとえ個展形式をとったとしても、デパートで行なわれる以上、営利的な性格が強いのが当然である。しかし多くの陶芸家は、そうした形式を当然と思い、満足しているから、外へ出てフリーな立場の個展を開こうなどという意志がない。しかし、鈴木治の作品は、「前衛的」であるために、デパートでは売れないので、かれの発表の場は画廊に求められることになる。つまり、工芸の次元ではなく、美術の次元を志向するのである。

その志向する美術は、「走泥社」のグループ活動によって触発され、成長し、そしてたしかに、社会的に発言力をもち得たということがいえそうである。これは走泥社の他のメンバーについても同様であろう。自由な創造精神を失い、形骸と化した伝統に反逆して生まれたオブジェ焼きは、志を同じくするもの十数人が糾合することによって、一つの強力な運動として展開し得たのである。だから、鈴木治にとって、ここ十年来は、走泥社のイデオロギーに共調し、走泥社展に全力をつくすことが、まず最初の道だったのである。事実、「走泥社展」は東京でも京都でも、非常にしばしば行なわれている。だからといって、鈴木治は、グループによりかかっていたというのではない。走泥社における鈴木治は、陶芸の革新への情熱に燃えていたにちがいない。そして、そのレジスタンスの歴史が、一人の作家としての力量を世に認めさせることになったのである。このことによって、鈴木治が走泥社を必要としなくなったことにはならないし、走泥社が解体の兆をみせているというつもりはないが、走泥社を母胎とした一人の作家の、新しい航路がはじまろうとしていることは事実であろう。近年になって開かれるようになったかれの個展の意味は、これである。

「土偶」といい「泥像」といい、すべてロクロを用いずに、ちょうど埴輪を作るのと同じように、縄状にのばした土を下からぐるぐると巻きつけて成型して行く。なかはすべて空洞である。素地の上に白化粧や鉄分でグラフィックなパターンを描き、全面に土灰を施して焼成する。ふつうの釉薬のように完全に変化しないように、土灰をこがすことによって、にび色の独特のマチエールが生ずる。ロクロの回転によってつくられる球体の厳しい条件の中での造形と、釉薬のもつ機能を最高度に発揮された焼成こそが、近世以降の陶磁の芸術理念であったが、鈴木治は、造形的には、ロクロにとらわれない純然たる手仕事の痕跡をうたおうとし、マチエールとしては、土のもつ塑性の味を生かそうとしているようである。

みていると、ふと童心をよびさまされるようなほのぼのとした情感がこみ上げる。フォルムこそアブストラクトだが、そこには、埴輪や、六朝の俑や、キクラデスなどの古代的なイメージがある。しかし、そうした古拙の世界への憧憬ではなくて、今日の工芸陶器のマニエリスムを打破して、もっと直截に人の心を打つやきものをつくり出さずにはいられなかったのではあるまいか。さらに、多くの作品の表面に記された片仮名や数字や幾何学的パターンは、現代のマス・コミュニケーション文化の悲劇的様相の映像のようにもみえるが、あるいは、それらが本来もっている初源的な機能の復活を希求しているのかもしれない。

画廊にやってくる人は、京都在住の画家や彫刻家がむしろ多く、仲間を除いては、やきものの関係者は非常に少ないという。事実、かれの仲間は、画家や彫刻家やデザイナーたちであり、画家の下村良之介らと夜な夜な飲み歩いて、京都における「七人のふくろう」と呼ばれているという。やきものの町京都でのこの状況が、鈴木治の立場を象徴しているし、それがまた、京都で個展を開く大きな意義である。東京で個展を開き、受け入れられるにせよ反発されるにせよ、一つの美術界のできごととして評価されるのとは、ここではいささかちがうのである。

「京焼」という概念は、今日一般には、いわゆる上手(じょうて)の、茶や懐石にかかわりをもつものにしみついているように思われる。大作家の茶碗は、べらぼうな値段で珍重される。オブジェ焼きは容易に売れるものではなく、売れたとしても茶碗一個の何分の一、何十分の一の値段なのである。そうした京焼の風土に育ち、そこに反逆するこの作家が、京都で発表会をもつというのは、ある意味で危険なことであろう。それだけに、こうした意欲的な発表会をもつに至ったのは、この作家の自信を物語るのかもしれない。これまでベルギーとチェコの国際陶芸展に招待出品し、これから大いに国際舞台に進出する可能性もあるが、それにもまして京都でかれの立場を確立することが、実はもっとも大切なことであり、もっともむずかしいことでもあるように思われる。

ちょうど画廊にきていた八木一夫とともに、鈴木治は、「われわれこそ京焼の直系なんですよ」といって、ケラケラと笑った。

*画像掲載:「鈴木治 泥像と土偶 1966」「鈴木治」
『芸術新潮17(4)』(196)1966年4月

3月7日 - 13日
竹中正次展

DMあり

京都青年美術作家集団 竹中正次展

絵画作品を発表


大阪在住の抽象画家。京都青年美術家集団の一員で、京都では初めての個展。赤、青、黄、黒といった“強い色彩”が、画面をうねり狂ったような抽象作品十数点。油絵具自体のもつねばっこい生命感が、画面をはい回っているといった感じだが、このねばっこさがもっとていねいに表出され、マチエールの美しさが整理されるといい。(藤慶之)

『京都新聞』1966年3月12日


「運転士の絵筆」

作者は国鉄マン。特急電車に乗務する“運転士画家”という変わりダネ。市村司らとともに戦後アンデパンダン展の創立に活躍し現在京都青年美術家集団に所属。「乗客の生命、財産をあずかる仕事についているため、制作時間や態度に限界はあるが、絵をかいているとはじめて、失われていた自分がとりもどせる」という。

フォーブ調の激しい赤をたっぷり画面にもりあげブルーや黒で動きのある抽象画を出品している。運転士という仕事が神経をチカチカさせるため、作風もスケールの大きなものを追求している。

『毎日新聞』 日時不詳

3月14日 - 20日
早川勝巳個展

DMあり

デフォルメされた人物のシ体や、そのからみ合い。くすんだハダ色を主調に、一種の壁面でも見るような古代性をねらっているようだ。独特の手足の描写や枯色な画面ハダに、ユニークさを見せるが、やや方向の不徹底さが気になる。ハク落するマチエールの点など、画面効果と作品保存のからみ合う問題でも考慮の余地がありそうだ。京都在住の新制作油絵部協友。(藤慶之)

『京都新聞』1966年3月19日

3月21日 - 27日
山田独行個展

DMあり

孤独な情念を、乾いた画面に定着させていた。カンバスの上に陶土を塗りつけ、トーチランプで焼いてフォルムを作るという技法は、目新しい。画面のまとまりは「抱」がいちばんよく、情念の表現では、構成、色彩ともに精神の不安を訴えてくる「闇路」が目立った。しかし作者の発想は、独自の技法に密着したものといい難く、因習的な安易さを残していると思えてならない。(国立近代美術館京都分館技官 鈴木健二=談)

『朝日新聞』1966年3月29日


油絵11枚。40年度独立展で、京都新聞社賞。

『朝日新聞』1966年3月22日


「特殊な技法で塗りこめる」

独立美術所属、150号1、80号その他9、小品5、計14点の出品。昨年受賞した作品からもう一歩押しすすめて見たいという意図をこめ、石のはだによせるイメージを特殊な技法で塗りこめている。ボンド、砂、油、その他の材料を使い、ボリュームを出すために厚くもり上げ、さらに部分を高温のトーチランプでやきつけるなどの手法を試みている。ものによってはスサを混ぜこんだりして、高熱で自然に出るヒビワレなどもおもしろく使った画面。

他のグレーの空間処理がやや安易で、全体にかたいかんじを免れないが作者の自己批判では「やわらかすぎてシャープさが欠けた」といっている。大きい作品に対し小品の方は楽しんで制作しているのが分かる。

『夕刊京都』1966年3月25日


昨年の独立展で京都新聞社賞を得た若手抽象画家。陶土とボンド(接着剤)をまぜ合わせた強固な盛り上げ―その材質の中に、ねばっこい生命感を秘めた抽象画だ。初めての個展で、大作10点と小品5点を並べているが、これまでの“荒さ”が消えて、画面づくりに繊細さが加わってきたようだ。「雨後」「乱闘」「易々」など、マチエールの味も興味ひくが、その反面、盛り上げた部分のフォルムと空間とのコントラストに一くふうほしい。この種の仕事で、最も重要な点はフォルムの新鮮さではあるまいか。持ち前のスケールの太さを大事にしながら、飛躍してほしい。(藤慶之)

『京都新聞』1966年3月26日

3月28日 - 4月3日
にゆい彫塑展 前期展

DMあり

磯尾寛治、木代喜司、田中彰、橋川稔

4月4日 - 10日
にゆい彫塑展 後期展

DMあり

酒井良彦、塩見衿子、田中昇、宮崎雅司


=京都学芸大出身者のグループ。作品は全部で32点

*画像掲載:力作並ぶ「にゆい彫塑展」会場(紅画廊で)
『朝日新聞』日時不明


「にゅい彫塑展」

京都学芸大特修美術科(彫刻専攻)出身の若手彫刻科8人の研究グループ。前期が、磯尾寛治(兵庫)木代喜司、橋川稔(京都)田中彰(大阪)の四人展。つづいて来週には酒井良彦(大阪)塩見衿子(奈良)田中昇(尼崎)宮崎雅司(京都)の四人が後期展を開く予定。

具象的な発想の彫刻が大半で、それぞれ京展あたりで活躍を続けている。木代は一見ジャコメッティとムーアの彫刻を思わすが発想には日本的な偶像がありそうだ。「像Ⅱ」「像Ⅲ」など、工芸的に小さくまとまらぬよう注意すべきではあるまいか。その点、荒けずりな感じはあるが橋川「乙」のスケールの大きさは伸ばしたい。田中の石像「二人」は、小さくまとまった感じはあっても、楽しめる要素をもった立体だ。磯尾は「Tの首」など人物。

技術の大切なことはわかるが、技術が先行して、思想が内攻してくると、広がりが弱まる。具象派の課題の一つではあるまいか。

『京都新聞』1966年4月2日


「素材をこなしきれぬうらみ」

=京都学芸大彫刻科学生八人の会で、前期後期にわけ、各四人ずつが数点ずつ出品している。

プラスチックを素材にしている人が多く、それも橋川稔は、プラスチックの材質をそのまま見せた作品、まだまだこなし切れぬうらみがあるが、将来に期したい。田中彰はセメントと石を使っているが、プラスチックの材料と違って重量感や冷たいかんじなどの点でやはり親近感がある。木代喜司の一連のブロンズ張りがザッキンの影響をうけたようなフォルムで、一段の飛躍がのぞまれるし、最後の一人磯尾寛治君は写実的な裸体で材料は軽い。

『夕刊京都』1966年4月1日


「目をひく酒井の「子」」

酒井良彦が母子の体を長く伸ばして作った「子」が目をひいた。現代感覚を生かした東洋的な感じが出ていた。こうした縦長の変形は、いままでにも多くの作家が試みているので、類型的にならないよう見守って行きたい。今回はこまかい横の線が全体を引きしめていた。ただし、彼の抽象作品は、具象作品とのつながりが稀薄(きはく)であった。同じ会場の塩見衿子は知性的な作風。塑像の表面に、もう少し張りがほしい。田中昇、宮崎雅司の作品も面白く、この展覧会は楽しめた。(京都市立美術館学芸員 原田平作=談)

*画像掲載:酒井良彦の「子」
『朝日新聞』1966年4月12日

4月11日 - 17日
真山豊個展

DMあり

青美会員で、白を主体にした抽象作品18点を発表。


=かつて青美(京都青年美術家集団)を結成し、京都アンデパンダン展の創設に一役買った。現在、関西電力に勤務しながら制作を続けている。キャンバス代わりにムシロを用い、その上にゴフンとニカワで盛り上げを作った画面。大作小品あわせて20点のうち、黒く鋭い線を交錯させた「与えられたものは狂激な加速」などに変化が出てきた。

紙面不詳 日時不詳


「画歴のにじむ面白い構成」

青美会員でアンデパンダンに出品。関西美術院で五年間黒田重太郎、津田周平氏らに師事し、筆をとってから18年と画歴は長い。二回目の個展で、数年来の素材ワラムシロを板にはりその上に胡粉とニカワとカーライトを混ぜた材料を盛り上げ、墨ツボで引いた黒い直線や板で囲い固めた太い盛り上がりなどで画面を構成している。たたき込んだ基礎にものをいわせたしっかりした構成がおもしろい。白を主体として黄色がかった色調を共通色とした二十数点。小品の一部に数学的な対数比を用いて安定した構図を見せる。甲曜会主宰。

『夕刊京都』日時不詳


「意気込み買うが厳しさ必要」

ムシロをカンバス代わりに使い、その上に厚く顔料を盛上げた作品。画面の中で、白い顔料を厚く盛ったそばに、素早く走るような細い黒い直線に描いたものは、その不調和に、ハイウェーで疾走中の車とすれちがうときのようなスピード感を受けました。独自の境地を目ざす意気ごみはさかんな感じです。しかしそれを実現するには、一つの線、一つのフォルムをもっときびしく選ぶ必要があります。(同志社女子大講師 秋野左多子=談)

『朝日新聞』1966年4月19日


……個展ではムシロを使って造形化する方法を長く続けていた真山豊の個展(ギャラリー紅4・11-17)、ゼロの会に所属する藤波晃の個展(同 4・18-24)…など、いずれも今までの自分の歩みをすすめて、一段の飛躍を試みている点で興味があった。(田中比佐夫)

*画像掲載:「与えられたものは狂激な加速 真山豊〈個展 ギャラリー紅〉」

*画像掲載:「無為 藤波晃〈個展 ギャラリー紅〉」
『三彩』(201)1966年6月号

4月18日 - 24日
藤波晃作品展

DMあり

=ZEROの会所属、油絵15点


「思いきった変化」

ひところ、藤波の作品は“京都浪漫派”といわれた。さらりとした構図、古都の塔や鳥居を思わす色感。ごてごてとマチエール(画面)をつくったねばっこい抽象画とは、うらはらに、油絵とキャンバスの作品。

こんどの個展では思いきり色もふんだんに、構図にも変化をもたせた。朱、茶、青、黄、黒の色彩が、白い空間をうまくいかしている。

『毎日新聞』1966年4月20日


まっ正直な非形象絵画である。いわゆるマチエール絵画からのかれのこの脱皮は、前衛からの一歩後退を思わせたが、しかしあざやかな色彩と歯ぎれのいい筆触が画面を新鮮で清潔なものにした。才気とひじょうに快調な感情の起伏がある。ときとして装飾過多におちいりがちな画面をつぎつぎと新しく脱ぎすてていくのがいい。こんごいっそう強じんな構成力が加わればいいと思う。(中村義一)

*画像掲載:「藤波晃の作品」
『紙面不詳』1966年4月23日


「うす塗り、白地の開拓に期待」

=行動美術協会の会友で、ZEROの会会員。明るい黄土に朱やブルーを配し、長い間航跡のイメージにつかれていたが、それをこわしては新しく開いて行く変化がおもしろい。この度は第五回作品展で、昨秋の個展作品のあとをうけ、150号2点、100号の変形5点、小品2点、20号5点の出品とたくましい。構図は変わっても朱は同じく、黒を効果的に使うなど、やはりカラーリストである。うす塗りのきれいな面、白い地の新しい開拓に期待したい。

『夕刊京都』1966年4月22日


このごろの抽象画は、特異な材料を好んで使う傾向が強いが、この作者は油絵具の特色を生かし、むしろそれに執着しながら、自分の作風を展開しようとしている。注目された絵は「陰謀」「漁」など。黒や赤を適当に使いながら、広々とした、漂うような空間を画面に作り上げていた。ほかに、きびしい構成と強烈な色彩の対比で、一つの効果をねがった作品もあったが、そのねらいはまだ十分成功しているとはいえない。

彼の絵は、長い間、淡い色調と大きな色面分割が特色になっていた。ロマン的な気分がそこに漂っていた。黒や赤を取入れたのは昨年からのことだ。その一応の成果はこんどの個展に現れていたが、目を引かれた作品には、画風を変える前の絵とのつながりが深く感じられた。(国立近代美術館京都分館文部技官・鈴木健二=談)

*画像掲載:「藤波晃「漁」
『朝日新聞』1966年日時不詳


昨年あたりまでの仕事は、朱や青、黒、黄といった色彩を、どぎつく重ねた抽象絵画だった。絵の具のたらし(ドリッピング)が、部分的な装飾効果を出してはいても、全体の印象は重苦しく、油絵の具のナマな感じが生理的にも一種の抵抗を感じさせていた。

今度の第五回個展にも、その延長とみられる重苦しい作品も2,3あるが「無限の遊戯」「無用者」には、詩情あふれた解放感が出てきた。「賭」「趾」など「画面構成を無意識にすすめたい」という姿勢は一つの飛躍とみていいが、無意識に置かれた一本の線が、生き生きとよみがえるには、まだかなりのデッサンが要求されそうだ。ゼロの会会員、行動美術会友。

紙面不詳、日時不詳


朱、黄、黒、青の色をつかった美しい抽象画。行動会員。

紙面不詳、1966年4月23日


……個展ではムシロを使って造形化する方法を長く続けていた真山豊の個展(ギャラリー紅4・11-17)、ゼロの会に所属する藤波晃の個展(同 4・18-24)…など、いずれも今までの自分の歩みをすすめて、一段の飛躍を試みている点で興味があった。(田中比佐夫)

*画像掲載:「与えられたものは狂激な加速 真山豊〈個展 ギャラリー紅〉」

*画像掲載:「無為 藤波晃〈個展 ギャラリー紅〉」
『三彩』(201)1966年6月号

4月25日 - 5月1日
あかへび展

DMあり

麻生花児、国塩準之助、小谷英紀、白石昌夫、高岡徹、覗好十郎

=東京芸大出身者のグループ。六人が油絵約20点を出品。


東京芸大出身の若手画家6人のグループ展。メンバーは麻生花児、国塩準之助、小谷英紀、白石昌夫、高岡徹、覗好十郎だが、淡いムードをたたえた非具象絵画という点での共通の感覚をもったグループだ。個々としてのアピールというより、グループ全体としての印象になってしまうのも、そのためだろう。各作家が大作や小品を4,5点ずつ発表しているが、もっと明快でムードに甘んじない力強さがほしい。

小品ながら明快な配色と構成的なフォルムの高岡、叙情的だが感覚を大事にのばそうとする麻生の作品に、比較的個性を感じた。

『京都新聞』1966年4月30日

5月2日 - 8日
吉竹弘陶彫展

DMあり

テラコッタ調のオブジェの陶器約11点。走泥社所属。


日吉ヶ丘高校出身の若手陶芸家。現在、前衛陶芸集団“走泥社”に所属し、陶彫オブジェを発表し続けている。三回目の今度の個展でも、丸い突起のあるオブジェなど11点を発表。素焼きのままの作品と、着色のものとに分かれているが、渦巻き模様を一面に着色した「作品12」が土俗的でいい。他の作品は、オブジェ自体の形体のあいまいさが気になる。

『京都新聞』1966年5月7日


「自我自在の伸びやかな作品」

走泥社のメンバー、のびやかな大きさの、変化に富んだオブジェばかりで、焼きしめとその着色十数点をならべる。作者のひとり言も聞えそうな、深刻ぶらぬフォルムがよい。釉薬を使わない素朴な生地の味ともよく合っている。

神経のまるいこうした作品にひかれるのは、自我をまったく不在にした作品でかえって現代の人間の存在と意味を確認しようとするその作為に比較してまっすぐに生(なま)でうけとれるからであろうか。

『夕刊京都』日時不詳

5月9日 - 15日
紅選抜シリーズ 第一回

DMあり

選者のことば

選考の対象が、私の都合で京都で行われた展覧会の作品に限られたことをおことわりしておきます。選考にあたっては、ことさら特定の傾向を意識したわけではなく、もっぱら優れた作品をと心がけましたが、或る程度は会場の感じを統一的にしようという意識が働いていたことも否定できません。第二回、第三回の選抜展をさらに御期待下さい。

上野照夫


染色:三浦景生、来野月乙

絵画:寺尾恍示、辻浩、斉藤光保、木下茂森、高瀬善明、西井正樹


「純粋な抽象画で統一される」

開設三年を記念しての開催で、その選抜を一人の人に任せた点でちょっとおもしろい企画。

一年を三期に分け第一回は京大教授、美術評論家の上野照夫氏が担当した。これについて教授は一月から四月第一週までの期間の京都で行なわれた展覧会の作品に限って選んで見たが、結果は全部抽象だけになった。抽象、具象を区別せずにひろく選んでみたのだが、具象はモタモタとして、中途半端な作品が多く、一点もとり上げられなかったというのが真相である。

その抽象も具象から出たのではない純粋の抽象というか、ゼオメトリック(幾何学的)なかんじのものが多かったのは、つねづね京都作家が大体において風土性というか、明るくスッキリしないのを感じているせいでもあろうか。

実際東京の作家の作品の方がスッパリしていて、京都のそれはよくいかせば風土性だろうが、わるくいえばモッサリしていて息苦しい。それがこんど選んだ作家たちには分ってきたが具象作家たちにはまだ分らないのだ。

会場に統一されたフンイキをと一方で意識し、一人二点ずつをとった。会場効果をねらう公募展や団体展とちがった統一感や各人の特色を見てもらいたい、といっている。

作品は(染)で三浦景生、来野月乙(絵画)で寺尾恍示、木下茂森、高瀬善明、西井正樹、辻浩、斉藤光保。

『夕刊京都』1966年5月13日


「もっとリズムを」

最近市内で開かれた展覧会の中から、上野照夫京大教授が新進作家の抽象作品ばかりを選んでならべたユニークな企画展。どの作品も高い水準に達しており、中には全国的な団体展で受賞できそうなものもありました。最優秀は、きびしい構成ではりつめた緊張感を訴えていた寺尾恍示の作品。斉藤光保は動きのある荒けずりの構成が個性的で、辻浩には洗練された明快さがありました。

こうした抽象画の中にとらえられているのは、一つの生命のリズムです。目に見える対象の美を定着させようとする具象画とは全く違う方法で、現代に生きる人間の心の動きを画面に表そうとする新鮮な努力が、どの作品からも感じられました。しかし、そこに表現されている生命のリズムが、あまりにも単調で振幅が狭いことは残念でなりません。本来の生命には、これらの作品が訴えるような単調なリズムを打破り、意外な発展をとげて行く豊かなエネルギーがあるはずです。それをつかんで下さい。日常生活の卑小なリズムをそのまま写すことは、対象を写真のように模写した具象画に迫力がないのと同じく、人を感動させる力に欠けるのではないでしょうか。(同志社女子大講師・秋野左多子=談)

『朝日新聞』1966年5月17日

5月16日 - 22日
GROUP Wa

DMあり

京都市立美大洋画科を卒業した若い女流画家のグループの作品展、出品者は藤原陽子、佐々木よう子、間崎史子、駒井達子、前田美代の5氏。

『毎日新聞』1966年5月21日

5月23日 - 29日
関根勢之助作品展

DMあり

白く淡い色調のキャンバス上に、ひ弱そうに見える描線が走り、不定形なフォルムを形づくる。天空に浮遊する雲に見えたり、古代遺跡に見えたり、さらに骨に見えたり……どことなく具象的イメージを感じさすほど、従来より形が明確に出てきた。2,3年前までの落書きふうの作品や絵具をたらした作品などオートマチックな作風に比べると“変わった”という感じもするが、不安な繊細さを秘めて天空に浮遊するようなフォルムは、やはり一本の線で結ばれているようだ。京都在住のゼロの会会員。

『京都新聞』1966年5月28日


「不安感やあこがれの心を描く」

=せん細な線と色とで叙情的な画面つくりを続けてきた作家だが、こんどは横にのびてやや高くなり、角を描いてまた低く降りさらに横に続く一つのフォルムのくり返しと骨のようなかたちを白の空間に置いて現代の不安や焦燥、平和な古代へのあこがれまでこめているようである。「沈黙」「砂のねむり」「午後の影」などの一連の副題がその消えたり、あらわれたりするかすかな線と色の空間にこめ作者のこころを表現している。

『夕刊京都』1966年5月27日


「技巧超越した思索」

現在では絵を描くということがもはや単に造形の問題、すなわちいかにうまく形をつくり空間を表現するかということだけにつきるものではないということを、まざまざと見せてくれた個展であった。ここ数年彼は、アクション・ペインティング風の作品を描きつづけてきた。しょうしゃな作品であり、生来の感覚的なみずみずしさにあふれていたにしても、いつも同じことの繰返しになりやすく、感覚的な空間以上のものは求めにくかった。

今回の作品には、具体的ではないが、一種の実在感をもったフォルムが現れてきた。それとともに従来の感覚的で繊細な空間はけしとんでしまった。まだ不明確であるが、何かをしつようにまさぐっているような、形而上学的ともいえる深さが、作品全体にみなぎってきたのである。彼自身その「何か」をつかみえているのではない。ただそれに手が届いただけであろう。従って作品は、その「何か」―芸術の意味―のおぼろげなかたちを描きとめた図式なのであろう。その意味で、すべてはスケッチであり、造形的な意識や技巧というものはもはやたいした意味を持たない段階であるともいえるのである。彼の作品というよりは、彼の芸術観を、彼の思索の深さを見るべきである。敬意を表したいと思う。(同志社大学文学部講師 中村敬治)

*画像掲載:「関根勢之助「そして愛」」
『朝日新聞』1966年5月31日


洋画家、20点を並べている(デッサンもある)淡い色で詩的な前衛作品。ゼロの会員、国際展、カリフォルニア大選抜展に選ばれた。

毎日新聞』1966年5月28日


関根勢之助は従来から空間に消え入るような解体されたデッサンの痕跡を留めながら、あえかなイメージの膨らみを暗示していたが、この個展では雲のような、あるいは丘や動物の頭蓋骨を思わせるような奇異なフォルムを少しずつおしひろげながら、画面はきわめて具体化されてきた。ささやくような画面に突如、片鱗を見せ始めたこの鋭い描線の雄弁さが示す展開の兆しに期待したい。(赤根和生)

『美術手帖』(271)1966年8月

5月30日 - 6月5日
新富英典個展

DMあり

「新鮮な画面」

ビニールテープと、細いビニール線を使った装飾的なオプ・アート。画面はきれいで、新鮮だった。これで完結しているという感じが強かったため、今後、この作者はいったいどんな風にして、自分の作品を展開するのだろうかと考えさせられた。いまのような形式を生かしながら、情緒を画面にとりこむ余地が生れてきたらすばらしいと思うが…。

*画像掲載:「新富英典の作品」
『朝日新聞』1966年6月7日


赤、緑、黄などあざやかな色彩のビニール・テープがバック地となり、その上に無数のビニール製細ヒモが整然とはりめぐらされている。昨年あたりから続けている仕事の延長だが、配色その他仕上げ面でかなり行きとどいた神経をつかっている。バック地のカラー・テープの彩色と、その上を走る“琴線”ふうの細ヒモとのコントラストが、清々しい“色彩のリズム”をかなで、直線の美を盛り上げている。ビニールと熱の関係、視覚と聴覚に訴える新しいアイデアなど、今後の制作を楽しみに見つめていきたい。

『京都新聞』1966年6月5日


「シマ模様の織りなす効果美」

=独立美術―鉄鶏会、アンデパンダンなどで活躍する。その作品はここ二年ほど前からキャンバスにビニールの色テープを直線にはり、多彩な組み合わせのシマを出し、その上にやはりタテの直線にビニール糸を張るという手法で通している。黒または黄の糸を張りつめた画面は斜め横からみるとビニール糸の面となり、照明に光って特異な美しさを出す。

直線に光る化学製品からなる作品はたいへんスカッとして、さわやかで、清新な感じ。白のキャンバスの上のビニールのシマとそのすき間の白地が描いたものよりさわやかでおもしろい効果を見せている。

『夕刊京都』1966年6月3日


「ビニールテープで味」

作家というものはちょっとした光景から一瞬、作品のヒントをつかむものだ。緑の分離帯、まっすぐにのびる純白の追越線―ある日作者は車で名神ハイウェーを走った。視界に飛び込む路上の帯状の線のおもしろさ。新鮮で知的ないきいきとした現代の感情。これを作品にあらわしてみたいと思った。百五十号の大作から小品まで、キャンバスに絵の具を使わず色とりどりのビニールテープを線状にはりつけている。その上に1センチ間隔でビニール糸をかけ、作品の効果をぐっと視覚的にした。

『毎日新聞』1966年6月3日

6月6日 - 12日
山崎脩彫刻展

DMあり

「正統派的な端正さに親しみ」

=14人の日本人作家展、丸善石油選抜美術展、現代美術の動向展、カーネギー国際美術展などに出品して活躍している若い彫刻家。鉄を材料にして鉄板の溶接でシャープな造型を見せる。鉄そのものの持つ黒いたくましい材質を効果的に見せ端正なもの、鋭角的なものときびしい追及がとくに大きい作品によく出ているが、こんどは割りに小さいものも多くそれらは幾分調子がゆるやかで親しさが感じられる。

清新なというよりオーソドックスな端正さを持つ作品群である。

『夕刊京都』1966年6月11日


「作品を弱めた会場の狭さ」

鉄板を溶接した抽象彫刻ばかり。かなりこまかい細工もある仕事ですが、何を訴えたのかがあいまいでした。陳列された空間が狭かったことも、作品の力を弱めていたようです。彫刻にとっては本来、それが置かれている空間も、作者の表現にとって不可欠な要素の一つです。こうした彫刻の鑑賞にふさわしい、広々とした野外の会場が京都にもあればよいのですが。(同志社女子大講師・秋野左多子=談)

『朝日新聞』1966年6月14日


=鉄の彫刻12点 作者は二紀会所属、京美大講師

『毎日新聞』1966年6月11日

6月13日 - 19日
林康夫個展

DMあり

=陶芸界のなかでユニークな活動を目ざす走泥社会員。


「迫力のある緊密な造型」

=走泥社のメンバーの一人で昨年ギャラリー16で開いた個展の作品を一そう追求した陶のオブジェ。やきしめ、伊羅保など十数点でまろやかな円の立体面に方角の組み合わせの変化をならべている。そのハダはうつくしく、フォルムは正しいが親しみがある。鋭い角度も陶のハダと厚みがそのかんじをやわらげており、小さいながら迫力のある緊密な造型である。

『夕刊京都』1966年6月17日


「鋭角と曲面のリズム」

走泥社の一人で、ここ数年グループ展のほか毎年個展を開いてきた。こんどは赤土の素焼きの作品を主にしており、うわ薬の色の変化などを追うよりも、形自体の面白さと素材のユニークな味を追求することに専念している。昨年の個展にもこの傾向は見られたが、黒を使って力強さを出そうとした試みが、陶器の持つ素材感と一致せず、一人ずもうの感じがあった。

ことしはそれに反して、黒土の素焼のハダあいがうまく生かされている。ひきしまった凝固感を、大らかな輪郭の中で表現することに成功した。全体の作品は、二つの物体を重ねてねじったようなフォルム、一つの物体の一部を切取ったようなフォルムの二通りに分けられるが、どちらも鋭角的な切りこみが、柔らかい曲面に緊張と変化を与え、美しいリズムを作っている。(国立近代美術館京都分館技官・鈴木健二=談)

*画像掲載:「林康夫の作品」
『朝日新聞』1966年6月21日


=走泥社所属、鋭い直線と面をみせた前衛陶芸作品。

『毎日新聞』1966年6月18日


陶彫の林康夫はこれまでの徹底した正面性を徐々に解放させながら、単純ななかに自由なアクセントを付した面の凝縮が興味ぶかかった。(赤根和生)

『美術手帖』(271)1966年8月

6月20日 - 26日
熊倉順吉展

DMあり

「焼きものの特異性」

工芸というよりは彫刻の分野にはいると思う。こればいわゆる工芸的な床の間の置きものではない。部屋を飾るという目的は無視されて「もの」が作られている。華言、跡、僧、侶、媚、楽想、城、仙侶、客人、館、暦日、婚礼などさまざまな題がつけられているが、おそらく発想からの絶対的な意味はないだろう。しかしそれらの題は見る人の態度を少しは左右することもある。やきものを、花器や従来の置きものから解放して、彫刻の、しかも抽象彫刻の仲間入りをさせた八木一夫たちの走泥社の同人で、最もオリジナルな仕事をしている作家である。

土俗的なものと、現代的なものを、ごくスムーズに融合させているところに、この作品の良さと特異性があると思う。(山田竜平)

*画像掲載:「熊倉順吉「華言」
『京都新聞』1966年6月25日


「古雅な味でおもしろい二品」

=走泥社同人の陶芸家、東京一番館で個展をして帰洛したばかり、京都での個展ははじめてという。

作品は陶のオブジェばかりで十数点、一番大きいのは「暦日」と題した突起物を並べた造型で、その他は方形を主体に変化を見せた形を展開して見せている。上り窯で灰をかぶり、下地の布目とも繊部のような味を見せた二点が古雅な味でおもしろい。

『夕刊京都』1966年6月24日

6月27日 - 7月3日
大串佐知子作品展

DMあり

大串佐知子作品展は、明るく機知に富んだ作品という印象をうけた。フォルムにスピードとリズム。その上作品によっては静と動がある。色彩も混乱せず、なによりもシャープだ。女流画家の抽象は得てしてムードにおぼれ易いが、この画にはそれが少ない。案外しっかりした作画態度をもっているのだろう。甘えがない。しかしこのままではデザインにいく危険性がある。そこをどう切り抜けて、つぎの段階へ進むか、期待したい。(蔵)

『京都新聞』1966年7月2日


あざやかな色彩のこの抽象画をじっと見ているとよじれたものの面白さを感じる。着物のすそのちょっとした“よじれ”ノートや本の表皮の“よじれ”―表と裏の面がおりなす造形それを彫刻的な鋭い線と明るい原色を使って描いている。形が単純化すればするほど、理知的で新鮮な感じを与える。絵のほかに石版画も出しているが、線がきまっていて見る目に楽しい。京都市立美大を卒業、現在同美大洋画科講師。

『毎日新聞』1966年6月29日


……その点、大串佐知子の画面は、色彩と形体が緊密に連繋してみずみずしい造形感覚を示している。幻想的なイメージと知的な画面操作がかみあって、明快な現実感をうみだしていて、スタイルとしては決して新らしくはないが、すぐれた資質を示している。(赤根和生)

『美術手帖』(272)1966年9月

7月4日 - 10日
福沢忠夫個展

7月12日 - 17日
井田照一石版画展

「にじむ情感」

簡潔なフォルム、洗練された色彩――。ジメジメした深刻感はない。自己閉鎖的な意識にも遠い。むしろ、カラリと乾いた明快さが全作品にあふれる。そしてそこに、この作家の制作態度、思想さえ見える。豊かなふくらみを持つ曲線、微笑をたたえたような赤やみどりは、ある種の具体的なイメージを否定。理屈っぽい論理の語りかけは深く沈でんする。が、逆説的にいえば、それだけにスキのない緊張感の盛り上がりを思わすようだ。その緊張感は「婚約Ⅰ」「婚約Ⅱ」「恐怖心」「木の祭り」などに集約される。

無機的な石版の制作プロレスのなかで、論理だけを追いかけるより、じっくり広がりのある情景をにじみ出させるような世界に取り組む姿勢は好感がもてる。作品は「ショート・サーキット」「ブルーデイ」「一年冬眠」など24点。

昨年、京都市立美大専攻科(洋画)卒。数少ない石版画家の一人である。京都での個展は昨秋に続いてこんどが二回目。(杉田)

*画像掲載:「井田照一「婚約Ⅱ」」
『京都新聞』1966年7月16日


「チ密に計算された「石版画」」

=30号ほどの大きさに小品をまぜて約30点石版画ばかりをならべている。

市美大西洋画科、専攻科を出ているが、アンデパンダンには彫刻を出し今年の暮れには油絵の個展をしたいという。石版は三回目の発表で、福井の和紙にオフセットのインクやパステルを使い、筆、ハケ、ペンなどのフリーハンドで二度刷り、三度刷りなどち密な計算の上に立った版を見せている。

「素的な庭師」「婚約」「エコー」「朝のソプラノ」などたのしい題はすべてまずイメージがわき、それに添って版の作業になるらしい。かなりめんどうな仕事でつぎつぎわいてくるイメージに追いつけぬ、というからたのもしい。

*画像掲載:「井田照一個展の作品から「木に住む」」
『夕刊京都』1966年7月15日


京都美大洋画科を出て無所属。グリーンや赤を使った石版画を出品。色彩のみずみずしさを感じさせる。

『毎日新聞』1966年7月16日

7月18日 - 24日
湯田寛個展

DMあり

ジュラルミン板にドンゴロスや、目のこまかい布を波状にはりつけ、彩色した作品。金属のキラキラと堅い感じと、布の柔らかい感じがちぐはぐにならず、よくとけ合って、一つの新鮮な世界をつくっていた。木や金属、または布などを組合わせたコラージュはよく見かけるが、なかなかまとまりにくいようだ。その点で、こんどの作品は成功しているといえるだろう。

色やつやを消した赤や青が使われていた。こうした色や布の扱いにこまかい神経が行きとどいている点は、日本画における京都派を思わせる。しかし、この作品は伝統的な日本画のように、床の間や居間の壁などにおさまるものではないだろう。整理された電気製品の組立て工場などに飾るのが似つかわしいように思える。ただし、布やドンゴロスはかびが生えたり、色があせたりしやすいので、長期保存が困難だ。こうした材料によって作り出した美を、いかに永続させるかは、作者および保存関係者に残された一つの課題だろう。

*画像掲載:「湯田寛の作品」
『朝日新聞』1966年7月26日


京都絵専(現京都美大)の日本画科を卒業したこの作家は、伝統性の強い日本画にあきたらず、前衛団体の一つであるパンリアル協会に加入、十数年、もっぱら前衛絵画の道を歩いている。

この展覧会出品作は木の板やステンレス板にドンゴロスを張りつけたもので、堅い素材と柔らかい素材を対比させながらドンゴロスのひだの美しさを追求しようとしている。この作家の進展をみつめてきた上野照夫京大教授は「こんどの作品のポイントはドンゴロスというなんでもない素材の中からひだの美しさを発見したところにある」といっている。

とにかく、体あたりでいく作家で、工芸的な手法にはなっているが、ドンゴロスに塗られた色などはやはり日本的な美しさである。(冨永静朗)

『サンケイ新聞』夕刊 1966年7月21日


=パンリアル美術協会所属。ジュラルミンや衣をコラージュし、迫力のある作品をこれまで発表してきた。今回は150号の大作をはじめ15点。

紙面不詳、日時不詳


京都絵専卒、パンリアルに所属。毎日選抜美術展にも選ばれている。ジュラルミンやキャンバスの上に布で造形した作品約10点。

『毎日新聞』1966年7月23日


「確かな独自の追求」

ステンレスや木のパネルにドンゴロスや目の細かい衣をコラージュ。あるときは波紋のように画面いっぱいにひろがり、またあるときは裁断されて、さざ波のようにひしめく。これまで絵の具にごふんを混ぜレリーフしたものが中心だったが、今回はドンゴロスを材質にボンドで固めたそうだ。そこには概念的、形式的な形態にとどまらず、メカニックな現代認識を根底にした作者のアイロニカルな態度が見える。

一見、モノクロームな色感を思わす情緒的なドンゴロスや衣と、合理的なステンレスのパネルが作品のなかにうまく混在。自由なイメージの介入を感じさせてくれる。その意味では額に閉じ込めた「作品7」「作品2」より、むしろ、広がりのある「作品3」「作品5」「作品8」「作品10」などが興味深い。とかく類型的なにおいが強い流行のなかで、作者の確かな作品の追求がユニークな方向をにじませているようだ。

作者は京都絵専日本画科卒、パンリアル会員。京都現代美術秀作展、現代日本美術展などにも選ばれている。京都での個展はこんどがはじめてである。(杉)

*画像掲載:「「作品3」湯田寛」
『京都新聞』1966年7月23日


「現代の不安と苦渋を表わす」

=京都絵専日本画科卒、パンリアル所属、個展としては東京一度、京都はじめて。ドンゴロスをしわよせし、ヒダを主とした立体的な作品。板の上にぶっつけにその立体をボンドでとめて行って、その上から黒、青、さらに朱墨を吹きつけ特異な色感を出している。木の板の代わりに光る金属板を使用して質感の変化を求めているがドンゴロス、またはさらにグログランようの布地のしわづけとふきつけの色とが深い厚いイメージを効果的に深めているのがおもしろい。

同じようにドンゴロスを使う作家もいるが、この作者は独自のしわづけのくり返しの中にもっと激しい訴えをおり込む。現代の不安や苦渋もひだの中に入れその上にたつようなつよさがある。日本画出身だけに仕事はチ密である。

*画像掲載:「湯田寛氏の作品のひとつ」
『夕刊京都』1966年7月22日


湯田寛はキャンバス地をたたみ合わせたレリーフ状の襞によって、豊かな情感のうねりを表現してきた作家である。それらは有機的な温かさに支配された触覚的イメージをくりひろげるが、その質感によせる作家の親和感が、時にはアンチーム(親密)な“味”の世界に作品をひたらせてしまう。こうした点を補うべく、近作には冷たいステンレス板をとり入れているが、手馴れた素材に他の異質な素材を導入することが、そのまま、マチエール主義的な画面処理のテクニックを越えて、イメージの変革につながる必然性をもっているのかどうか、今後の作品のなかで解答を期待したい。(赤根和生)

*画像掲載:湯田寛「作品」
『美術手帖』(273)1966年10月

7月25日 - 31日
八田豊個展

DMあり

「メカニックな美しさで光る」

=福井県生まれ、金沢美大洋画科卒、北美会会員、シェル美術賞三位、フォルム新人展、現代美術の動向展、今日の作家66展などで活躍する作家、独特の手法でボード表間を自分でとぎ出す鋭いタガネの針先でぶん回し式に傷つけ、その円の連続でできるメカニックな画面を展する。合板の内部のパルプの部分が出てきたり、合板をビニール合板としたり、金属板にしてみたり種々材料のちがいを利用し、またその傷あとをプラスチックで固めたり、種種効果をためしているがビニール板の白いすじ、真ちゅう板の金属的な線など非情な美しさで光る。絵を描くことを否定してこの作業を生み出し、ここに至った仕事がこれからどう展開して行くか興味ふかい。作品は15点。

*画像掲載:「八田豊個展の「ミセステンコ」」
『夕刊京都』1966年7月29日


「“非情”に走る迫力」

白いボード板に画一化された規則的な半円や弧が交錯。そして一見、魚網のようなひろがりが画面いっぱいにえがかれる。その軌跡はなめらかな切れ味、なでるような繊細さではない。冷酷。しかもギリギリと痛みをともなってえぐるような迫力が無表情に走るのである。

ある一定の長さの角材の支点をネジで固定、力点につけた鏨(たがね)で支点の移動につれ線を彫り重ねていくのが、その技法。そこには鋭い線に象徴される非情なメカニズムがあるだけ。だが、半面そんな究極の人間性の存在価値を位置づけようとする作者の志向があるのだろう。

線と線との過密な集合によって部分に生じた形のない形態、ポッカリあいた空間……。現代の精神的なある側面がのぞくようだ。

ボードにまじって金属板、ビニール板の作品も発表されている。ただ、ボードの「トトルソーネ」「ミステンコ」にくらべ、ビニール板の「0011」は材質の特性か語りかけが稀薄。今後の課題ではあるまいか。

北美グループ会員。京都での個展は二回目。先に近代美術館京都分館で開かれた「現代美術の動向」展に出品、また、長岡で開催予定の「現代美術」展(12月1日―1月27日)に日本の作家の8人にえらばれている。(杉)

*画像掲載:「「トトルソーネ」(八田豊個展から)」
『京都新聞』1966年7月30日


「つり合い保つ生きたリズム」

八田豊は、堅いボードの上にひっかくような線で、フォルムを描き、線の跡に塗料を流しこんでいました。一本、一本の線には強い力と緊張がこもっていながら、画面全体には柔軟で、大きく広がる動きを感じました。外へ開く動きと、内へこもる動きが緊迫感のあるつりあいを保ち、生きたリズムを作っていました。(同志社女子大講師 秋野左多子=談)

*画像掲載:「八田豊の作品」
『朝日新聞』1966年8月2日


スピーディな運動の軌跡を示す鋭い条刻線を重ねた幾何学的な構成のなかに、清冽な情感をもちこむ八田豊も初めはボール紙をひっかいた素朴な作品を発表していたが、より抵抗の多い金属板を使いだしたことは当然の要求といえよう。画面効果の上でもはるかに精確度の高いものになったが、ボール紙が金属板になっただけでは解決しえない問題をはらんではいるものの、徹底したシンメトリカル(左右相称的)な構図に凝縮されたエネルギーはまだまだ未知なものをひそめている。(赤根和生)

*画像掲載:八田豊「作品」
『美術手帖』(273)1966年10月


画廊紅では、〈大串佐知子個展〉〈福沢忠夫個展〉〈湯田寛個展〉〈八田豊個展〉などが開かれたが、若々しい色彩を大胆に使って立体感のある画面を構成しようとした大串、ドンゴロスを使って、そのしわに繊細な観念を織りこもうとしている湯田、画面を内形にひっかいていく方法をとる八田の作品などが印象にのこった。ただ私は、八田の作品などをみるとき、その「技」というものの現代絵画における意味をかんがえてみずにはおれないのである。(田中比佐夫)

『三彩』(205)1966年9月号

8月1日 - 5日
北美シリーズ2 五十嵐彰雄個展

DMあり

北美文化協会は北陸地方で美術水準を高めようと20年前結成されたグループ。五十嵐は福井県武生市の人。ビニールのパイプを使った抽象作品。21日までに5人の作家が登場する。

『朝日新聞』1966年8月2日


「構成力がいまひとつ」

直径3センチほどのボール紙の円筒を横に積重ねて接着し、黒一色または赤一色に塗った作品が主体。筒のかさね方によって、表面にいろいろな凹凸(おうとつ)が生れていた。どちらかといえば、黒く塗った作品群に目をひかれた。

主な欠点が二つあった。まず構成力が弱い。単純な作品はかなりよくまとまっていたが、構成が複雑になるほど、その弱点がはっきりと現れていた。また色彩に油性塗料による光沢があり、重く湿った感じがしたのも面白くない。ここには、作家自身の迷いが感じられた。この試みは、今後もっと深く追求すべきではなかろうか。(京大文学部大学院・藤枝晃雄=談)

*画像掲載:「五十嵐彰雄の作品」
『朝日新聞』1966年8月9日


「古い日本のイメージを出す」

=福井県武生市の出身で同地丹生高校で教えている。六年前福井大学教育学部美術科卒業。卒業後、北陸地方の美術水準を画期的に高揚させようと設立された北美文化協会に参加し、以来作家活動を続けている。

一昨年シェルに油のタブローを出品したが、これが水平線の構図で平面的なものであったのに対しこんどは、輸出用反物のシンに使うボール紙の円い管を使って、横の線に統一した立体的な造型を追求している。赤と黒で計17点、さらに透明なビニールパイプで曲線を出してベニヤ板にはりつけた作品が3点。上に塗った油性塗料の黒も赤も、むだのない組み合わせの中に古い日本のイメージのおもしろさをねらって効果を出している。黒のフォルムではあまりに光っていかついかんじだが、自然の光たくにはかなわない。問題は円筒の切り口で、あざやかに切られたものはいいが、粗雑な面が全体の感じをあらく見せる。

「画廊の空間を心に入れてもう少し適正な使い方をしたかった」とざんねんそう。種々の材料や方法でもって、従来の絵画にない新しいものを作り出そうとして人間としての自分にきびしくしている一人。

*画像掲載:「五十嵐彰雄個展から作品のひとつ」
『夕刊京都』1966年8月5日


八田に始まる同じ画廊での北美個展シリーズは、五十嵐彰雄、山本広、時岡泰子と続いたが、ビニール・シートなどをまく円筒形の紙芯を重ねた五十嵐の単純明快なレリーフは、それなりにおもしろいが、何よりもこうした脆弱な素材をむきだしにそのまま受け入れる態度は肯定しがたい。その点、山本のレリーフは、素材にたいしてはより明確な意識を示しているが、その幾何学的な構図が常識的なヴァリエーションに終らないことを望みたい。時岡の画面は複雑な襞をからみ合せて、きわめてセクシャルなパターンを見せるが、暗鬱な色彩が作品をよりいっそう隠微な世界に閉じこめてしまう。色彩の解放がイメージそのものを開放的なものにするだろう。(赤根和生)

*画像掲載:五十嵐彰雄「作品1」
『美術手帖』(273)1966年10月

8月6日 - 10日
北美個展シリーズ3 山本広個展

DMあり

幾何学図形上に切ったボール紙をレリーフ状にはり重ね、白く塗った作品14点。北美会所属。

紙面不明、日時不明


「過剰、いま少し整理が必要」

=北国福井県武生市に生まれたたくましい前衛派のグループの北美会、土岡秀太郎氏が指導者となり、講演会、展覧会(公募・個展とも)など活発な歩みを見せている。今夏は画廊紅で北美の人たちの個展が連続的に開かれ、今も続いているが、山本広個展もその一つ。

山本は、現在若狭高校で書道を教えており、昨年も墨象的な作品を出したが、ことしはぐっと変わってボール紙を重ねた造形に白の塗料を塗った立体的な作品となった。数点の方形をのぞいてほとんどが円板の上に積み上げられているが、円の展開、組み合わせ、直線の交接など多彩な変化がこれでもかと盛り込められ、いささか生地格の円板の地とそぐわない。過剰につめすぎたかんじである。いま少し整理し、かつ白の塗り方、下地の仕事をいま少し精密に仕上げるともっと鋭角的になり、陰影も美しかったろうと惜しい。

『夕刊京都』1966年8月12日


=北美個展シリーズ第三回、福井県鯖江市在住の若手。紙を何枚もはり重ね、円を基本型に大まかなフォルムでまとめた作品を発表。

紙面不詳、日時不詳


八田に始まる同じ画廊での北美個展シリーズは、五十嵐彰雄、山本広、時岡泰子と続いたが、ビニール・シートなどをまく円筒形の紙芯を重ねた五十嵐の単純明快なレリーフは、それなりにおもしろいが、何よりもこうした脆弱な素材をむきだしにそのまま受け入れる態度は肯定しがたい。その点、山本のレリーフは、素材にたいしてはより明確な意識を示しているが、その幾何学的な構図が常識的なヴァリエーションに終らないことを望みたい。時岡の画面は複雑な襞をからみ合せて、きわめてセクシャルなパターンを見せるが、暗鬱な色彩が作品をよりいっそう隠微な世界に閉じこめてしまう。色彩の解放がイメージそのものを開放的なものにするだろう。(赤根和生)

『美術手帖』(273)1966年10月

8月6日 - 10日
北美個展シリーズ3 山本広個展

DMあり

幾何学図形上に切ったボール紙をレリーフ状にはり重ね、白く塗った作品14点。北美会所属。

紙面不明、日時不明


「過剰、いま少し整理が必要」

=北国福井県武生市に生まれたたくましい前衛派のグループの北美会、土岡秀太郎氏が指導者となり、講演会、展覧会(公募・個展とも)など活発な歩みを見せている。今夏は画廊紅で北美の人たちの個展が連続的に開かれ、今も続いているが、山本広個展もその一つ。

山本は、現在若狭高校で書道を教えており、昨年も墨象的な作品を出したが、ことしはぐっと変わってボール紙を重ねた造形に白の塗料を塗った立体的な作品となった。数点の方形をのぞいてほとんどが円板の上に積み上げられているが、円の展開、組み合わせ、直線の交接など多彩な変化がこれでもかと盛り込められ、いささか生地格の円板の地とそぐわない。過剰につめすぎたかんじである。いま少し整理し、かつ白の塗り方、下地の仕事をいま少し精密に仕上げるともっと鋭角的になり、陰影も美しかったろうと惜しい。

『夕刊京都』1966年8月12日


=北美個展シリーズ第三回、福井県鯖江市在住の若手。紙を何枚もはり重ね、円を基本型に大まかなフォルムでまとめた作品を発表。

紙面不詳、日時不詳


八田に始まる同じ画廊での北美個展シリーズは、五十嵐彰雄、山本広、時岡泰子と続いたが、ビニール・シートなどをまく円筒形の紙芯を重ねた五十嵐の単純明快なレリーフは、それなりにおもしろいが、何よりもこうした脆弱な素材をむきだしにそのまま受け入れる態度は肯定しがたい。その点、山本のレリーフは、素材にたいしてはより明確な意識を示しているが、その幾何学的な構図が常識的なヴァリエーションに終らないことを望みたい。時岡の画面は複雑な襞をからみ合せて、きわめてセクシャルなパターンを見せるが、暗鬱な色彩が作品をよりいっそう隠微な世界に閉じこめてしまう。色彩の解放がイメージそのものを開放的なものにするだろう。(赤根和生)

『美術手帖』(273)1966年10月

8月11日 - 15日
北美個展シリーズ4 時岡泰子個展

DMあり

=北美シリーズ第四回時岡泰子個展1948年武生市で生まれた北美会のグループの個展で、土岡秀太郎氏を指導者として先鋭的な美術運動をおしすすめている一群の活動はめざましい。

紙面不詳、日時不詳


「隠された意識追求」

赤かっ色あるいは黒色を使い、乾いたタッチでかいた抽象画。その有機的なかたちはほとんどの人に、ある種の性的な図形を連想させるにちがいない。日常生活の表面から隠されている意識を問題とする超現実主義に近い世界を、作者は掘下げているのであろう。ここには一つの個性的な方向が見られるかも知れないが、これが個性的な芸術といえるかどうかについては、今後の精進を見てから決めなければならない。

*画像掲載:「時岡泰子の作品」
『朝日新聞』1966年8月16日


八田に始まる同じ画廊での北美個展シリーズは、五十嵐彰雄、山本広、時岡泰子と続いたが、ビニール・シートなどをまく円筒形の紙芯を重ねた五十嵐の単純明快なレリーフは、それなりにおもしろいが、何よりもこうした脆弱な素材をむきだしにそのまま受け入れる態度は肯定しがたい。その点、山本のレリーフは、素材にたいしてはより明確な意識を示しているが、その幾何学的な構図が常識的なヴァリエーションに終らないことを望みたい。時岡の画面は複雑な襞をからみ合せて、きわめてセクシャルなパターンを見せるが、暗鬱な色彩が作品をよりいっそう隠微な世界に閉じこめてしまう。色彩の解放がイメージそのものを開放的なものにするだろう。(赤根和生)

『美術手帖』(273)1966年10月

8月16日 - 21日
北美個展シリーズ第5回 橿尾正次個展

DMあり

「空間の構成ねらう」

=福井大学卒で現在教職にいる。北美グループの一人。ここ四年ほど鉄線と和紙とその上に渋を塗る材料で紙タコのような、こん虫のような造形を追求、こんど京都ではじめての個展にも約十点近い大小の作品は同じ材料、同じ手法のものばかりをならべている。

壁面にかぶさるような静止した造形から、二つを組み合わせ前面の一つをゴムで上下させたもの、天井中央からつった大きな三枚の羽根のモビール的な組み合わせ、渋を塗った上に鉄の成分のおはぐろのようなものをわらびノリで練って塗ったもの、など効果に変化をもたせ、フォルムにも幾多の展開がある。

今後は幾つかの部分に分けて組み合わせて行くものをもっと考えたいといい、民芸的になることを警戒しながら、空間の構成をねらっている。あざやかだが、ケレン味がなく、材質感からくる親しさがある。バラエティーもだが、一つのものへのきびしい追及がほしい。

*画像掲載:「橿尾正次個展から作品のひとつ」
『夕刊京都』1966年8月19日


「ほのかな土俗臭」

植物の胚芽、あるいは甲虫のような作品が壁面にさがり、はい、またあるときは天井にぶらさがる。いずれも鉄線、針金を骨組み和紙をはり、カキ渋、鉄液、ベニガラで塗り上げた作品だ。

単純化されたフォルム。ピーンと張りつめた緊張を思わす材質感―。一見、合理的な外部からの侵入の一切を拒否するかのようにも見える。が、そこにはヌクヌクといまにも盛り上がり、ひろがろうとする力感がみなぎる。そして粗野な和紙と素朴な色に仕上げられた材質感なのであろうか―概念的な形態を越えたフォルムのなかにはほのかな土俗臭さえのぞく。作者の志向もそこにあるようだ。それはまた、現代的をよそおったある種のモダニズムに対してプリミティーフなものに回帰しようとする批判的な意志的傾斜を見ることができる。感傷的なアナクロニズムにとどまらず、現代認識を根底にした前向きな態度には好感がもてる。

福井大学芸部卒。現代日本美術展などにも出品している作家で、こんどの個展は昨年に続いて二回目。「つるす」「ずんぐり」「でこぼこ」など十数点を発表している。(杉)

*画像掲載:「「でこぼこ」橿尾正次」
『京都新聞』1966年8月20日


「はりつめた紙の美しさ」

まず感じたのは、はりつめた紙の美しさだった。作品は、針金を曲げたワクに、和紙をはりつけたオブジェ。木やブロンズ、石こうなどとちがう軽快な感じの中に、紙独特の緊張感があった。

しかし作者は、色やフォルムにまだこだわりすぎてはいないだろうか。モビール彫刻や有機体などを思わせるフォルムが多かったが、これらは強さや構成美を十分に感じさせたともいえない。和紙のよさをもっと純粋に生かそうとすれば、全体にもっと自然なフォルムが生れてきてもよいのではないか。作者はひとまずユニークな世界を切開くことに成功したといえるが、今後ほかのいろいろな和紙をも研究してみる余地があると思う。

『朝日新聞』1966年8月23日


画廊紅では、7月から「北美シリーズ」と銘うって福井県在住あるいは福井県出身の作家の個展を連続して開いていた。中では先月の八田と共に〈橿尾正次個展〉が印象にのこるものであった。針金でつくった凧様の形に和紙をはり、しぶをぬったものであるが、材質の吟味など相当深いものがあって好感のもてる作画態度であった。ただ私は先月も少しふれたように、いつも思うのであるが、このような古くから日本では伝わって洗練された技術が存在し、また現在的な高度な技術が存在する場合、芸術家のテクニックの高低ということはどう考えたらよいのであろうか。現在の芸術家にとって、ちょうちん屋の職人的技術をマスターしてしまうことは不可能であろうし、また旋盤の熟練工が鉄板の上で示す洗練度を示すこともむずかしいであろう。しかし、自らのイメージは、このような洗練された技術をぬきにしては充分に伝達できないのではあるまいか。こういう方法もあるのだ、という段階ではすでに満足できない状態にあるのではなかろうか、と私は思う。(田中比佐夫)

*画像掲載:「作品」橿尾正次〈個展 画廊紅〉
『三彩』(206)1966年10月


関西の前衛

北陸の福井は戦前から前衛美術運動の活発なところだが、戦後も武生市を中心にした北陸文化協会が注目すべき活動をつづけている。この「北美」は土岡秀太郎を理論的指導者として1948年に誕生、いま会員は10人ほどで何れも若い。最近2、3年はグループとしての活動を休んでいたようだが、このほど大阪で北美グループ展(8・8~14信濃橋画廊)を開くかたわら、京都では八田豊、五十嵐彰雄、山本広、時岡泰子、橿尾正次の五会員が連続的に個展を開催(7・25~8・21画廊紅)して、ふたたび運動をつづけるきざしをみせた。(……以降「北美」の説明、八田、橿尾の説明)

『日本美術工芸』(336)1966年9月

8月22日 - 28日
川上力三陶展

DMあり

「ほのかな土への親密感」

みにくくふくれ上がった土の固まりが、あるときはだらりと床の上にたれてはい、またあるときは手をつなぐように交錯。そしてその表情はヌメヌメしたハ虫類のような輝きで光る――。「夢の記憶」「欲の塊」と名づけられた一連の陶彫作品だ。いずれも観念的なイメージを造形として再現した世界であるにはちがいあるまい。

が、そこにはある種の概念をよそおった小児病的な深刻感、絶望感はない。自由な土の世界にくりひろげる造形と釉薬(ゆうやく)はむしろ、ユーモアであり、ほのかな土への親密な態度が表出するようだ。明るく健康的な作者の思想でもあるのだろう。ただ、流れるようにかけられた表面の緑の釉薬はイメージのひろがりに効果的だとしても、造形の構成に多少あいまいなものを感じた。

伏見工窯業科卒。走泥社に所属する若手作家で、今回が二度目の個展。作品はほかに「道祖神」「陶祖神」など。

*画像掲載:「「欲の塊」(川上力三個展から)」
『京都新聞』1966年8月27日


「緊密性欠き成果上がらぬ」

=「夢の記憶」「欲の塊」「陶祖神」の三種。夢の記憶は細い部分、平たくふくれた部分などを断続的にくり返した3メートルにも及ぶ長い造形。「欲の塊」「陶祖神」いずれも円型のくり返しとつながりをもたせた陶芸だが、どれも釉薬をフルに使って流動的な効果を強めようというもの。バケツでざあーっとかけた自然の流れおちるもようやそのぬれた上に黒をスポイトでかけた試みなど、試みとしてはおもしろいが、結果としてはあまり成果を収めていない。この造形にはいま一つ緊密性がないようだ。釉薬と造形の間にはもっときびしいものがあってよい。伏見高校窯業科を出て河合瑞豊に約3年師事。現在走泥社に所属、個展は二回目。

『夕刊京都』1966年8月26日

8月29日 - 9月
第二回 吉岡肇個展

DMあり

9月5日 - 11日
紅選抜シリーズ第2回展

DMあり

第一回の選抜展が白、黒の作品でまとめられたので、今度はできるだけ多彩なものをと心がけたが、ふたたび白が目につくことになったのは皮肉である。一、二回を通じてのこの結果は、モノクロームが最近の傾向のひとつになっていることを語っているが、もっとゆたかに色彩があつかわれてもよいような気がする。(高橋亨)


出品作家:麻田浩(関西新制作展ほか)、井田照一(ギャラリー安土・画廊紅個展)、今井祝雄(グタイ・ピナコテカ個展)、橿尾正次(画廊紅個展)、八田豊(画廊紅個展)、林康夫(画廊紅個展)、藤原向意(ダイワ画廊個展)、向井修二(具体3人展)


「洗練された色彩とフォルム」

◇紅選抜シリーズ第2回=第一回上野照夫選のあとをうけてこんどは高橋亨の選。選抜された作品は、麻田浩、関西新制作展ほか、をはじめ井田照一、今井祝雄、橿尾正次、八田豊、林康夫、藤原向意、向井修二の作品。

紅画廊で見かけた作品がかなり大きく占めているのは画廊の活躍を語っていてうれしい。

「第一回の選抜が白と黒の作品でまとめられたので、こんどは多彩な色を入れようとしたがやっぱり白が目につくようになったのは皮肉だ」と、選者のことばだが、こうしてみるとなるほどスカッとした感じだ。色だけでなくフォルムも同様である。

モノクロームが最近の傾向の一つになっているのか、もっとゆたかな色彩があってもよいが、ここの作品全体が与える印象がやはり今の感覚なのだろう。次回(第3回)の選者は乾由明。=写真はその会場

『夕刊京都』1966年9月9日

9月12日 - 18日
小谷謙彫刻展

DMあり

「リズミカルで、華麗にまとまる」

=ブロンズの作品と大谷石に合成樹脂を配した作品。どれもリズミカルに華麗にまとまっている。

ブロンズではことにのびやかなかたちのくり返しが目立つが、ブロンズの材質感とよく合い、装飾的な美しさがある。大谷石の白と合成樹脂の黒を配して対照的なものをねらった作品はその点で一応成功しているが、樹脂という質感の軽さはおおうべくもない。さらに二つのもののかみ合わせが安易で、まとまり過ぎた感じ。

個展ははじめて。行動美術協会会員。

*画像掲載:「小谷謙彫刻展のブロンズ」
『夕刊京都』1966年9月16日

9月19日 - 25日
危険な遊戯シリーズ 林俊治作品展

DMあり

……同じ装飾性でも流動的なパターンと具象形体との違和感にみちた絡みあいを見せる林俊治の画面にはミステリアス(神秘的)なイメージがにじみ、はるかに自由な才気と想像力を見ることができるが、ロココ風の趣味性をふっきった表現にゆきついてほしいものである。(赤根和生)

『美術手帖』(276)1966年12月


……おなじ画廊で開かれた〈林俊治作品展〉はシュールレアリズム的な作品を発表していた。技術的には達者な、時間をかけた力作であったが、精神力の強靭さに欠けるところがあるのではなかろうか。ともすれば画面の表面的なものに流れて、もう一歩深い地点における強い表現がほしいと思う。(田中比佐夫)

*画像掲載:「作品 林俊治〈個展 画廊紅〉
『三彩』(207)1966年11月号

9月26日 - 10月2日
第一回 広重明 版画個展

DMあり

……画廊で開かれた個展には見るべきものがあった。まず、画廊紅でひらかれた〈広重明 版画個展〉である。彼は、京都においてかつて富本憲吉、稲垣稔次郎、両氏らによって結成された「新匠会」の版画における新しい会員である。昨年まではやはり、稲垣氏の作品がもつエスプリの一面を受けついだような作品を主として制作していたが、今度の個展出品作品はそういう境地を一歩抜け出たものであった。画廊の一方の壁面全部をうめる、およそたて二米、よこ八米におよぶ大作をはじめ、いずれも版画という概念をこえる大画面である。まずこの大きさにおどろく、それは各種の摺りの技術を和紙の上に駆使した小さい版画を基礎単位として、数種類のパターンを連続総合しながら大画面を構成したもので、それだけに密度も高く、その上壮大で強靭な響をもつ構成力を示していた。創造力の大きな羽ばたきという点で非常に野心作を並べた第一回個展であったといえよう。(田中比佐夫)

『三彩』(207)1966年11月号


民俗的な文様、あるいは千代紙細工を思わす作品がついたてのように、また壁面をいっぱいにうめる。「オモチャ箱のなか」―。いずれも、木片の地ハダに型を彫り抜き、ロウを流し、和紙にプリントした作品だ。

単純な色調。鋭角的なパターンの繰りかえし―知覚に訴えるというより、むしろそれ以前の心情として反応を呼び起こさせるようだ。粗野な和紙、プリントされた木版の素朴な材質感なのだろうか。精神的な風土に裏打ちされた土俗臭さえのぞく。作者の志向もそこにあるのだろう。それはまた巨大な現代のメカニズムのなかに、プリミティーフなものへ回帰しようとするシニカルな態度さえ見える。

京都青年美術作家集団同人。新匠会所属。こんどがはじめての個展である。(杉)

『京都新聞』1966年10月1日


「切りつなぎで版画の限界を破る」

=青美のメンバー、作品は和紙を使い、木版ですり上げたものを切ってはっている一種のコラージュである。バレンを使ってすり上げた版画のおもしろさが、さらにこれを自由に切りつないで行くことによって、版画の広さの限界がなくなり、無限にひろげて行けるようになった。そのよろこびといったものが画面にあふれている。木の生地がそっくり現われている素朴な和紙の味と自由な切りはりの構成が素材の面からもあたたかく、これからもおもしろいものになりそうである。

*作品画像掲載
『夕刊京都』1966年9月30日

10月3日 - 9日
河村一夫個展

DMあり

福井県生まれで北美グループに参加、前衛作家展、今日の作家展、モダンアート協会などに出品、三度目の個展、もめん地を張ったキャンバス地を白く塗ったその白の空間を生かして赤、青、黄など鮮明多彩な色で、熱い衝動と優美なリズムを描き出す。その激しさと流動感をパレットナイフで刻むように出しているのが特徴。ところどころにぬめっとした官能的な渦があり、しかもどこまでも激しい線は反復し拡大していく。ナイフで描く線の中の描き込みがいささか甘いのがかえって激しさを強めている。

『夕刊京都』1966年10月7日


白をバックに、あざやかな原色で、激しいリズムを描き出した抽象画十五点。流れるようなフォルムは、官能に直接訴えてくる。すべての均衡を破れ―と。福井県生れ。行動美術展、京都アンデパンダン、モダンアート展、今日の作家展などに出品してきた。個展は三度目。モダンアート協会会友。

『朝日新聞』1966年10月4日


さえかえるような色感。えぐるように流動して交錯する鋭い線。大胆な構成力に思わずひきこまれそうな作品だ。そして、そのフォルムのなかにイメージの自由な介在を誘う解放感さえにじんで語りかけるようでもある。

日常的な行為のなかにふと視覚をかすめて起こったようなフォルム、加速してせまる線と色の緊張感。それは、メカニカルな現代のなかに自己の存在を確認しようとする作者の投影でもあろう。ナイフで切り込むように描いた無機的な線とポッカリあいた空間の異質な対比の出合いが効果的だ。そこには現代らしさをよそおったある種の深刻感はない。被害者意識もない。むしろ、のしかかろうとする巨大な力への理解を基盤にうたい上げた新鮮なリズム感がのぞくのだ。多少、フォルムにあいまいさの残るのはいなめない。がポイントをついた的確な姿勢には好感が持てる。

福井県出身、モダンアート会友。「胞殖反応」など十六点。(杉)

『京都新聞』1966年10月8日


モダンアート会友、これまでは放射線状に描いた染色模様を思わせる画面だったが、最近は油絵のねばっこい原色をふんだんに使って、放射線も力強さをねらってきた。百号十六点。

『読売新聞』1966年10月4日


河村一夫の作品は案内状の文章をかりれば「熱い衝動と優美なリズムとがさみしげに同居する世界。白い沈黙の中に反応する官能性。反復する幻覚焦点。錯乱するイメージ。すべて同時点において均衡を破る」ということになるが、フォルムの上では確かにこのような指向を認め得るが、色彩の裏づけが稀薄で、表現を未完の状態に留めている。(赤根和生)

『美術手帖』(276)1966年12月

10月10日 - 16日
三田村宗二個人展

DMあり

三田村宗二の近作は急激にグラフィックなものに傾斜してきたが、無意味でいたずらに饒舌なパターンの羅列を整理すべきだ。

『美術手帖』(276)1966年12月


……三田村の作品は非情にカラッとしてきて、絵から聞こえる歌声も整理されてきた。(田中比佐夫)

『三彩』(209)1966年12月号

10月17日 - 23日
市村実個展

DMあり

「強烈な“白”の世界」

ボール紙のコラージュがえがく幾何学的な線。塗り込められたえのぐの柔軟なフォルム―「白」に統一された作品群である。一見、無表情な、冷ややかさをたたえる画面はあたかも個人的な感情のはいり込む余地の一切をガン固にハネつけるようにも見える。が、そこにはまた、新しい個性をともなった新鮮な視覚さえ感じられるのである。

いかにもケン騒で、活動を続ける現代。そしてそのなかにくりひろげられる人間の生活。全体的に見れば、たえ間なく変動を重ね、生き生きとうごめく。だが、そんな活動の根底にはふと生命を欠いた空虚感、不安感、そしてしらじらとした孤独感が沈でんするのは否定できないともいえる。こうした途方もない現代のなかに自己を確認しようとする試行のくりかえしが、作者の背骨になっているのであろう。強烈な白の世界に計算された数理的な行為にのみくりかえされた線と未分化なフォルム。二種背反するテーマの対決が、ボルテージの高い生命感をのぞかせ、美しい調和をもつようだ。「夏」など13点の作品を並べているが、「朝の食卓にて」「モーニング」「エア・ポケット」に自由なイメージの展開と可能性を感じる。

作者は京美大専攻科在学中。個展はこんどがはじめて。(杉)

*画像掲載:「市村実「朝の食卓にて」
『京都新聞』1966年10月21日


「端正、さわやかな作品 “朝”のイメージを追う」

行動美術(13-23日)と毎日美術コンクール展(13-19日)(市美術館)に出品し、同じとき個展を開いた。作品はベニヤに白を塗った上に細いボール紙をならべて白く塗りこめた端正な作品。いま一つ塗り上げた材料をドライバーでけずりとって中に色をさしたさわやかなシマ状の造型を配している。

朝とかモーニングタイムとかいったイメージのもとに清潔なかんじで、仕事は綿密で肩のこるめんどうなもの。それだけにその扱いの苦労が察しられるが、それだけの効果はおさめている。

半年も前から追求している材料と技法で、この材料ならびに手法で今後もずっと展開させて行きたいよし。神経は細かいがつめたくはない。

『夕刊京都』1966年10月21日

10月24日 - 30日
第三回 舞原克典絵画個展

DMあり

……舞原は無所属の油絵作家である。「竹林の村」と題した作品は、テーマと画面とがそぐわないように、われわれ京都在住の者には思われるのだが、作品そのものは神経のゆきとどいたもので、自然の情感が明るく明快に表現されて好感のもてるものであった。(田中比佐夫)

『三彩』(209)1966年12月号

10月31日 - 11月6日
服部正実展

DMあり

11月7日 - 13日
井隼明義作品展

DMあり

11月14日 - 20日
田村尚作品展

DMあり

……染色のことにちょっとふれたが、土地がら京都に多い染色作家が、工芸としての染色だけにはあきたらず、純美術としての作品をつくろうとする試みはあとをたたない。最近では11月に中野光雄、森俊三がそれぞれ作品展をひらいたが(いずれも京都・ギャラリー16)同じ月、画廊紅で三つ続いた個展はちょっと興味をひいた。

服部正美、井隼明義、田村尚のそれぞれの作品展で、いずれも京都美大染色専攻科の学生だが、染色専攻とはいっても、型をおいて布を染めるという染色技術そのままで、タブローをつくったりしないところが、若い世代らしくておもしろい。かれらが染色の技術を応用したところは、型を使って形をえがくこと、あるいは単に型抜きしたような、くっきりした輪郭線というだけで、タブロー制作にとってプラスにはならない布の感触など、あっさりすて去っている。

三人のうちで井隼明義の作品が注目される。それは型紙を使い塗料を濃淡に吹きつけた赤一色の画面で、その色彩の単純さのせいか、まだものたらない感じはするが、有機性と無機性の奇妙にまざった形の構成のおもしろさは独特のものがある。形のおもしろさだけだといえばそれまでだが、独特の形を生むということは簡単ではない。(高橋亨)

『日本美術工芸』(340)1967年1月

11月21日 - 27日
加藤正嘉個人展

DMあり

11月28日 - 12月4日
川端紘一個展

DMあり

「清潔な格調見せる バッハの曲が聞こえそう」

=京都市立美大専攻科一回生、洋画専攻、画面は白のキャンバスに油の黒で直線の組み合わせ。

つめたい白と黒で、堅い線と角度で構成されているのに、フーガといった題名と合わせてみると、バッハの荘重な諧調が聞こえてくるようなイメージがわくのがふしぎ。丹念なフリーハンドの仕事のせいであろうか。120号をはじめ、13点。小さい作品もそれなりにまとまって同じ清潔な格調を見せている。

*画像掲載:「川端紘一の作品」
『夕刊京都』1966年12月2日


……また、画廊紅では、若手作家の作品展が続いていたが、中でも〈川端紘一個展〉などは素直な画面に好感を持てた。(田中比佐夫)

『三彩』(210)1967年1月号

12月5日 - 11日
三宅多喜男彫刻個展

DMあり

昨年に続いて今回が二回目の個展。木彫とプラスチックのエスキース5点の作品発表である。木彫は「樹」「踊」と題した作品。いずれも樹木と人体がモチーフになっているのには疑いはないが、極端に単純化された量塊は、豊かな物体の展開を視覚化させる。

一見、粗野な取り組みを思わすフォルム、重量感にみちた素材感。そこには生成、変化してゆく途上のある状態が凝結されて、力強い生命力を思わすようだ。一方、ブラスチックのエスキースは木彫の形態の変化にくらべ、新しい空間の意識化がのぞく。先鋭な素材でとらえた現代の空間感覚。実用的な必要性に裏打ちされたたしかな追求は新しい世界に同化したアプローチを思わせる。ただ、いささか荒っぽい仕上げが気になる。不可視的な空間を独立させて視角するだけに、より数理的な構成主義の徹底が必要なのではないか。作者は京美大講師。かつて二紀展などに出品したが現在は無所属。

『京都新聞』1966年12月10日


……三宅は巨木のもつ生命力を生かした巨大な彫刻作品を…発表していた。(田中比佐夫)

『三彩』(211)1967年2月号

12月12日 - 18日
田辺守人油絵個人展

DMあり

「人間の生をうたう 素朴な内容もほしい…」

学芸大特修美術科工芸科卒、新制作協会所属、去年7月第一回の個人展を開きこんどが二回展。暗く重かった色調が明るくなり、たくみなテクニックでまとめあげている。「人間の像や生といったものの中に奇妙なドラマのいくつかをみ出し、実現しようと試みた小さなうたごえ」と自らもいっている「胎」「人間ドラマ」「囚」などの一連の題もその意図を語っていよう。画面にはあざやかな色をきれいに処理し区切られた世界の中でそれらを楽しんでまとめ上げた才気が光っている。

安定した技術だが、欲をいえばそのテクニックにおぼれぬ素朴な内容の裏づけがほしいところ、120号5点、80号3点、20号5点、小品2点。

*画像掲載:「田辺守人「囚(とりこ)」
『夕刊京都』1966年12月16日

12月22日 - 25日
前衛作家によるチャリティショウ

DMあり

師走の候となりました
さて今年も関西在住の前衛的な画家、彫刻家、工芸家の人たちが恵まれぬ人々の為に少しでもお役にたてばと、第四回「前衛作家によるチャリティショウ」を左記の様に開くこととなりました。進歩的な作家多数が持寄った作品を陳列し会場で入札していただこうというわけです
昨年の売上金は、府立桃山学園に電気炉を寄贈いたしました
どうか歳末チャリティーの趣旨にご賛同下さいましてご協力をお願い致します
会期 12月22日より25日 午後3時まで(22日―24日 午前11時―午後7時)
会場 画廊「紅」 京都・縄手四条上ル
昭和41年12月
「前衛作家によるチャリティショウ」発起人
依田義賢、奈良本辰也、上野照夫


「前衛作家が展覧会 純益は施設へ贈る 55人が力作70点出品」

関西在住の前衛作家の作品を集めて開く「チャリティー・ショー」がことしも22日から京都市東山区縄手通四条上ル、画廊「紅」ではじまった。

“恵まれない人たちに、作品が役に立てば”―と、前衛作家たちが毎年、歳末の恒例行事として同画廊でくりひろげている“慈善展覧会”で、ことしが四回目。発起人はシナリオ作家依田義賢氏、奈良本辰也立命館大教授、上野照夫京大教授。ショーは展示された各作品一点一点について希望者が入札制で値段をきめ、その純益金を恵まれない施設に寄贈する仕組み。昨年は府立桃山学園に陶器の電気炉を贈った。

年の瀬をかざる明るい企画として年々、ショーに賛同する作家がふえ、今回は55人の作家が参加、作品は総数70点。いずれも現代の美術界で着実な歩みを続ける作家の力作ばかり。日ごろ、個展会場として大作が並び静かな鑑賞ムードが続く同画廊だが、この日ばかりはズラリそろった暖かい善意の作品を一点一点品選び、入札していくなごやかな人々の姿でうまっていた。なお、会期は25日まで。入札紙の開票は最終日午後5時から。

*画像掲載:「力作がずらり並んだ前衛作家善意展」
『京都新聞』日時不詳


「善意の力作ズラリ」

〇…めぐまれない人たちに暖かい正月を―と「第四回前衛作家チャリティーショー」が22日から25日までの4日間、京都市東山区大和大路四条上ル、画廊「紅」で開かれている。

〇…関西在住の作家54人が絵画、彫刻、工芸品など69点を出品。売り上げを養護施設や老人ホームなどへ贈ろうというもの。初日は約100人の愛好者が訪れて品さだめした。高いものでも一万円どまりということで人気は上上。

〇…昨年はこのチャリティーショーで、約20万円の売り上げがあり、府立桃山学園に陶器を焼く電気炉を贈ってこどもたちを喜ばせた。

*画像掲載:「作家のチャリティーショー」
紙面不詳、日時不詳


「善意の力作63点 前衛作家チャリティーショー」

第四回前衛作家による「チャリティーショー」は22日午前11時から25日午後3時まで、東山区縄手通四条上る、画廊「紅」で行なわれるが、21日夕、関西在住の進歩的作家54人の作品63点が会場に陳列された。

このチャリティーショーは有名無名の作家たちが、恵まれない人たちにあたたかい正月を送ってもらおうと自主的に企画したもので作品購入希望者の中から最高額入札者に売り、その純益を社会福祉施設に寄贈する。

毎年約100人ちかくが入札に参加作家、美術ファンにとって歳末の楽しい催しの一つ。ことしは長老格の国画会の須田剋太(西宮市)も色紙一点を寄せたのをはじめ、各種団体会員や無所属の新進作家をまじえ、絵画では額だけで四、五千円するものもある。彫塑、陶器とも最低入札額千円ではとても材料費にもならないという。昨年より点数は20点少ないが、内容は質的にすぐれていると前評判が高い。

入札は展観期間中に入札紙(5枚つづり100円)に作品番号と希望額を記入して投票、25日午後3時に開票、落札者は同5時から引き取ることになっている。

*画像掲載:「陳列を終わったチャリティーショーの作品(東山・画廊「紅」で)」
『読売新聞』日時不詳


◇依田義賢、奈良本辰也、上野照夫の三氏が発起人となって今は恒例となった縄手四条上ル、画廊紅の「前衛作家によるチャリティショー」がことしも22日から25日(午後3時)まではなばなしく開催される。関西在住の前衛的な画家、彫刻家、工芸家の人たちがめぐまれぬ人々のために行ってきたもので、こんどで第四回目。会場でそれらの人々が持ちよった作品を陳列した上入札してもらおうという。同チャリティショーは去年の売り上げ金で府立桃山学園に電気炉を寄贈している。

紙面不詳、日時不詳


「美術ファンが思い思いに入札 助け合いチャリティー」

関西在住前衛作家の「歳末助け合いチャリティー」が22日から縄手通四条上ル、紅画廊で開かれた。辻晋堂、八木一夫、須田克太氏ら京阪神69人の作家が絵画、陶器、彫刻を出品、希望者は百円で入札券を買い5点の入札ができる仕組み。

ふたあけの初日から画廊前を通るサラリーマンや美術ファンがつめかけ、思い思いに作品に入札していった。入札結果は25日午後3時にわかる。

『毎日新聞』1966年12月23日

1967
関西の前衛 《関西画廊のうごき》

最近、関西の美術界でめだつ現象は、画廊主催の形でいろいろの作品展示の催しが企画されだしたことである。日本、ことに関西での前衛的な美術運動は作家が画廊という会場を借りてすべて自分の負担と企画によって作品を発表し、社会に問うというやりかたがほとんどであった。いわゆる個展、あるいはグループ展という発表方法だが、そのさい画廊は、ただ会場を提供するだけの、またその貸し料によって、経営を維持してゆくだけのネガティブな存在にとどまっていた。

ここでいう画廊とは、いわゆる貸画廊のことである。画商として美術作品の売買を主体とする画廊は、既成の人気作家の商品をあつかうことによって利潤をうることに明け暮れ、とくに関西では、新しい美術の発展には、ほとんど貢献する意図も実績もないのが現状だから、前衛美術は画商の画展とは無関係に動いており、もっぱら貸画廊および美術館を土壌として育っている。だから関西で、新しい美術の活動に関して画廊ということばが登場するとき、それはすべて貸画廊のことで、とくに注釈をつけないかぎり画商の画廊は念頭におく必要はない。それは作家、批評家、画商およびコレクターが、一体になって美術をのばしてゆくという、欧米的形態から見れば、貧寒な後進性を語ることになるが、現実だから仕方がない。

ところがこの作家にたいする会場の貸料で経営をまかなう画廊が、その経営原理にもとるやりかたで、つまりみずからの出費によって展覧会を企画するという動きが、昨年あたりから活発になってきた。そのいくつかについてはこの紙上でも紹介したが、もういちどおもなものをひろってみると、一昨年暮れに画廊新設記念展として企画された「20人の方法」展(大阪・信濃橋画廊)を皮切りのようにして、年三回の選抜展という構想で昨年から始まった「紅選抜シリーズ」(京都・画廊紅)をはじめ、秋には「色彩彫刻」展(大阪・ギャラリー安土)「四つのカラー」展(京都・ギャラリー16)「プラ・アート」展(信濃橋画廊)11月から7週間にわたってひらかれた七人の個展形式の「アート・シリーズ7」展(京都・木屋町画廊)などがあり、加えて貸画廊ではないが、新しい美術作品を積極的に売ろうという、関西では珍しい姿勢をみせて、昨年登場したギャラリー・ココ(京都)が、12月に最初の展覧会として企画した「リトグラフ・ベスト3」展もある。

こうした画廊の催しは、ことしもにぎやかにつづきそうだ。京都では1月16日から「紅選抜シリーズ」の第三回展が評論家乾由明選定によりひらかれると、同じ週に、これと張り合うかのように、四人の選者が八人の作家を選抜した「ニュー・イヤー・16・ワークス」展(ギャラリー16)がもよおされた。大阪では、信濃橋画廊と月刊雑誌「オール関西」編集部が協力して、三人の選者による「オール関西新人選抜展」が、2月13日からひらかれる予定であり、また軽量の試みだが「ハガキ大美術コンクール」が1月23日からOS画廊で行なわれた。画廊が作品を公募してコンクールをひらいたのは、関西では初めての試みである。さらに別の方法としては、京都のあずまギャラリーが十万円の画廊賞を設定した。ことし一年間同画廊でひらかれる個展のなかから三人の選者がえらんで賞金をだすわけである。

貸画廊の経理を推測すると、大阪や京都では一日五千円の貸料が相場だから、画廊が作品の売買をいっさい行なわず、また会場の賃貸しをフルに運営できたとして、一ヵ月に15万円の収入である。そこから人件費その他の経費を差引くと、貸画廊があげる純益はわずかなものであることはだれでもわかる。その余裕のない経営のなかから、反対にかなりの費用をかけて、画廊企画の展覧会を主催することは健全財政のうえからすれば、かなりの無理であることも察せられる。

にもかかわらず、関西の画廊があえてそれをやりはじめたのは、ひとつには画廊のPRの意味があるようだ。それは賞金十万円設定の企画が、自分の画廊で個展をもよおす、いわば“お客”だけを対象にしていることからもわかる。あるいはまた、最近のこれらの例では開設早々で、まだ関係者の間にあまり知られていない、したがって顧客としての定まった作家をはっきりともたない画廊が、ことばはわるいが客寄せの宣伝として、企画展を行なうことが多い事実からも察せられる。

もっとも、こういう実例的な動機だけではないであろう。はた目に見ても、一年中毎週毎週作家の顔は異なっても、発表形式という点では、似たり寄ったりの個展やグループ展が、いわばのんべんだらりと続けられたのでは、画廊の当事者としてはいささか退屈にもなりそうだ。ときにはみずからの意思で見ごたえのある展覧会をやってみたいと思うこともあるのではないだろうか。画廊自身の気分転換や刺激というわけである。

そしてさらに考えられることは、画廊も現代美術の動きのなかへ、積極的に乗り出したいという気持ちもあるはずである。受動的に作家の会場使用申込みを待つだけでなく(じつはこれも待っているだけではだめで、能動的に作家に働きかけることが貸画廊としては重要であり、成功している画廊はその点で意欲的だ)作家あるいは社会にたいして、現代美術にかかわるなんらかの発言をこころみたいと考えるだろう。もともとあまりもうからないことが、計算上はっきりしている貸画廊は、ある意味では道楽商売であり、経営者は、それを覚悟のうえでの作家や批評家におとらぬ美術好きが多いようだ。だから、かれらも作家や批評家と同じように、機会をとらえて現代美術について一言申したいだろう。そして画廊の多分に犠牲的な行為が、多少とも現代美術の発展にプラスするところがあれば、画廊はひとつの満足を感じるはずである。ところが、そのプラスがどのような形で判定できるかはむずかしいところである。画廊のこうした企画展とほぼ同種でもう少し規模の大きい催しとして京都では11回目を迎えた「毎日選抜美術展」(1・31~2・5大丸)があり、同じ毎日新聞京都支局の主催で昨年発足した。「フランス政府留学生選抜毎日美術コンクール」や、京都新聞主催の「現代美術京都秀作展」もあり国立近代美術館京都務館が行なっている「現代美術の動向」展も、その一つにかぞえられるが、こうした試みを通じて、一般社会の現代美術にたいする目がひらかれてゆき、また、そのなかから作家が育っていけばいいのだが、これらの展覧会によって、どういう作家が、どのように成長したかをいうことは至難である。しかしそれを説明できないまでも、ある作家がある選抜展にえらばれ出品したことが、よい刺激になるだろうことは想像してよいだろう。たとえば毎日美術コンクールで初の留学生にえらばれ、現在滞仏中の松谷武判が今後よりよい仕事に飛躍するとしたら、この催しのプラスが認められよう。また、あるアメリカの批評家が京都の作家ではこの二人、といったというヨシダ・ミノルと井田照一は、ヨシダが昨年毎日現代美術展のコンクール部門賞をえたころから好調を示し、井田も昨年中多く、画廊の企画展で作品を発表しながら成長して、今度の毎日選抜美術展の選考では、版画によりながら7人の選考委員中の5票を得、いわば最高得点でえらばれるまでになった。いずれも、ちょうど作家としての発展の時期がきていたともいえるし、またそれだからこそ選抜され、入賞する結果になったのだろうが、しかし受賞とか選抜といった外からの刺激がその後の成長にプラスにならなかったとはいえないはずである。

したがって、美術館や新聞社はもちろんだが、経営の決して楽ではない、貸画廊も採算のゆるすかぎり、もっと多くの、有意義な企画展を、つづけてほしいものだ。(高橋亨)

『日本美術工芸(341)』1967年2月

1月9日 - 15日
萩森公馨個展

DMあり

不定形のフォルムがほとんど黒や赤、青一色にぬり込められた、多分に心理的な画面たちである。

石版画の無機的な工程とは対照的に有機的なニュアンスを持った形態―生とか実存といった意図が根底にあるのだろう。フォルムに洗練さを求めようとする努力がうかがえて好ましい。黒一色の作品には重量を感じさせて効果的だ。未分化なフォルムがはげしい秩序に転換していく足どりを見るようである。

が、なかに主観的な心情と画面の距離にいささか作者の不用意さがただようものがあるのも見のがせない。健康的なのだろうか。色の加わった作品にはその距離が目立つのだ。色の饒舌さに終わってしまった。間隙をうめる理知が必要であろう。

作者は京美大洋画科専攻科生。奈良市在住。石版画ははじめて三年だそうだが、個展は今回がはじめて。作品は25点。(杉)

*画像掲載:「「作品」萩森公馨個展から」
『京都新聞』1967年1月14日

1月16日 - 22日
紅選抜シリーズ第3回展

DMあり

出品作の選定にあたっては、手ぎわよくまとめられている作品よりも、なにかアクチュアルな問題意識につらぬかれているような仕事につとめて焦点をあてたつもりである。結果として、さまざまな新しい素材をつかったオブジェが多くなった。これは私の好みにもよるだろうが、同時にまた、最近の美術のひとつの方向をしめすものでもあるとおもわれる。(乾由明)


出品作家:麻田脩二(無限大グループ展)、市村実(画廊紅個展)、川端紘一(画廊紅個展)。栄利秋(アローライン展)、野村耕(ギャラリー16個展)、松谷武判(毎日フランス留学生選抜展)、矢野正治(次元66展・ギャラリー16個展)、ヨシダ・ミノル(グタイピナコテカ個展)


第4回の選者は中村敬治氏です。


「“問題意識”が不明確 二つの画廊企画展」

美術評論家や関係者が作家を選抜してくりひろげる画廊企画展がいま、期せずして二つの画廊で開かれている。ギャラリー16の「ニューイヤー16ワークス」展と紅画廊の「選抜シリーズ展」がそれだ。

「16」は上野照夫京大教授、吉岡健二郎同志社大助教授、中村敬治同講師と乾由明国立近代美術館技官が選考委員で、それぞれ作家二人を選出。一人の作家が2点ずつ16点の作品を並べる凝った趣向。「紅」は一年を三回に分け、各期間に持たれた個展を対象に数人を抽出して開くアンコール展。すでに三回を数え、今回の選考委員は乾氏、作家は8人。

こうした画廊企画展の誕生はいまにはじまったわけではないようだ。昨年以来、目立ってふえてきた現象ともいえる。そしてそれは単に画廊の増加にともなう一現象として片付けられないのはいうまでもない。現代美術のはげしい動向のなかで個展に全力をあげ、積極的に発言していこうとする若い作家を整理して認識できる意味で、一つの方向を示す企画であるには疑いをはさまないのだ。意図もわかる。時を同じく開かれた二つの選抜もまた、作家のより飛躍のステップ展として期待を持たせる。

たとえば襞「(ひだ)」のオブセッションにつかれ、豊かなイメージの変態を実体化させる矢野正治(紅、16)。ユーモリックななかに矛盾を思わせない堂々たる存在を主張する栄利秋(紅)。密度のある生命力の集積を見せる松谷武判(紅)。現代の人間的な映像を露出させる福田武(16)。ヨシダ・ミノルの緊張したフォルムと井田照一の狂いのない構成。そして野村耕、市村実、川端紘一、麻田脩二(紅)平田洋一、中野光雄、森俊三、志村光広、寺尾恍示。

だが、こうした企画展も結果として“いささか”の問題がないでもない。選ぶための方法論の希薄さ、問題意識の不明解さをぬぐいきれないのだ。たしかに企画の目的から考えれば、開かれることに意義はあろう。

変転と混迷を続ける現代美術。そのはげしい変革期の渦中に石を投げた結果は理解できる。開かれた“事実”は“厳粛な事実”として貴重なのだ。が、それだけでよいのだろうか。選ぶこと、つまり批評する側のラジカルな意図も明解にされなければならない。

批評。それはあくまで作品の構成、輪郭、色彩……などの、いいかえれば、作品の視覚的な面からだけで、既成の美学、現状の傾向、好みに照らした評価だけではないはずだ。さらにいえば、選ぶことを許された識者までが、感覚にすぎた作家的な立ち場での評価であっては困るのだ。選ぶこと、批評がそこからよりなにかを生み出し、作家になにかを与えるものであるかぎり、作家の現実認識の深浅、作品の持つ創作的なクオリティを明確に解き明かすことばが持たれなければならない。「思考はわれわれの言語以上に値しない」といったサルトルのことばは選ぶ側には黙過できないはずだ。

そこにこそ、作家をより前に進めるという“選ばれたもの”の意識があるのではあるまいか。(杉)

*画像掲載:「栄利秋作品(紅画廊)」
『京都新聞』日時不明


=乾由明国立近代美術館京都分館主任が選んだ麻田脩二、市村実、川端紘一、栄利秋、野村耕、松谷武判、矢野正治、ヨシダミノルの作品を展示。

紙面不詳、日時不詳


=昨年9月から12月までの三ヶ月間に開かれた個展、グループ展、団体展のなかから話題作家を集めてくりひろげる画廊企画展。今回が三回目で、選者は近代美術館京都分館技官乾由明氏、作家は麻田脩二、市村実、川端紘一、栄利秋、野村耕、松谷武判、矢野正治、ヨシダミノルの8人。

紙面不詳、日時不詳


……また、画廊紅では、〈紅選抜シリーズ第3回〉展として乾由明が選者となって、麻田脩二、市村実、川端紘一、栄利秋、野村耕、松谷武判、矢野正治、ヨシダ・ミノルのかつて発表した作品がならんでいた。(田中比佐夫)

『三彩』(212)1967年3月号

1月23日 - 29日
シオン トミタ個展

DMあり

1月30日 - 2月5日
石原薫展

DMあり

タテ4メートル-6メートル、ヨコ3メートル-2メートル…。会場の全壁面をほとんど画面たちで埋めた取り組みである。

兵器、ショーガールの狂態、しばられたベトコンらしい捕虜……。一見、戦争という暴力的なメカニズムのもとに組みしかれたさまざまな様相がダブルイメージ的に描かれる。だが、そこには、戦争に対する憎悪、反戦へのシュプレヒコールといった深刻な絶叫はない。むしろ、あっけらかんとした展開さえのぞくのだ。そしてそれは戦争という非人間的な行為もまた、人間のむなしい行為の一部分としてとらえようとする作者のアイロニカルな姿勢でもあるのだろうか―。

あからさまにさらけ出した顔や口。兵器などのさまざまな形態。カリカチュアされた画面が痛烈な風刺、高い逆説まで達していてドライで、リアルな印象を与えるようだ。主題をより能動的な共感に高翔していくうえに色感との結びつきに捨象されるものがある。作者は新制作協友。毎年一回、個展で作品発表を続けている。(杉)

*画像掲載:「キャンパー・オブ・ワールドの部分」
『京都新聞』1967年2月4日


「“狂った歯車”とらえる 第一会場  童話とさし絵、楽しい第二会場」

◇石原薫展(30-5日画廊紅、第二会場30-2日京都書院画廊)=第11回目の個展、前回のベトナム爆撃の飛行機や被爆の民などを組み合わせ、シュール的な手法をすすめた大作(460×180)(320×320)(600×160)はより焦点を絞った構成で迫力をもって描かれている。大きくあけた口、幾つもの仮面がある。機関室のらしい窓からデスマスクが動かず、たちきられた一角に幼児のらしい下半身の一部が見える。一番大きな作品では中央に縛られた暁の銃殺の主人公の少年があり、機械と人と、正常でない現代の狂った歯車のかみ合わせをとらえて見せる。その訴えが絶叫型ではないだけにせまるものがある。いま一つの会場京都書院画廊では氏が書いた童話とそれによってどこまでものびて行くイメージの世界をひろげ、独自の立ち場でそのさし絵を描いている。さすがに自筆の童話だけにうってつけで、それぞれのストリーに応じた場面の設定、ファンタスティックな調子でたのしい会場である。

『夕刊京都』1967年2月3日

2月6日 - 12日
無閑人展

DMあり

(美術評論家・文人余技)

朝山新一、上野照夫、大久保武男、岡本午一、亀田正雄、黒田英三郎、国分綾子、重達夫、重成基、下店静一、杉田博明、鈴木剛、高橋亨、中川脩造、中村敬治、奈良本辰也、蓮見重康、吉村良夫、依田義賢

2月13日 - 19日
谷イサオ個展

DMあり

発表されている作品は一見、多彩なリズムのバリエーションを思わせる。これまでの厚みを持ったコラージュ(はりつけ)の画面から今回は平面にきり替わった作品だ。屈曲した幾条もの線と交錯して重なる面が織りなす構成は、とにかくそれぞれが呼応して弾力のある表情をつくっている。そして異質な線と面のぶつかり合いがはじけるような情感に方法的な効果を盛り上げている。だが画面と作者内部の緊張関係に視点をしぼってみるかぎり、まだ未消化な部分が多い。ケイ光性のポスターカラーの不明朗な色感、決定されない不安定な線の筆軌―。しばしば典雅にすぎた情緒的なにぎわいが先行して、形式としても未処理な気がする。色彩が明解になり、構成も合理化されたとき、主観的な発表がより緊張したものになるのではないだろうか。

京教育大卒。新象作家協会に所属しているが個展ははじめて。

*画像掲載:「「作品1」谷イサオ」
紙面不詳、日時不詳

2月20日 - 26日
浜田泰介個展

DMあり

六角形のプラスチック板の一部がモーター仕掛けで回転、オプチカルな色の交錯を見せる―いわゆる“動く絵画”の発表である。タテ1メートル、ヨコ2メートルの壁面に組み込んだガラス棒とプラスチック板―先鋭な材質感のせいでもあろうか。現代感覚を象徴化するような冷ややかな華麗さは、新たな幻覚を展開させる。しかも規則的な動きで回転する画面によって交錯する線が立体的な虚像を結んで現実化するのである。その意味では時代にアプローチする一つの方向を示しているようだ。

しかし、それが視覚的なレベルだけで、情動的な共感にまで達していない。一見、手わざに徹したかのような構成だが、多分に寓意を脱しきれない意識の弱さではあるまいか。

京美大卒、昨年はニューヨークのギャラリーが主催した日本人作家展や現代美術展に選ばれて出品。京都在住で、個展を中心に作品発表している作家でもある。(杉)

『京都新聞』1967年2月25日


……視覚の作用を利用した〈浜田泰介個展〉など……

『三彩』(213)1967年4月号

2月27日 - 3月5日
版画展 8ピキの梟

DMあり

麻田浩、石原薫、佐野猛夫、下村良之介、辻晋堂、富樫実、不動茂弥、森本紀久子


ここでも、ふだんは絵画、彫塑などを主にしている作家たち八人が版画を並べて見せた。辻晋堂のリトグラフが本業の彫塑にくらべ、叙情味をすなおに表わしている。富樫実の簡潔な画面は、木彫のノミの切れ味を大切にするこの人らしい。麻田浩、森本喜久子(ママ)、佐野猛男(ママ)石原薫、下村良之介、不動茂弥らもそれぞれ面白く、ただの余技ではない。

『朝日新聞』1967年3月4日

3月6日 - 12日
林道夫個展

DMあり

=行動美術所属、七宝を思わす厚ぬりの画面にひっかいたような線跡を埋めた作品を発表している作家。今回が三度目の個展。

『京都新聞』1967年4月11日


……韓国を祖国とする林の絵は、独特な風土性というようなものが強烈に表出しており、このままの成長がたのしめるものであった。(田中比佐夫)

『三彩』(214)1967年5月

3月13日 - 19日
藤木建直個展

DMあり

発表の作品を様式的に見ると、大きく二つに分けられるようだ。一つはポロックを思わせるアクション風のものであり、もう一つはポップ・アート的な画面である。そしてそこには一見、ラディカルな変ぼうを想像させるが、とり立てて意味はないのだろう。

現実的な身辺雑事をモチーフに物質を再生化しようという意図は逆説としてもわかる。が、発想の表現主義が十分に整理されていないためか、形態のおもしろさにもかかわらず、全体の印象としては軽薄さをいなめない。共感を裏付ける説得力も希薄だ。とくにポップ風の作品にその感が強い。構成が主観的な興味のみに依存しているせいではあるまいか。感覚的な興味を乗り越えた論理性が大切であろう。元太陽会所属。個展ははじめて。

『京都新聞』1967年3月18日

3月20日 - 26日
飯田教子絵画展

DMあり

=ベニヤ板の地に透明ビニールをはり重ねてふしぎな効果を出した作品。

透明ビニールは乾布などでこすると静電気がおこり二枚きっちりくっつく性質があるのをうまく使い接着剤は全然平面には使わずにはり重ねた。あるいは白地に色を塗り、あるいは何枚も重ね、その重ね方自身にも、多彩な変化と組み合わせで多彩な効果を展開する。

鋭利な刃物でたち切った直線は鋭く、光った面に施された細い色えんぴつの線には、版画ほどでもないが思いがけぬ強さがある。

透明な膜を通す色の使い方も美しい。重ね方で厚みを増し、立体的となった部分の堅い板と、つやのある全体の調子はこの人のもの。新しい試作に期待がもてる。

出品は100号4点、80、50、30とそれぞれ数点、小品5点。福井大卒、北美に参加、中学校につとめている。

*画像掲載:「飯田教子さんの作品の一つ」
『夕刊京都』1967年3月24日


透明ビニールをベニヤ板にはりつけた抽象作品19点。舞鶴市生れ、福井大卒、北美会に所属し、北陸中日展、北美東京展などに出品してきた。

『朝日新聞』1967年3月25日


包装用ビニールを切って重ね、ほとんど透明な画面の上に微妙なリズムをとらえた。

『朝日新聞』日時不詳


独自の手法と着想でビニールテープをノリを使わず電気摩擦で何枚も密着させ清潔な深みを出している。

『毎日新聞』1967年3月25日


……飯田は新人であるが透明な、ビニールを何枚も重ねることによって、不思議に色づいてくる画面を巧みに構成して、おもしろい作品をつくっていた。(田中比佐夫)

*画像掲載:「作品 飯田教子〈個展〉」
『三彩』(214)1967年5月

3月27日 - 4月2日
本郷宣彦彫塑展

DMあり

ポリエステル樹脂による 半透明な浮遊物体(DMより)


ポリエステル樹脂による半透明な浮遊物体をつるしたり、または壁面に乱反射する金属板を張って、空間構成による自己表現をねらったという。作品数は9点。京都教育大卒。京都アンデパンダン展、今日の作家展などに参加してきた。

『朝日新聞』1967年3月28日

4月3日 - 9日
近藤直行個展

DMあり

「土俗的な形体」

「祈り」という主題に統一された作品。それは土俗的な、なまなましい息づきに満ちた色感と形体がうまった画面だ。

あるものは珠数(じゅず)を打ちふり、あるものは天に向かって大声で叫び、またあるものは恍惚とした法如に酔いしれてくりひろげる祈りの形体。一見、宗教的な儀式の展開を思わせる。が、そこには特定の意識はないのだろう。むしろ、ドグマとか戒律とかの不自由さを越えた無秩序な祈りであり、しかも、その祈りにすらなんの認識も持たなかった時代の根源的な生命の叫びでもあるのだ。それが強い郷愁を投げかけているともいえる。

土くさい不透明な色感、開放的な表情を持った祈りの構成。一つの解釈に拘泥せず、広い物語り性を含んだ取り組みはユニークで、好感がもてる。しかし、背景に紙をはりつけ、古寺の伽藍(がらん)や古びた絵馬を思わす技法は饒舌でしかない。色彩の整理にも余地が残されているようだ。

金沢美大卒、現在、行動美術会友。新潟県美術展や現代日本美術展に入選している。京都での個展ははじめて。(杉)

『京都新聞』1967年4月8日


「装飾的になるのを警戒 作者との対話/意識の底にある“仏教”」

=新潟県美術展受賞6回、行動美術会友、第7回現代日本美術展入選

〈近藤直行との対話〉

個展ははじめてですって?全部“祈り”というテーマですね。
“祈りという題は考えてみるとずっと、学校(金沢美大油絵科)を出てから十年になりますが、この間ずっと同じ題で描いているんです。今は新潟で中学の教師をしているのですが、昼間の勤務でよるが眠いので、出勤前の午前3時―4時、という時間を制作にあてているのです。
“祈り”という作品(どれも)南方のさらさに見るもように似たふん囲気もあり、密画の気分もあり、仏画といったしるし、光背や卍(マンジ)やジュズらしいものもありますね。お不動さんの火炎みたいなもんも……。
あんまり意識していないのですが、小さいとき四国のおへん路さんや寺の空気が好きでしたから、意識の底にあるかもしれません。
十年も“祈り”を描いてくると同じ“祈り”といっても内容も絵も変わってきたでしょうね。
阿修羅(あしゅら)が好きで、そんな青のかった作品でした。めい想的で、淡白幽玄なんていう人もいましたが、それがだんだん子どもの顔になり、さらにかんおけにはいった童子の絵となり、群青、むらさきの色調を加えて、この2-3年、がらりと今の赤の調子に変わりました。
強烈で鮮麗な色ですね。板に布をはり、コラージュの手法もとり入れていますね。
ひところ、粘土を画面に塗り立て、それをかまに入れて焼いたりしましたが、それをはがしたおもしろさも使っています。土に関心があります。ハニワや「発掘された祈り」を扱った時期もあります。
原始的なものに対する興味でしょうね。今の赤の作品もその延長でしょう。
素朴で、プリミティーブな、そしてそこから出るバイタリティー、そんなものをもっと盛り込みたい。
みんな細長い顔をして、大きな口をあけて祈りをとなえていますね。なにか船にのったり、踊ったり、ロマンがありますね。
ま、戦争でビルマやタイに行った体験があるので、これも意識せずに反映しているのでしょう。物質文明、機械文明の現代の世相をリアルに表現するのも、その矛盾をつく意味も、この「祈り」の中にはいっているかもしれません。
この初めての個展で私は少なくとも反省する次の二つのことを教えられ得るところがありました。
その一つはデコラティブになることについて警戒しなければならないこと。いま一つは作品の色のことで、空が重く垂れて曇り空の下の新潟でこれでシャープな色だと思ったのが京都で見ると感じがすっかり変わったことです。いい勉強をしました。

*画像掲載:「近藤直行“祈り”」
『夕刊京都』1967年4月7日


近藤は新潟市に住む人で、ねばりの強さを感じさせる画面の中にネパール地方の土俗神の偶像を思わせる群像を描いていた。ただ画面の変形を試みている点、また群像の容貌が同型である点など疑問である。(田中比佐夫)

*画像掲載:「祈り 近藤直行〈個展 紅画廊〉」
『三彩』(215)1967年6月

4月10日 - 16日
川端信二作陶展

内臓を思わせる有機的なフォルムを、土でひねって焼きあげた。走泥社に入って四年目の人。

『朝日新聞』1967年4月15日

4月17日 - 23日
平松輝子個展

DMあり

地殻とか岩礁を思わせる形態が見るからに量的にうまった、抽象表現主義的な作品たちだ。いずれも和紙に水性のリッカー・テックスをにじませ、コラージュした画面構成である。

複雑な色感、荒々しい形態。そこにははげしい生命の躍動をうたった原始的ないとなみが露出される。作者の意図もそこにあるのだろう。そしてその構成は多分に体質的で、熱情的な作者の意志の集を思わせるようだ。和紙をかさねた技法のせいだろうか。「Rain of 10,000 stone」の量感「Purple eclipse」の強じんな構成は、いささか破たんが見られるとしても迫力を盛り上げて効果的だ。ただ全体に情感にたよりすぎて、それを細密に分析する方向が弱い。明確な意思、より高い観念秩序に裏打ちされた取り組みが必要だろう。いかに熱情的な意思もそれが、あからさまに投げだされているだけでは共感とはなりにくいのだ。

一昨年、渡米、ニューヨークのサックス画廊などで個展を開いた東京出身の作家。ことしの第四回国際青年美術家展では佳作に選ばれている。

『京都新聞』1967年4月22日


カンバスの上に和紙をはり、その上から米国製の水性絵具で彩色した抽象画。ひだを寄せた和紙の上に、微妙なかげりがあって、見るものの目をとらえる。かなり激しい色彩を使っていても、その底には、ひっそりと瞑想(めいそう)にふける人のつぶやきが聞えるようだ。去年、アメリカで個展を開いたときは、ニューヨーク・タイムスなどに取上げられ注目された人。東京在住。京都で発表するのは初めて。

『朝日新聞』1967年4月22日


レジェの弟子だった坂田一男に指導を受けた人。抽象画十数点を発表。一昨年渡米、ニューヨーク、ロサンゼルスなどで個展やグループ展を開き、一年後に帰国。ことしの国際青年美術家展で佳作に入った。日本の伝統を現代に生かしたいといっている。

紙面不詳、1967年4月18日

4月24日 - 30日
宮永理吉個展

DMあり

両端をつまんでつぶされた磁器の管が“いげた”に、あるいは並列的に組み上げられ、つながれた、多分に心理的な容貌を持った彫刻だ。

ひやりとした触覚性を表情のうちにたたえた素材。有機的なフォルム。一見、二律背反するかのような主題のかみ合いである。が、それが一つの了解の接点を持って不思議な緊張感を盛り上げるのだ。

作者の造形思考もここにあるのだろう。人間の条件を無機的な素材と同質化し、内面のイメージをより具体化しようとする志向である。有機的なフォルムの融合のなかにユーモアをたたえた逆説は効果的だ。

先のゼロの会展、行動美術展では元禄模様の彩色をほどこした作品が中心だった。しかし、古式なニュアンスを持った色彩は多分に観念的な寓意を感じざるを得なかった。

つややかな冷たい白一色に徹して積み上げた「いげた―イ」「いげた―ロ」に緊迫した共属感がうかがえる。

ゼロ会員、行動美術会員の彫刻家。

*画像掲載:「宮永理吉「いげた―イ」」
『京都新聞』1967年4月29日


なめらかな陶器のはだの美しさを、じっくり見てほしいとかたりかけてくる抽象陶芸十数点。土を円筒形に仕上げてから平たくつぶし、いくつも重ねたり、縦横につないである。昨年はこれに彩色してあったが、ことしは白っぽいうわぐすりをかけて焼きしめただけ。かたちには目を見はらせるような新しさも、緊迫感もないが、ひょうひょうとしたユーモアがにじみ出ている。うるおいのある光沢と、微妙に起伏、あるいは断続する作品の表面の、影の変化に独特の味わいがある。

『朝日新聞』1967年4月29日


宮永理吉はここ3-4年ほど磁器の仕事を続けている。はじめ白い釉薬をかけていたが、次には一面に呉須をかけたり、色絵金銀彩風に華麗な模様を施したりした。今度は再び白釉の作品に戻っている。造形上の近代意識が彫塑から色彩を追放したが、それと同じく形の問題に限定して厳しくみつめようという意図であろう。一般にやきものによって純粋造形を試みる立場は、高度な技術的問題が消去される地点に於て仕事をしているのに対し、彼は逆にそれを自己の芸術意志に合わせて消化しようとしているのが注目される。ところで、彼が現在追求している形態は、焼成単位に限界があり、作品の大きさを獲得するためには接合しなければならない。それを違和感なく行なうことが今後の課題であろう。(S)

『京都国立近代美術館ニュース 視る』1967年6月号


……宮永はたくまずして出る陶工の血――彼にとっては両刃の剣であろうが――を感じさせる直な作品展であった。ほんとの前衛とは、血までも変えていくことであろうが。(田中比佐夫)

『三彩』(215)1967年6月

5月1日 - 7日
富樫実彫刻展

DMあり

「渡仏近い富樫実氏の個展」

成安女子短大教授、行動美術会員の彫刻家富樫実氏は6月中旬、フランスに向かうが、出発に先立って5月1日から東山区縄手通四条上ル、画廊紅で個展を開く。

同氏は先に西日本各地から作品を公募して開いた第二回「フランス政府留学生毎日選抜展」で、第一席に選ばれ、渡仏することになったもので、六月からパリのボザール大で六ヶ月の研修をうけることになっている。

発表作品は受賞作品と同様「空にかける階段」のシリーズ作で、広がりのある空間にいどんだ木彫約十数点。富樫氏によれば「ヨーロッパは四年前、ユーゴスラビアで開かれた国際展に続いて二度目です。せっかくの機会を意義あるものにしたいこともあって、制作していた最近の作品を並べてみたかった」そうだ。

『京都新聞』1967年4月29日


「留学記念個展開く 彫刻の富樫実氏」

毎日新聞社、関西日仏学館主催で行なわれた第二回フランス政府留学生選抜毎日美術コンクールでフランス留学賞を獲得した彫刻家富樫実氏=北区小山中溝町=の留学記念個展が縄手通四条上ル、紅画廊で開かれている。

中央には同コンクールでフランス留学賞を獲得した彫刻家富樫実氏=北区小山中溝町=の留学記念個展が縄手通四条上ル、紅画廊で開かれている。

中央には同コンクール受賞作「空にかける階段」が流れるような美しさのなかに力強さをみせ、これにあわせて木彫小品18点と同氏がはじめて発表したアルミニウムの作品2点も並べられた。無限のひろがりをもつ大空に強いあこがれをよせる同氏は、作品の名も全部「空にかける階段」のびやかな線と面のおりなす造形の美に、会場は人気がわいていた。

同氏は6月16日横浜出帆ソ連経由で渡仏の予定で六ヶ月間パリで勉強する。同展は7日まで。

*画像掲載:「記念個展と富樫氏」
『朝日新聞』1967年5月8日


行動美術会員、成安女子短大講師。67年度フランス政府留学生コンクールで最優秀賞を獲得、6月中ごろソ連回りでパリに向かい、六か月滞在、作品を制作する。6月末に府ギャラリで個展を開く予定だったが、この渡仏のため開催を早めた。同コンクールの出品作はじめ、“空にかける階段”と題するシリーズの木彫り作品十点。シリーズ作品は直径60センチ、長さ2メートルの木を大胆に削り、階段のようにして空間構成美をねらっている。仏像彫刻にないフォルム、ノミのひらめきがみもの。

『読売新聞』1967年5月2日


「仏留学に富樫氏(彫刻)第二回毎日美術コンクール」

【京都】関西の若い美術家たちにパリ留学の機会を与える第二回仏政府留学生選抜毎日美術コンクール(毎日新聞社、関西日仏学館主催)は29日、京都市左京区岡崎、京都市美術館で京大教授、上野照夫、京都工繊大教授、河本敦夫、京都市立美大助教授、木村重信、同、元井能、同志社大助教授吉岡健二郎、同講師、中村敬治、国立近代美術館京都分館技師、乾由明の7人の審査員が応募作品464点(絵画422点、彫刻42点)を審査、仏留学の彫刻部門出品作に富樫実氏(36)=京都市北区小山中溝町16=の「空にかける階段」が選ばれた。佳作の毎日新聞京都支局長賞(賞金五万円)には版画の井田照一氏(27)=京都市中京区新椹木町夷川上ル=関西日仏学館館長賞(同五万円)には絵画の松田豊氏(25)=大阪市住吉区墨江中4の19=が決まった。

これらの入賞者を含め絵画37点、彫刻9点、計46点が入選作品に選ばれ4月2日から7日まで同美術館で作品発表展を開く。

パリ留学を獲得した富樫氏は行動美術協会会員で、京都美大彫刻科卒、38年ユーゴスラビアの招きで国際シンポジウムに日本の彫刻家代表として参加、現在成安女子短大彫刻科助教授をしながら彫刻界の中堅作家として活躍している。5月初めに渡仏。六ヶ月間、仏政府留学生として滞在する。

*画像掲載:「パリ留学がきまった富樫氏とその作品」
紙面不詳、日時不詳

5月8日 - 14日
American Modern Art Exhibition Silk Screen Poster

DMあり

Josef Albers, Richard Anuskiewics, Andy Warhol, Helen Frankenthaler, Roy Lichtenstein, Bridget Riley, Robert Motherwell, Robert Rauschenberg, Jim Dine, Alfred Jensen, Theodoros Stamos, Jasper Johns, George Bireline, Nicholas Krushenick, Franz Kline, Richard Lindner, Charles Hinman, Bruce Conner


今日アメリカで活躍中の新進、大家が描いたシルク・スクリーンのポスターばかりを集めた。J・アルバース、R・アナスキビッチ、A・ワーホール、H・フランケンサラー、R・リクテンスタイン、B・ライリー、R・マザーウェル、R・ラウシェンバーグ、J・ダイン、A・ジェンセン、T・スタモス、J・ジョーンズ、G・バイアリーン、N・クルシュニック、F・クライン、R・リンドナー、C・ヒンマン、B・コナーという顔ぶれ。ことしはじめ、国立近代美術館京都分館で開かれた現代アメリカ絵画展で、京都の美術ファンになじみの作家も多いが、ポスターばかりなので絵画とはまたちがった味がある。即売もし、2500円―4500円。

『朝日新聞』1967年5月9日

5月15日 - 21日
早川勝己個展

DMあり

新制作協友の洋画。人体を大きくゆがめていくつも描いた。縦0.9メートル、横9メートルの大作をはじめ、壁画風の作品3点。人間不在の芸術に反対し、原始芸術に心ひかれているという。

『朝日新聞』1967年5月16日


「“生活する人間”を絵巻き形式で」

=新制作協会協友、京展依嘱、個展は3回目。古代オリエントの美術をおもわせる素朴な人間像を、出土品にまといついた土の色とハダに似た画面に刻みつけた特異な作風である。第一回第二回個展が画面いっぱいに動きのとれぬようにべったり描いたのに比べ、こんどは天地をぐっと詰め、ヨコを長くとった絵巻きのような形を使った。絵巻きの形式である。そして、ぐっと空間をとって物語りを展開して行くように線描に近いプリミティブな線で、乳房と足の大きい人間のかたちを描いて行く。生活している人間である。それは先年のより、いささか宗教味?を加えて、人間の歴史や生と死やさまざまのくらし方をカベに塗りこめる。

「もっと土を感じてほしい。古代から今までに至る人間の息吹きを感じてほしい」と作者の弁。つぎの作品は、この色調からブロンズの調子に大きく転回するという。

『夕刊京都』1967年5月19日


……他に技法をよく自分のものとして、落ち着いた大作を出品していた〈早川勝己個展〉(画廊紅)。手堅い木彫群をならべる〈富樫実彫刻展〉(画廊紅)などが特に心にのこるものであった。(田中比佐夫)

『三彩』(217)1967年7月号

5月22日 - 28日
クリフトン・マクチェスニー個展

DMあり

「京を軽妙に描く」

=米国インディアナ州出身の美術担当教授。休暇を利用して日本に住み、今回の個展も油絵約十点は「舞妓」「鴨川」など日本、ことに京都のイメージを淡い色と軽妙なタッチで画面に定着させている。インディアナ大その他を卒業し、その間多くの受賞をうけている作家でもある。

『夕刊京都』1967年5月26日

6月10日 - 16日
佐野猛夫 銅版画展

DMあり

昨年夏、京都市立美術大学インドネシア学術調査団の一員として約3ヶ月、ジャワ島、バリー島に滞在された佐野猛夫氏が帰国後、余暇にその風物を版画に託して制作されました。おいそがしいとは存じますが、ご高覧下さいますようご案内申し上げます。 画廊紅

5月29日 - 6月4日
吉竹弘陶彫展

DMあり

陶芸の前衛グループ「走泥社」所属の作家である。走泥社の作家のほとんどがそうであるように、この作家もいわゆる陶彫の発表である。

作品は7点。これまで、ともすれば土といった材質に惑溺した陶芸的趣味が造形の弱さを披歴してきたが、今回では作者の造形意識をかなりはっきりと打ち出している。

張り切った、あるいはたれさがったアレーのような塊が、大きな口を持った“もの”にくわえられた形態―。その連作のなかで、それぞれはセクシアルな、しかもみだらなドラマを演じてみせるようだ。そしてポーズはカラリとした、なんでもない笑いを誘う。このことは作者の健全な精神を証明しているのだろう。

釉薬を使用せずに、土そのものを焼き上げたハダ、単純な形態。直接的な話法だが、暗喩的なイメージを広げて効果的だ。ただ、仕上げの処理に密度がほしい。それが陶芸的な味のニュアンスを帯びて、形態そのものを減少させているのではないか。こうした仕事が陶芸の変形でないことをさらに認識した取り組みに飛躍があるように思えるのである。日吉丘高卒で毎年、グループ、個展に発表している新進。

『京都新聞』1967年6月3日

6月5日 - 11日
村上丙彫刻展

DMあり

独自の宗教的な意識にささえられた、あるいはそんなニュアンスを多分に含んだような木彫の十点ばかりの発表である。もっとも、そんな印象が、なにも「輪廻」とか「道祖神」と名付けられた題名のせいだけでないのはいうまでもない。意識の主題をとり上げながら、造形化した形態に、風土的な精神性のゆらぎを感じさせるのである。作者自身の着想もまた、そうした意図に裏打ちされているのではあるまいか。

土俗的なイメージを造形化し、定着させる方向は興味深い。そして、きびきびと彫り上げた木の材質感と抽象的構成が安直なうしろがえりに終わらず、豊かな精神の躍動を認めることができる。ユニークな個性だ。

が、一部の作品―たとえば「対話」など―では様式化が目立ちすぎて平板だ。空間のハ握にも乏しい。また、叙情的な形態に流れて水っぽくなったのは押しつけがましい気がしてならない。簡略化した構成がキレイごとに終わっているのだ。

作者はかつて院展に所属していたが、現在二紀会委員。平櫛田中に師事。仏彫もやったことがある。抽象作品への移行は数年前からだそうだ。

『京都新聞』1967年6月10日

6月12日 - 18日
池川司郎個展 版画展

DMあり

「ただよう“よう気” 宗教めいた泥くささ」

作者はカリフォルニア、サンタバーバラ在住。パサディナ州市立大学助教授。東京芸大を卒業後ロサンゼルスのオーティス・アート研究所に学んだという履歴の持ち主でもある。こんどは13点の近作版画を送ってきたが日本の税関にひっかかって一ヵ月もとめられ、画廊側のたいへんな努力で「日本では一点も売らぬ、すみ次第米国へ返送する」という固い約束でようやく個展開催の運びになったといういわくつきの版画展である。

その作品は、分厚の段ボールを台としたかなり深い版画で、テーマは主としてまんだら風のとり方、そして各種の印(いん)の結び方、梵字(ボンジ)、仏の顔、経典の字のラ列、などをよく用いている。

泥くささもあって、画面に一種の密教めいたよう気をただよわせる。

『夕刊京都』1967年6月16日


奈良仏像の呪詛(じゅそ)的な神秘感に満ち満ちた、作品たちである。作者は現在、アメリカに在住、カリフォルニア・パサデナ市立美大の助教授でもある。作品はいずれも現地で制作されたものばかりだが、六年間の海外生活には作品をここまであからさまなジャポニカにさせる魔力を持っているのだろうか。「上下」「左右」といった題名に名付けられた画面にふと、そんな印象を起こさせるのだ。

アメーバのように生動しからみ合ったフォルム、法隆寺の菩薩、観音像を配列した構成、黒くにごった色感……。画面はたしかに有機的だが、冷徹な、しかもナマの深遠な世界をミステリックに具現化している。そして荒々しい取り組みがかもし出す表情に、濃厚な現実感をうかがうことができる。「KATACHI- N」「3」「6」「ODA」にはその印象が強烈だ。

だがそこにある概念に頼り切った空間処理が饒舌なニュアンスを揺曳しているのは否定できない。体質的な個性を、思考の上にどう築き上げるか、発想の段階での消化が必要ではあるまいか。

京都でははじめての個展。発表点数は12点。(杉)

『京都新聞』1967年6月17日

6月19日 - 25日
真野岩夫個展

DMあり

国画会会員、市美大西洋画科講師。生の油絵具を大たんに塗りたくったアンフォルメル絵画から一転、商業美術、意匠デザインを思わすような純粋構成画が中心。感情から理性的な感覚派への転向ともいえる。こんどの個展のパターンは正方形、壁面は百号大8号、別に25センチ四方の広がりをもつ素焼きやねりこみの陶板をいくつかぶらさげたオブジェ作品8点を出品。

『読売新聞』1967年6月20日


厚みのある空間に小さな方形が“まんじ”模様に、あるいは並列化して打ち込まれた画面たちである。従来まで、濃重なフォルムのせめぎ合いのなかに詩情をただよわせたアンフォルメル風な作品をつくってきた作家だが、今回は幾何学的な構成が意識された取り組みだ。

ジルコン(陶器に使われる材質の一種)を全体に塗り込めた材質感のせいか。また、散りばめられた方形の配列がマンダラを思わすからか―画面は多分に風土的な静寂を暗示しているかのようだ。そしてその静寂さは空間の広がりにおいて普遍的、多角的であるより、むしろ凝縮した内面の深層に沈み込ませるのである。そこに作者はまた意識の無限の起伏を現実化させようとするのだろう。

だが、こうした構成も、その取り組みにおいてフンイキに過ぎた面が残像しているのは否定できないのではないか。たとえば筆触や色感に―。だから、深層な世界がはたしてどう現実とつながるのか、ただ単に郷愁なのか、不明瞭な気もするのだ。より、冷徹な意識の整理が色感にも、画面処理にも強いられるのではあるまいか。

今回の個展には先に、作者が手がけた東京・浜町京都ビル、京都産業センターの壁面陶影も同時に発表している。ねり込みや焼きしめの技法で仕上げているが、構成に絵画的なニュアンスが生かされて興味深い。

国画会会員。京美大講師。

*画像掲載:「「作品」真野岩夫」
『京都新聞』1967年6月24日


美大洋画家専任講師、こんどは第八回目の個展だが、去年一回休んで二年目の開催。そのせいか先回の動きのある画面が全く変わったような感じを与えるが、実際は必然的な動きをもってここへ到着したのだと自ら語る。

百号の画面(8点)15号(1点)などはどれも小さい方形を整列させるが、これは感情の起伏をとらえた以前の作品に対し、意識的に人間の感情をとり去ったあとの純粋構成と見るとおもしろい。タブローの間に、陶影の一つである作品を展示する。

ここはこのほど作者が東京浜町河岸にできた京の業者からなる産業センターの委嘱をうけ、その内部ロビーはじめ外装の壁画などをひきうけたがそのモチーフである陶彫と、やきしめと、ねり込みの二つの手法がよく見られるようなスクリーンに組んである。

『夕刊京都』1967年6月23日


この作者は、大きな色面の対比とフォルムのくみ合せに独特の画境をしめしていたが、2年ぶりにみる個展では、いちじるしく作風が変化している。出品作はすべて、白または赤一色の画面に、小さな方形のおなじパターンをいくつか散らした簡明な様式のものばかりである。スタイルからいえば、極力表現的な要素を排除したいわゆるミニマル・アートに近い無機的な画風であるけれども、作品そのものには、作者の体質に密着した一種の情感がつよくにじみ出ている。これは地塗りの複雑なマチエールによるところが多く、作者は最少限の造形手段で自己の感性を繊細に表現しようとしているようである。ただこの造形と表現との矛盾が十分統一されるに至らず、散漫な印象をあたえるにとどまっていた。

これよりもむしろ同時に出品されていたテラコッタの作品の方が面白かった。ここ2,3年来、建築家と協力してこころみていた壁面装飾の一部を発表したもので、独立した作品としては迫力に欠けるが、さまざまに発展せしめらるべき可能性があるようだ。たんなる陶製タイルの域を脱して、よりモニュメンタルな効果をもつレリーフへすすむことが望ましい。(I)

*画像掲載:《作品6》
『京都国立近代美術館ニュース 視る3』 1967年8月号

6月26日 - 7月2日
福田芳子個展

DMあり

紫野高出身、乾商事(西陣織りメーカー)意匠部員、竹中三郎元自由美術会員に師事。二年来追求の正方形市松模様の抽象壁面はこの個展で長方形となり、窓のように二、三重のワクも加わった。色彩もグリーン一色のウェット調を一転、ブルー、ピンク、紫も取り入れられ、明るさがました。百号6点、50号1点、30号2点と小品数点。

『読売新聞』1967年6月27日

7月3日 - 9日
とこむ展

DMあり

亀井造酒、川崎洋秋、中西洋祐


=川崎洋秋、中西洋祐、亀井造酒の三人の陶彫作品展、いずれも日吉ヶ丘高校出身者で、グループ展は三回目。やきしめや釉をかけたものなど一人数点づつの出品。

紙面不詳、日時不詳


「第五回とこむ展」

日吉丘高三十六年度卒業生で、走泥社の山田光、鈴木治、熊谷順吉(ママ)会員に師事した前衛陶芸家。中西洋祐は清水みやげ物店に生まれたが、陶芸の道を歩み、円柱形状の物体をサボテンのようにつなぎ合わせた作品を出品。川崎洋秋は正面、背面に切れ込み線や突起物をつけて、面の変化を強調した作品。亀井造酒は玄兵衛元青竜社社人の二男、那須大山脈がつくった大谷(おおや)石を焼いた作品。人工を加えない“火の芸術”が人間の意志を無視してつくるすばらしさをテストした。溶岩、ガラス、軽石状化し、陶器のイメージを破壊した新しい世界。

『読売新聞』1967年7月4日

7月10日 - 16日
松井一之 写真展 四人の作家 顔

DMあり(下村資料)

写真家で個展ははじめて。こんどは辻晋堂、須田剋太、八木一夫、下村良之介の四人の作家の顔をとり上げ、その生活や性格を浮き彫りにする。

紙面不詳、日時不詳


中京区河原町竹屋町かどにスタジオをもつプロ写真家(全関西写真家協会審査員、府写真師会文化部長)が、関西美術界から選んだ4人の作家(須田剋太国画会会員、辻晋堂二紀会委員、八木一夫走泥社同人、下村良之介パンリアル会員)のもつ強い芸術家タイプ、個性ある思考、感情、心あらたまる人間にひかれ約二か月にわたってカメラで追い回した写真作品。絵画、彫刻家を“材料”にすぐれた芸術作品をつくるねらいがこめられ、須田は天然色写真でアトリエ空間と作家の構成、辻は制作する表情、手の動き、八木は日常のスナップ、下村は作品と顔との合成作品など。全紙大二十点、半折7点。

『読売新聞』1967年7月11日


「興味深い瞬時の表情 松井一之個展「作家の顔」」

関西在住の作家四人の表情をカメラでとらえた展覧会が町の画廊で開かれている。京都市東山区縄手通四条上ル、紅画廊の松井一之個展「作家の顔」がそれである。

松井氏は、かつて二科展に出品、現在、全関西写真家協会審査員の写真家。被写体となった作家はオブジェ焼きで知られる八木一夫(走泥社人)彫刻家辻晋堂(京美大教授)絵画の須田剋太(国画会員)下村良之介(パンリアル会員)の四人。いずれも前衛を仕事の□にユニークな制作を続けている作家で、とかく前衛ということばが日常化し、意味を失いつつある現代美術のなかでも、その個性的な言動は注目されている。

ずいぶん以前のことだがだれかがこんなことを書いていた。

「写真というものが表現しているのは、すべて過去でしかない。これは写真にかぎらず文学、絵画にも同様だが、そこには量的な違いがある」と。そして写真の特性をあげて「精密に記録することを目標に発展してきた」過程を指摘していた。現象の決定的瞬間を静止させる写真の記録性はたしかにレンズというメカニズムの持つ特性にはちがいない。だが、その側面で写真の記録が過去の一現象であったとしても、具体的なイメージをとらえていて、見るものに再現させてくれることは事実であろう。

その意味で、作家の瞬時の表情をさまざまな角度からとらえた写真群は興味深いといえよう。八木の日常的な生活態度、土くれを造形化していく辻の表情豊かな手、須田の雑然としたアトリエでの制作ぶり、昨比インにオーバーラップさせた特徴的な下村の顔……。つねに作品だけで、作家の表情や生活ぶりが裏にかくされているだけに、これら写真をみていると、作家や、作家と作品との間にイメージをはせるたのしみを持たせてくれる。

*画像掲載:「作品「八木一夫 20分後」」
『京都新聞』1967年7月13日


「すばらしい被写体… “作家”の作品ほうふつ」

ひところ二科に所属して活躍した。京都の写真界で名の知られた作家だが、こんどテーマにした四人の作家は辻晋堂、須田剋太、八木一夫、下村良之介の面々で、被写体がすばらしい、という一語につきるほど制作中の作家をうまくとらえている。執ようについて回ってチャンスを狙った根気のいい仕事である。

構図といい、人間といい、特によく出ているのは辻晋堂、八木一夫の二氏であろう。八木氏の仕事の鬼そのもののすさまじい形相、無心にまげた泥だらけの手、など大うつしの効果で印象的。晋堂氏は顔が自作の寒山拾得の感じにそっくり、ひょうひょうとして、この人の作品をうつさないでホウフツとさせる。

雑然とした色彩の画室(須田氏)陶然として盃を傾ける(下村氏)四人の特異な風貌に、作者の心をとけこませて、おもしろくたのしい個展になった。

『夕刊京都』1967年7月14日

7月17日 - 23日
第4回紅選抜シリーズ

DMあり

ミニマル・アートなどという言葉が膾炙しはじめておりますが、この五人も色あいこそちがえ、芸術を最小限に抑えようとしています。だが和田、森嶋両君はいささか無邪気すぎるようでさきゆきが気がかりですし、野村氏は無意味になろうとすればする程、心ならずもにじみでる教養が文学の香をただよわせます。橋本夫人の作品は繰り返すことへの自覚とマンネリズムとの間で均衡を得たり失なったりでゆれ動き、版画と銘打つ森口氏の作品は、刷ることをさておいて、氏の趣味の世界に時としてはまり込みすぎます。いずれにせよ芸術を最少に限るなどとは、この如き舌足らずのミニマル批評と同様、空恐ろしくも至難の業であります。中村敬治


野村久之(アヅマギャラリー)
森嶋攻(ギャラリー16)
橋本典子(ギャラリー16)
和田義正(ギャラリー16)
森口宏一(ギャラリーココ)


「“ミニマル調”の作品 興味ある中村氏の選抜の弁」

同画廊の企画で、1-6月までの期間中に京都の各展でみた話題作を選んで出す選抜展で、こんどは本ランの美術批評でおなじみの同志社大学講師中村敬治氏があたった。作品は次の五人、彫刻の和田義正、森嶋政(ママ)、橋本典子、そして版画の森口宏一、それから一すじに足を追う野村久三(ママ)。中村氏の選抜の弁と感想がおもしろい。

ミニマル(最小限)アートといって極度に芸術性を押えた作品がはやるが、この五人も意識して押えている。しかし、和田と森嶋は無邪気すぎ、野村は無意味を装おうとすればするほど逆に文学の香おりがし、橋本は同じテーマをくり返すことの自覚とマンネリの間をさまよい均衡を得たり得なかったり、森口は趣味的にはまりこむおそれがある。むずかしいものだといった大意。そう思ってみると、さらに興味ぶかい。

『夕刊京都』1967年7月21日

7月24日 - 30日
第二回北美シリーズ1 杉本泰子・山本広展

DMあり

四週間にわたってくりひろげる「北美作家シリーズ展」の第一週である。北美は十六年前、福井県出身の若手前衛作家が現代美術への積極的な発言を目標に結成、運動体として毎年、東京、大阪、京都などを中心に活発な発表を続けているユニークなグループ。会員は現在、17名。京都でのシリーズ展は二度目で、第一週の今回は杉本泰子、山本広の二人が作品を並べている。

山本はベニヤ板のコラージュで、方形の形態を主題にした、単純明快な白一色の作品。従来の円や同心円の作品が構成的に未整理で、しかし水性塗料を使用した色彩にも混濁が残って全体を脆(ぜい)弱にしていたが、今回はかなり、作者の意図を明確にしているようだ。つまり、形態や色彩の処理に、主観的な個性の手わざを消去し、無機的なイメージの幻影にいどまれているのである。

単純な形態と樹脂塗料の色感に試みた取り組みは新たなイメージに迫る一つの方法であるにはちがいない。だが、部分に技術的な処理の未熟さを残して迫力が希薄。今後の課題というべきだろう。

一方、杉本は有機的なフォルムで、多分に心理的な画面たちである。そしてその形態は一見、性的なニュアンスを連想させ、独自の個性的な様相をのぞかせている。土俗的な色感と粘着力を持った形態が、未分化なのびやかな力感を表出させて効果的だ。ただ、難をいえば、形態の類型化が気になる。(杉)

*画像掲載:「山本広「作品」」
『京都新聞』1967年7月29日


土岡秀太郎(武生市)を理論的指導者に生まれた北美文化協会はすでに二十年の歴史を持ち、つぎつぎ生まれる前衛作家の新星は戦後の地方文化運動の一つの驚異になった。

昨年から京都にも進出、ことしは時岡泰子、山本広、五十嵐彰雄、大六輝夫、山本武夫、八田豊の六人のメンバーの順で8月20日まで京都・縄手四条上ル、画廊紅で第二回北美シリーズ展の幕を開いた。72歳の土岡ははるばる福井からかけつけ、会場で若いグループの作品に気をくばっている。グループはほとんどが20-30代。絵だけでくってゆけない地方にあって、高校や中学の先生をしながら黙々と絵をえがいてきた。都会の前衛作家たちに見られぬ“風土的”なものが、どっしり根を下ろした作品は個性的である。

時岡泰子の線を使ってうねうねとした海底の生物を思わす作品にも、それが印象的である。

モチーフが素朴なだけに、色彩的になるとかえって装飾性におぼれやすい。山本広はベニヤ板に白一色の構成的な作品を出品している。立体的な組合わせで陰影をねらっているが、これらの作品が類型的に流れやすいのにひきかえ試作的に発表した対角線をきりぬいて白、黒のコントラストを強く浮出した作品に好感がもてる。(亀田)

『毎日新聞』1967年7月29日

7月31日 - 8月6日
第3回北美シリーズ2 五十嵐彰雄個展

DMあり

影をねらった作品がふえている。照明の効果によって手で描かない光学的な作品ができあがる。いちいち絵具で表現しなくても、材料や手法はいくらでも自由な現代、前衛作家は美の表現を影に求めようとする。この作者は白く着色したビニールパイプを用いて表現した。白いベニヤ板に等差的に配列した円筒形のパイプはその長短でマチエール(画面)にリズミカルな起伏をつくる。

三方からスポットライトを浴びると、この整然と配列した円筒はいくつもの影を画面や壁面に投げかける。画面上の起伏と、円筒の長短によって、投影する影は重なり、かみあい、つながる。

意外にもそこにはおかれた絵と全く別の“第三の絵”がつくられている。

武生の高校の先生で29歳。北美の会員。

「北陸的といわれる地方色を拒否したい」といっていた。

*画像掲載:「五十嵐彰雄の作品」
『毎日新聞』1967年8月5日

8月7日 - 13日
第2回北美シリーズ3 大六輝夫・山本武夫展

DMあり

「まじめな精進ぶり 地方作家集団の地道な成果」

七月末から始まった北美シリーズの第三週目。北美は結成以来二十年余り、北陸の武生市を中心に、福井市及び福井県下の若い作家たちが、よき理解者であり、指導者である土岡秀一、秀太郎両氏のもとに研さんしているグループである。昨夏も同じころ、会員の個展シリーズとグループ展を開き、その地道な地方作家集団の仕事の成果を問うたが、ことしはその二回目になる。メンバーは大半が教職をもち、その一方一年一年たゆむことのないまじめな精進ぶりを見せる。

今週の大六輝夫は扉の包装ケースをモチーフに、彩色を加え、山本武夫は灰ザラ、卵切り、かつお節削りカンナ、などの台所用品を画面にはってのいずれもいうところの「レディ・メード」の作品。つまりすでにそこにあって他の用に立ったものを選んで、自分のものとして使った作品である。そのどちらにもまだまだ画面としてのまとまりや空間の処理に問題は残されているにしても、その試みはおもしろく、意欲は大いに買いたい。時と材料を与えて自由な仕事をつきすすませれば、もっとおもしろいものになるだろう、と思わせられた。

『夕刊京都』1967年8月11日

8月14日 - 20日
第二回北美シリーズ4 八田豊個展

DMあり

「きびしさ増す刻み “同心円”への執念…」

北美シリーズの一つ、例のハガネの先を鋭くしてコンパスの原理で中心を固定し、たん念にこまかい同心円をくり返して行く手法。

この手法を始めてから四年ばかりになるという。初めのころの合成の圧搾板から材料もこの近年はデコラやアルミ板となり、堅い材質にいどむハガネの先の鋭い円の線はますます刻みがきびしくなって行く。刻んで合成板やアルミ板の生地を出すものや、刻みの中に色を入れてふき上げたものや2-3の手法を使っているが、その同心円を描く執念は見ていても息苦しくなるほど。

正確に一本の失敗をゆるさぬ、やり直しのきかぬ線のひき方は、緊張感の連続というものであろう。画面は思わぬ組み合わせがたのしめる予期せぬ発展もあるが、ほとんどはきちんとした下絵づくりがあるよし。これからの様式でどう発展するか、これを追求したい、とは八田さんの声。=写真はその作品の一つ。

『夕刊京都』1967年8月18日


北美文化協会の中心会員で、ことしのシェル美術賞で二度目の佳作に入賞した。福井県武生市立第三中教諭。ことし三回目の個展。壁面に深い切り込みを入れた円型絵画だが、ことしはボード板から樹脂板に変えた。アルミ、真鍮(ちゅう)以上の堅さを削る作業は一層困難化しているが、思い通りの図形を削ったあと絵の具を入れているので、これまでの絵の具を塗ったあとで削った手法と比べ、切り込みの線が鋭く、みがき上げた技法がはっきり出ている。五百号の超大作をはじめ、三百、百号11点。

*画像掲載:「「きざまれた日」八田豊」
『読売新聞』1967年8月12日


八田豊は北美文化に所属、昨年はシェル美術賞展佳作に選ばれるなど、最近その活躍が注目されている作家である。京都での個展は昨年、一昨年に続いて三度目。

作品は例によって、ボード板に規則的な円を移動させながらくりかえしてきざみ込んだ方法での構成だ。画面の形態は一見、形式的な幾何学的図形、オプアート風な様相を呈しているが、おのずから異質であるのはいうまでもあるまい。

痛みを感じさせるような冷酷な線の軌跡、狂いのない手わざに支配された画一的な形態。それらはおそらく作者の心情とは無関係ではないのだ。そしてその心情は、日なた水のようなものでなく、人間の極限状態においてメカニックな現代の、側面に迫ろうとする無機的な行為を思わすのである。それはまた、個人的な情緒を越えた部分での行為であり、その幻影への断絶が鋭い風刺をのぞかせている。

従来の柔弱なボード板を使った作品が画面の迫力をも阻害していたが、今回のプラスチック・ボードの採用は効果的だ。

こうした取り組みは画面構成が機械的になればなるほど緊張の効果は増大する。徹底した手わざの追求を怠った構成は平板な結果を生むだけであろう。その意味ではより冷酷な構成が望まれるのである。

*画像掲載:「八田豊「作品」」
『京都新聞』1967年8月19日


八田豊は当館の昨年の「現代美術の動向」展にも選ばれた「北美文化協会」の主要メンバーである。彼は無数の円を画面に引っかいて、豊かな奥行きとイメージを表すが、最近はプラスチックやアルミニウムの板を使い、以前のデコラ板におけるのとは異って、材質の硬さによって、繊細な中にも鋭角的なイメージが巧みに定着され、そこには冷酷な現代における孤独感さえ表わされている。しかし反面、以前の作品がもっていたバイタリティーは乏しくなり、ひよわな感を受けるのも否めない。彼の制作上の制約からいって、今の仕事は一つの頂点にあるように思われる。最近は黒、緑、赤などの色板を使って変化をもたせているようだが、彼の今後の問題は他に求めるべきで、大胆な試みを期待したい。立体に手をのばすのも一つの道ではないだろうか。(U)

*画像掲載:「《蝕まれた黒》」
『京都国立近代美術館ニュース 視る4』 1967年9月号


「北美個展シリーズ」

京都の画廊・紅では、7月から「北美個展シリーズ」と称して福井県武生市に事務所をもつ北美文化協会の会員たちの個展が連続して開らかれた。北美とは、すでにある程度知られている美術グループではあるが、福井県在住、または出身の作家の集りである。評論家土岡秀太郎を中心にしてすでに二十年の歴史をもっており、現在さかんに発表している人たちは、いずれも前衛的な抽象作家である。とくにこんど、8月14日から20日にかけて個展を開催した八田豊(武生市在住)や、他に橿尾正次(福井県南条町在住)、矢野正治(京都在住)などの活躍は顕著である。八田豊の作品は、金属板またはデコラ板の表面に円形をいく重にも、針ようの物でひっかきながら描き、いちじるしく有機的な形態の中に、手仕事のみがもつ不思議な情感をたたみこんで、緊張感のみなぎるものがある。ただ、その緊張感は、最も新しい作品よりも半年ほど前の作品に。私としては強く感じるのである。そういえば、矢野正治の場合も初期の(といっても1,2年前であるが)作品には、形態の斬新さとともに、その裏には北国の海の風、磯の香というようなものがあって、その生活的な面白さがあったけれども、今度のシェルなどに出品している作品にはそれがなくなっているように思う。そのようなところから、地方にその本拠をおいて、いうなれば土着的精神性の、中央画壇からの自由さを確立しながら、前衛的抽象芸術を追求してきた北美の方向に、一つの転機がきているのではないかと思うのである。私は、やはり今までの方向をなんとか堅持すること、すなわち、創作を支える精神においては土着的な生活に基礎をおき、表現様式においては斬新な現代性を打ち出すことが、北美がしめす貴重なものだと思うのであるが。(田中比佐夫)

『三彩』(220)1967年10月号


「72歳の前衛指導者」

京都の紅画廊で北美個展シリーズが今年も開かれた。これは福井県武生にある北美文化協会のメンバーが、7月末から8月末にかけて、この紅画廊で次々と個展(二人展もある)を開くものだが、北美グループについては昨年9月の本誌「関西の前衛」欄に紹介されている通り、橿尾正次、八田豊、河合イサム(在米)など各種の賞を受けた有力な新鋭作家をもつ前衛グループ。その作品は少しも田舎臭くもなければ、中央の人気作家の亜流でもない。といって妙に福井の風土・民俗にこだわったものでもない。まともな姿勢で、力強い個性を育てている。

地方には例がないといえるこのグループを育てた指導者は土岡秀太郎さん。明治28年生まれだから72歳のご老人と聞けば、だれでも驚くだろう。この個展シリーズの期間中さっそうとスポーツシャツで、何日か会場で頑張っている土岡さんを見れば「ご老人」は失礼だけれど。土岡さんは武生在の旧家の次男。絵が好きだったが、先に兄さんが上野の美校を出て日本画家になってしまったので福井で父の仕事を手伝う役割となる。東京や京阪神を仕事で歩くうち、福井美術界の水準の低いのが辛抱できず、大正10年、北荘画会を設立、新美術の啓蒙振興に力を入れた。これは昭和12,3年頃まで続き、当時、福井県の画家のほとんどはここから育った。

福井に展覧会場らしいものがないので、昭和5年アルト会館を建てる。一階は店だが、二、三階は展覧会場(60坪)と研究室。当時北陸のどこにもこんな展覧会場はなかった。昭和7年の第二回独立展は東京、大阪のほか、このアルト会館の三カ所だけ開かれたし、昭和10年には「海外超現実主義作品展」も東京、名古屋、福井と開かれた。その他多くの展覧会、講習会、現代音楽の会と進歩的文化運動を続けた。未来派の美術運動など東京と同時期だったというから前衛美術も年期が入っている。

戦火で武生に戻ってからは、もう文化運動はやめるといっていたが、いつか若い画家が集まって来て、23年、北美創立。今も若い作家を叱咤激励して倦まないどころか、少し足踏みする作家は、ついて行けないくらいだ。「どうもいつも異端者扱いされるが、私は若い時は道具屋を歩いて古美術あさりをしたり、古九谷を調べたり(本誌40年4月号に「古九谷論争に終止符を」の論縞を掲載)したのに、歳とともに新しい方へ興味が移って来る。人と逆だから異端者扱いも無理もない」と、土岡さんは笑っていう。福井県文化賞も第一回から候補に上りながら敬遠され、十何回目になってくれたそうだ。「作家には自分の絵はわからぬ。苦労した絵には、出来如何に拘らず愛着があったりしますしね。だから私のような人間は必要」とおっしゃる。たしかに欲得で続く仕事ではない。

*画像掲載:「土岡秀太郎さんと八田豊の作品(紅画廊にて)」
『日本美術工芸(348)』1967年9月

8月21日 - 28日
木代喜司彫塑展

DMあり

「かれんな動物の表情 台座のつくりに荒らっぽさ」

教育大彫塑科を昭和38年に卒業、昨年4月グループにゅいで作品を発表したが、個展ははじめて。

ねずみともうさぎとも、あるいはうずらとも見えるかわいらしいかたちを、それも手で持ち上げられる大きさのを、みがいた感じに光沢を出させて冷たく重く置いている。しかし、びんの上にあちこちに向けて並べたところは、しゃべっているかんじでかわいい。ちょろちょろ動き出すかんじでは細いレール状の先端に置いたり、また、うずくませたりする。そのかたちを作者もまた「なんでもよいが弱い動物」にイメージを置いたという。

このかたちをこれからどう置き、どう群れさせ、どう動かすか、おもしろい展開が期待される。こんどの発表ではこの発想はおもしろい。しかし、乗せているレール状の材質とその処理の手ぎわは、まことにあらっぽくて気になる。またそれをのせるコンクリートブロックに対しても、神経がゆきとどいていないのは惜しい。

『夕刊京都』1967年8月25日


京都教育大を卒業後、グループ「にゆい」「G」などを結成して作品発表を続けてきた。数年前、京展で市長賞をうけた。個展ははじめてである。従来はプリミティーフな土偶を思わす作品を追求してきたが、今回は抽象的な形態に取り組んだ仕事ぶりである。そして、その造形表現はレモンのようなかたちに簡略化した生命体がゆがんだレールの上にポツンポツンと置かれたり、平列的に並べられていたり、といったぐあいだ。

作者の意図からすれば、そこに素ボクな生命の存在とかその増大し、広がるさまに力強さを表現しようとするのだろう。単純化された形態はあたかも人間の表情を連想させ、われわれが現実に失いつつある郷愁の世界へひき込むように見える。だが、難をいえば、それだけに強烈な力感となってはねかえってはこないのだ。造形の方法があまりにも人間臭い。

こうした構成は形態を無機化すれはするほど緊張の効果は増大する。つまり、より究極的に“もの”化することによって現在のメカニズムの圧倒的な力が逆に鋭い風刺を生むのはいうまでもない。手わざに徹底した追求を怠った構成は平板な寓意を生むだけであることを作者は確認する必要があるのではあるまいか。また、色彩にも消去される部分も多い。(杉)

『京都新聞』1967年8月27日


京教育大特修美術科卒の若手彫刻家。日展、京展などに出品していたが、現在、同窓生らと結成した“グループにゆい”“グルッペG”などを中心に作品発表している。個展は今回がはじめてで、樹脂を素材にした作品約十点を並べる。

『京都新聞』1967年8月19日

8月28日 - 9月3日
早川博唯個展

DMあり

「たのしい絵の鑑賞!美しく豊かな“童話の世界”」

「絵本の部屋」というサブ・タイトルがついている。会場壁面一ぱい、花畑や人の波や都会らしい町が白黒の線で描かれている。中央に卓、上にかけた白布にも黒のマジックで絵が描かれ、数脚のドンゴロス張りの折りたたみイスの上にもマジックで絵が描かれている。

卓上にある十数冊の絵本は作者が一冊1-2ヶ月かけて描き上げた絵本で、入場者にここにすわって絵本を見てもらおうという寸法。

京都学大構成科を経て、昭和39年専攻科を出た。すぐ大阪高島屋に入社して以来、同宣伝部でイラストレーターとして働いている。

壁面もイスも絵本も子どもの夢を描いたもの。色感もよく、形も鮮明でうつくしい。ただ詩や童話の世界を描きたい意欲に燃えているが、絵の表現方法をも含めて、自分のものを作り出して行くのは容易ならぬ仕事である。それらのものまで完全に近いものにするのはむずかしいことだろうが、とにかく、イラスト展を前に一回やった事があるだけで、この種のものの発表ははじめて。今の段階で厳密には詩や童話の文体、内容までにはふれずに置く。ただ、たのしく、ゆっくり落ちついて休ませてもらい、手づくりの絵本を見ながら休めるのはありがたく、絵の鑑賞とはこんなたのしい空気をさすのだろう。

*画像掲載:「早川博唯個展“絵本の部屋”」
『夕刊京都』1967年9月1日


三十九年京都教育大専攻科を修了、高島屋大阪支店宣伝広告課勤務。学生時代から詩とさし絵をかくのが好きで手製の詩集兼絵本十冊もある。初の個展で画廊全体を「絵本の部屋」にし、壁面一ぱいに家、ロケット、動物、クラゲ、空飛ぶ箱、雲などシュールリアリズム派絵画や科学空想小説のさし絵を思わせる絵画をかく。絵画で埋めたイスを置き、鑑賞者はそのイスにすわり、手製詩集、絵本をみつけ壁面に目を移すと、ダブルイメージで夢想界に飛ぶという趣向。

*画像掲載:「早川博唯個展の絵本」
『読売新聞』1967年8月29日


展覧会場がそっくり作品―この新機軸をうちだした作者の早川は大阪、高島屋の広告宣伝マン。画廊の壁面から天井にまで伸びた絵は、星が流れ、恐竜がキバをむく、太古の原野や、とてつもない大都会のビルの谷間にポツンと立つ人間などが黒白でシュールに描かれている。

床の中央におかれたテーブルとそのまわりの九脚のイスもまたこの絵の延長だ。そのテーブルの上には自作の絵本が数冊。作者のねらいとしては、観客はまずこの絵本をとりあげる。絵本の中にあらわれる空想的な世界は、ふと観客たちが自分をとりまく壁面や机、イスに目を向けたとたん、さらに強く大きなイメージとなって重なり合う。

いかにも広告マンらしい発想で現代の目まぐるしい環境の中にあって、どうすればそのイメージが人間の心の中に浸透させうるかという点で興味深い。(亀田)

*画像掲載:「紅画廊で早川氏の個展」
『毎日新聞』1967年9月2日

9月4日 - 10日
67青美会員 真山豊個展

DMあり

関西電力大阪北支店電気課勤務、京都青年美術作家集団、京都アンデパンダン展所属。十年来、ムシロをキャンバス代わりに、ムシロの網目模様を生かした作品をつくっているが、この個展には、従来の作風延長をみせた白、黒の油えのぐを塗り込んだ作品、ムシロをナイフで切りさいた作品、円形作品など120号6点、60号14点。

『読売新聞』1967年9月5日

9月11日 - 17日
人間生きる恐怖 辻勧之展

DMあり

伝統的な陶芸の分野でオブジェを開拓する前衛陶芸集団「走泥社」に所属している作家である。

発表の20点はいうまでもなく陶彫作品で、いずれも従来からの「恐怖」といったテーマに今回も執着して取り組んでいる。そしてそれらは土自体の持つ材質感に、素朴な感覚を定着させての構成である。

鮫釉(さめゆう)という独特の不気味な感触を持った人間の器官などを思わす形態はさしずめシーマンな信仰の偶像を思わせ、そこに生々しい恐怖を生み出している。しかも、人間の根源的な感情を土俗的な形態に表現して、複雑な現実にその回復を転化した意図もうかがえる。だが、その作品たちが、釉薬の皮膚感的な効果に反して、いちがいに感動にまで盛り上げる客観性に欠けるのはどうしたわけだろう。形態のあまりにも直接話法的な観念的な整いに起因しているのではあるまいか。いいかえれば、様式の感性を性急に求めようとする態度が心理的な深みにおいて軽薄なものにしているともいえる。やはり工芸的な興趣がまだ十分に断ち切れていないのであろう。

材質の自由さと技術に感溺した多い組みは、せっかくの知性も、発想を作品に定着させる努力さえも、結果において徒労に終わらせることを認識しなければならないのではないだろうか。(杉)

『京都新聞』1967年9月16日

9月18日 - 24日
小門光男木彫展

DMあり

『夕刊京都』

11月9月25日 - 10月1日29日
松本文子個展

DMあり

昨春京都教育大専攻科卒、現在同大学聴講生。日展(日本画部)三回、京展四回入選(うちことし市長賞受賞、昨年近畿放送賞)したが、個展ははじめて。作品は“花と少女”。少女趣味的とみられやすいが、作者は忘れてはならぬよごれを知らない世界だと大学入学いらい追求してきた。石こうをニカワでとき、ボンドで固めた白色地に花、少女を写実風にした作品。少女時代を脱皮、大人の世界に突入し“枯淡”“非情”が加わったという評判。120号、100号大8点。

『読売新聞』1967年9月26日


女性の小説を評して、こういった作家がある。「女性の作品はどこか直接的である。なまである」と。そして、どんなに凝った表現をしたつもりでも、生理とか体質の地肌(はだ)をまるで童話の“裸の王様”のようにのぞかせているというのである。それがまた、作品的な評価を別にした、男性にない女性の特性でもあり、利点でもあるのだろう。会場をうめた作品たちにふと、こんな印象を感じた。

作者は昨年、京教育大特美専攻科を卒業、数年前から日展、京展に出品を続けている若手。京展では昨年とことしに受賞している。個展ははじめて。発表の作品は石こうを使った画面で少女と花を主題にした八点である。いずれも、現代の切迫した合理性のなかで失われていく小さなものに対する感情を質のよい純朴なうたいかけで描いている。

「風」の寄りかかってくるようなハダざわり、「L」の思わせぶりな感傷、青々しいさわやかさの「少女は」-それぞれに無理を感じさせない範ちゅうでの取り組みだ。が、その側面には理知にしいられた発想の希薄さからだろうか、現実感を乏しくしていることはいなめない。こうしたなかで「花の名を教えて」には湿っぽい叙情が幾分捨□されて新鮮な感触を思わせる。この感触をどう今後に定着させていくか、新たな道程の一つの課題になりそうである。

紙面不詳 1967年9月30日

10月2日 - 8日
三尾公三個展

DMあり

三尾公三は四年前に公募団体の所属を離れて以来、個展発表を中心に着実な歩みを続けている京都の作家である。昨年はアメリカ・シカゴのビンセント・プライス画廊の企画展に選ばれた。今回が四度目の個展で、二年ぶりの発表である。

出品作品は「WORK IN BLUE」と「PERSPECTIVE」と名づけた連作12点。どれもが従来のセメントを素材にした画面から一転、やわらかいコバルト・ブルーで描いている。そして「WORK IN BLUE」の静と動がたくみに入り込んだ筆触や「PERSPECTIVE」のイメージの変態……などには一見、ポップ・アート風な取り組みを思わせる。だが、それが単に視覚的な印象だけで流行の様式としてあげつらうわけにいかないのはいうまでもない。絵画の二次元的な表現にとどまらず、意義の上で試みられた立体的な空間構成、さらに拡大された女性の表情が特異な幻想をさそう視覚効果は、おのずから異質であろう。それらはあくまで実体的な現実の情景とは相違して、新たなイメージの空間を現出させようとするのである。

美しい顔と波紋のなんでもないような相ぼうがひえびえとした感触を思わす「PER……-W」。スピードを持って走るように流れる形態の「……BLUE-D」とくに作者の執着した姿勢が生かされ、新たな道程が示唆されているように思われる。ただ、バックの部分に残されたキズは消去しなければなるまい。全体の構成まで幻滅させることになりかねないのだ。(杉)

『京都新聞』1967年10月7日


「明快、なめらかな画面 現代のきびしさと対決」

五象会のメンバーでもあったが、氏の退会希望とともに全会発展的解消をして、以来どこへも所属せず、制作にはげんでいる。

毎年やってきたのを去年は休んだので、こんどは二年ぶりの個展。以前のダークグレーのあらっぽい調子からすっかりすっきりとなり、なめらかな処理の上にブルーひと色の濃淡で統一したので、明快な画面を見せている。

下に垂れてふくらんだ円形軌跡のくり返しと、視覚による遠近法的な線にきびしい詩情をかくし、現代生活のきびしさに対決しているその発想はかなり成功している。

綿密にされた地塗りは、ここではかなり大切な役割りを果たし、一部のあらい作品の他は、職人的なたん念なくり返しで効果をあげている。同じくフリーハンドで、神経を集中した線もまた単純な中に新しい美をとらえる。五ミリの透明なプラスチックを画面からやや離してつけ、油絵の具で描いた線を立体的に組み合わせる実験的な手法はこれからのものであろう。

素材の目新しさの上に安易にのるのを避けたい。

*画像掲載:「三尾公三 PERSPECTIVE IN BLUE “W”」
『夕刊京都』1967年10月6日


水色を基調色にした二人の少女の像がカンバスのなかでシンメトリックに描かれている。一人はリアルな実像、相対して影のような虚像。作者は“水面”を媒介して、この「虚」と「実」をストレートに表現している。

『毎日新聞』1967年10月7日


元光風会会員、加茂川中教諭。過去五年間続けたセメントを素材にした抽象作はひとまず完成、こんどは元の油絵にもどった。つややかな白色画面にコバルトブルー系統の絵の具で曲線フォルムを美しく躍動させた作品。情感と当たりのやわらかな詩情をただよわせるのはこの人の持ち味。仕上げのあざやかさ、画面にランプ、人の顔を投影させるなど象徴的一面ものぞかせる。150-80号12点と小品。

『読売新聞』1967年10月3日


……なお印象に残った個展などとしては、北美のメンバーで今年のシェル二席にえらばれた山本圭吾の個展、おなじ画廊の〈三尾公三個展〉……などがあった。(田中比佐夫)

『三彩』(223)1967年12月号

10月9日 - 15日
山本圭吾個展

DMあり

光、運動、予期しない新しい空間―人間の目の幻覚をねらった視覚芸術(オップアート)は、いまや全世界を風びしているが、これを運動学的に一歩進めたのがキネティックアート。昨年ごろから日本でもこうした傾向の仕事がぼつぼつあらわれてきた。

作者はこの仕事で今年度シェル美術賞二位に入賞しているが、今回は残像の効果をねらった新しい作品を発表した。この作品は回転板にはりつけた色テープを電動式で回し、画面の凸レンズにうつる屈折した映像から、動くパターン(模様)の面白さを見せるが、今回は回転板の色テープの間隔に考案を加えて、二種類の画面をつくった。第一の画面はコバン稿の凸レンズにうつる市松模様で、それが終わると波状形の第二の画面が出現、それがやすみなくくりかえされる。

平面的絵画とカンバスでは出せぬ工学材料の試み―画面を見ているとネコの目のように変わる現代美術のアイロニーを感じさせる。(亀田)

『毎日新聞』1967年10月14日


山本圭吾は、福井の「北美展」に出品しているかなり画歴のふるい作家であるが、これまであまり目立たなかった。しかし、昨年、鏡、ガラス、モーターなどをつかった可動作品を発表してから一部で注目され、ことしのシェル美術賞展で二席を獲得した。今回の個展は、シェル賞以後の一連の作品を展示している。いずれも屈折した断面をもつ特殊なガラスのうしろに、色板を回転せしめ、さまざまに流動し、反射する多彩な色の効果をねらっている。

ガラス面をとおして変化する色彩の交錯は、動きが倍加されて、複雑な視覚的印象をもたらしているが、ただこのような単純な構成の仕事は、仕掛けが見えすいていて効果は表面的である。だからつねにより新しい実験と工夫が要求されるわけである。今後の方向としては、壁面に固定する絵画風な作風から脱して、もっと空間的な拡大化をめざすべきであろうとおもわれる。(I)

*画像掲載:《作品》
京都国立近代美術館ニュース 視る6 1967年11月号


……なお印象に残った個展などとしては、北美のメンバーで今年のシェル二席にえらばれた山本圭吾の個展、おなじ画廊の〈三尾公三個展〉……などがあった。(田中比佐夫)

『三彩』(223)1967年12月号

10月16日 - 22日
長曾我部友子個展

DMあり

10月23日 - 29日
モダンアート協友 会友 入江祥三郎個展

DMあり

10月30日 - 11月5日
石原薫展

DMあり

新制作協友、京展委嘱。最近東京のフーテン族を現地調査、同志社大学生会館でゴーゴーとハプニングの発表会をするなど精力的な作家活動をしている。二年前からの個展で追及しているエロチシズムの総決算を目ざし、画廊全空間を一つの作品に見立てて壁面には油絵、床上や天井には人体模型とエロチシズムの喜び、苦悩、笑い、悲しみそして死と生などあらゆる場面を展開させる。平面構成から立体構成へ、静から動への作風は精神活動が豊かで多彩化してきたあらわれともいえる。

『読売新聞』1967年10月31日


……おなじく画廊紅で開かれた〈石原薫展〉はセックスにしぼられた造形作品を画廊全体にならべ立てた作品展であって、アンダーグランドシアターと類似の精神的基盤に立ったものと思われるものであった。(田中比佐夫)

*画像掲載:「石原薫個展会場〈画廊紅〉」
『三彩』(224)1968年1月号

11月6日 - 12日
川端紘一個展

DMあり

市美大洋画科専攻科在学、独立美術所属。ことしは紅選抜展、国際青年美術家展に選ばれ、シェル美術賞展で佳作にはいった。U字やV字型のパターンを多様に組み合わせた50号大(1.16メートル×0.91メートル)や1メートル四方の作品を8点ずつ無造作に構成して一つの作品とする。

紙面不詳 日時不詳


幾何学的な線で対象をとらえる“冷たい抽象画”は現代美術ではハードエッジの名で新しい流行を生んだ。

白い画面の上の黒の線を基調にした川端の作品は、こうした傾向的なハードエッジにとどまらず、線の配列やパターン(文様)の組合わせ、さらに今回から赤、黄、ブルーの色彩が加わることによって画面に新鮮味を加えてきた。

規則的、不規則的に配列した黒の線によって生じる“白の空間”は鋭い三角形や四角形となって、画面に一つの運動感と音楽的なリズムを与えている。こうした傾向の絵はとかく“非情な装飾性”におぼれ、そっけないものが多いが、川端の場合これを“音楽的なリズム感”でむしろ叙情的な印象さえ与えている。

京都美大専攻科に在学、毎日選抜美術、シェル美術賞などに選ばれた新進。(亀田)

『毎日新聞』1967年11月11日


川端紘一は独立美術に作品を発表している新人で、今回の個展は彼のこれまでの仕事の延長といえるものであったが、パターンともいうべき、アルファベットを切り刻んだようなフォルムを、黒を主に黄や黄緑などの控え目な色、一、二色で表し、黒の力強いリズムを他の色が支え抑揚のある明快な響きを示すものと、そうしたフォルムを押えて色面を大きくし、より低く静かな調子をもつものとが見られたが、後者は今後の方向を示すものとして、最近安定した仕事のもつ、ややオプティミスティックなものを示していた作者の次の仕事に期待させるものであった。(U)

*画像掲載:《In C Major》
『京都国立近代美術館ニュース 視る7』 1967年12月号


……画廊紅で開かれた〈川端紘一個展〉もアルファベットの大きな文字を切断してならべかえたものを一単位として、それを連続した。なかには天井にとどく大作もふくまれていた。このような絵は、見せられたときはいかにも立派な大作に感じるのだが、時がたてばその印象がひどくうすれてしまうのである。それはやはり造形性に無理があるのであろう。そのうえたくさんの画面をならべることから大きな画面をつくるという、あまりに逆説のないやり方にも、創造過程における屈折が感じることのできない弱点があるのかもしれない。(田中比佐夫)

*画像掲載:「無伴奏 川端紘一〈個展 画廊紅〉
『三彩』(224)1968年1月号

11月13日 - 19日
織による作品 中村彦之個展

DMあり

「くふうこらし意欲的 来年ノルウェーへ留学」

西陣生まれ、市立美大染織科を卒業後母校の同科に助手として勤務している。

個展をはじめて、愛知県尾張一ノ宮で求めた上質の太毛糸を染めて、織ったタピスリー十数点、染めは藍(アイ)、すおう、しぶき、ゲレップなどの植物性染料を使い、その日光に対して弱く、退色しやすいのを、ドイツの鉱物性染料であるシバラン染料を併用して強化している。糸をわって、わざとこの染料を使い分け、立体的な効果をねらい、さらに織るにあたっては、平織りやつずれ織り、さてはタテ糸をもめんにしたり、配色の端(はし)の部分をふさのように出して、これまた立体的に見せるくふうをこらすなど意欲的だ。むっくりしたあたたかさをねらって成功している。織り目を生かした構図は、清潔で安定感もあり、ことにアイを使った「ソラヲミル」の二点は造型的にもおもしろい。むらさき、あかなどの色も深みがあって壁面にあたたかさを与えよう。

作者は来年を期してノルウェーの王立テキシタル・ティチャーズ・トレーニングセンターという研究機関に留学を希望しているという。ここでは糸を紡(つむ)ぐところから手がけるという。大いに期待したい。

『夕刊京都』1967年11月17日


市美大助手、日展工芸部二回入選、ことしは不出品の染織作家。初の個展として自分と社会との対立、自己内面との戦いなどをテーマに、幾何学模様を主体にしたウールと麻による抽象織物作品14点。

紙面不詳、日時不詳

11月20日 - 26日
市村実個展

DMあり

現代美術の一つのあり方として、二次元的な平面上の絵画とか量塊に実在をこめた彫刻などといった従来の概念的な定義にとどまらない、端的にいえばそれらのジャンルではおし測れない、あるいは拡大された次元での空間構成をあげることができる。この作家が志向する世界もまた、こうした新たな範ちゅうでとらえられるものであろう。

京美大西洋画科専攻科生で、今回が二度目の個展である。昨年の初個展では白一色の画面にこれまた白一色の幾何学的な形態のベニヤ板を張った平面上での仕事であった。その領域で見るかぎりではこんどは意志的な転換を示しているといえよう。

作品は「満月」「二日午前九時」「水曜日」など。ずい分に叙情をふくんだ題名だ。だが、プラスチック塗料、ベニヤ板を材質に大きな起伏のヒダを持った表面と明快な色に塗り分けられた鋭い線の構成は縁が遠い。どちらかといえば機械的に加工された作品たちである。そして、そのとがった起伏と線のからみ合いには材質とか計量的な重さを感じさせない、実に軽い透明度のある視覚的な空間を開陳している。「八月」の色感「祭日」の色と構成にそのイメージの交感が深い。現代の立ち向かい方を示したこの作者の飛躍を十分に感じさせる。

『京都新聞』1967年11月25日


「多彩でしかも清潔 あざやかに立体感を出す」

市立美大在学中。たとえば、美しいケント紙をきれいに折ったような造型を、ベニヤの板で張ってつくっている。その屈折の立体感、光のあたる部分と影のある部分は対照的でうつくしい。さらにそれをもう一つ強調する線を克明にかいて、自由に心にうかんだ歌を歌い上げている。

「金曜日」「祭りの日」など一連のテーマのとり方もその現われの一つであろう。以前の作品はやはりボール紙を積んで行く手法の立体的な線で、白と緑などを使ったさわやかなものであったが、こんどの作品では赤やグリーンやブルーや銀など多彩さを加えたもののその清潔なさわやかさは変わっていない。それは立体の生地をよくみがき、よく詰めた下地のととのえ方、その上に布を張り、きっちりとテープをはって塗って行く白い線の出し方など、ていねいなきれいな仕事なので、そうあざやかに強められたのであろう。一点の布ばりの他は光沢のある絵の具を使ってわざとむっくりした味をさけているが、それがかえって、新鮮なものを訴えているのがおもしろい。=しゃしんはその作品の一つ。

『夕刊京都』1967年11月24日


作者は京都美大専攻科に在学中の新人で、個展は一昨年に続いて二度目。作品はヒダ状に大きく起伏する画面が、朱、緑、青などの鮮やかな色で、均一に塗り分けられており、画面の固い起伏と、色面の明快なパターンとが鋭角的な諧調を示して見るものに迫る。この作家のヒダのもつ空間への興味は平面の作品に於ても見られたし、昨年春の行動新人展にはアルミによるヒダの作品を発表してもいたが、今回の個展でかなり明確に、自己を表す場を見出しえたことを示している。しかしこの現代的な抒情性を底にひめる無機的な構成の示す密度は、ヒダの空間性とは別のものにあるように思う。それとは別の所での開花を期待したいのである。(U)

*画像掲載:《2月の午前9時》
『京都国立近代美術館ニュース 視る8』 1968年1月号


……その他、正倉院の壁面のような三角がたのでこぼこの表面を屈折する色彩でぬりわけた作品を発表した〈市村実個展〉にも前述したような問題点が少々ふくまれてはいるが、すっきりしているということにおいてはなかなかに現代的な作品展であった。(田中比佐夫)

『三彩』(224)1968年1月号

11月27日 - 12月3日
第2回 岡田義之輔個展

DMあり

「底に現代との対決」

岡山生まれ、京都市立美術専門学校洋画科卒、現在岡山県立工業高校デザイン科で教えている。

作品はうす塗りのこまかな神経をとどかせた画面で、アルミはくをはった部分が、その感情の起伏を示すアクセントになっている。

作品の名は「赤のかたち」「溶暗」「西の炎」「環」などで現代に対決する心象の表現が冷静な描法の底に熱っぽくひそんでいる。

『夕刊京都』1967年12月1日


かつて独立美術に出品したり、また新世紀協に所属して会員となったがこのほど脱会した。京美専卒で、現在県立岡山工業高校教諭の作家でもある。今回の個展は先週、岡山市で開いた三度目の個展に続き、そのまま会場を移しての発表だが、京都で作品を並べたのはこれがはじめて。

出品は先の個展作品を含めて十点。いずれもコンプレッサーで吹きつけた透明度のある青や赤の大きな色面からなる一種の抽象表現主義ともいえる作品たちである。つまり、色彩や形態を純粋に作者の観念によって再構成し、自己の内面世界を画面に象徴化して表現しようとするのである。

これまで長い間、具象に取り組んできた、この作家の表現世界からすれば、一見、ラジカルな変革を思わせないでもない。そして、分厚く、深みのある空間にも、現実の不安・孤独感がにじんで、作者の存在のうたい上げをうかがうことができる。しかし、それが漫然と露呈しているだけで、はげしい息吹きとか、緊張の状態をともなって追ってこないのはどうしてだろう。新たな現実を生み開く姿勢、いいかえればわれわれの生きている環境を開拓し、そこにたくす必然が希薄なのではあるまいか。自己のより冷徹な取り組みに見出した構成が必要だろう。

『京都新聞』1967年12月2日


岡山県吉備郡高松町吉備津生まれ、昭和26年市美専(現市美大)洋画科卒。兵庫県伊丹市、岡山県総社市の中学校勤務ののち、現在県立岡山工業高校デザイン科教諭。独立美術出品ののち、新世紀会員となったが、昨年脱退した。無所属となり、具象作風から一変、抽象画へと転向をみせた。昨年、ことしと岡山市内の画廊で作品を発表し、こんどは三回目、京都ではじめて。200号1展、100号5点、80-50号5点。

『読売新聞』1967年11月28日


……岡田は染めの世界を思わすような非常に美しい色調を表わして時空間的なひろがり、あるいは宇宙空間を思わす不思議な作品を出品していたが、構成と、ところどころに見せていた技術的な欠点を克服すると面白いものにはなるのではなかろうか。(田中比佐夫)

『三彩』(225)1968年2月号

12月4日 - 10日
三宅多喜男彫刻個展

DMあり

かつて二紀会に所属した。現在は京都美大彫刻科講師。一昨年、昨年に続いて三度目の個展である。前回は木彫を中心にした抽象作品だったが、今回は先に東京の大学から学園内の作品制作を依頼されたこともあって、そのモニュマンのためエスキース(習作)を並べた。

発表は四点だけ。それぞれに一見、具象的な形態が根底にあって、そこから変ぼうした形態を思わせる。しかし鋭く空間を切ったナイーブな線と計量的な重さを感じさせないのびやかな空間構成は、もはや具体的な形態の視覚を飛び越えて高い造形性を示しているといえる。つまりそれらは純粋に視覚的な空間がおのずから構築されて、新たなモニュマンを開いているのだ。その印象は会場前部、中央のエスキースに、濃厚にうかがうことができる。

これまでの素材の量塊とか実在感にもとづく木彫などの作品から見れば、今回の作品は大きな変革をとげているが、現代の環境に対する、この作家の新しい立ち向かい方がここに示されているともいえよう。傾向的な形式にとどまらない姿勢での、アプローチに新たな可能性を思わせる作品たちである。(杉)

『京都新聞』1967年12月9日


「プレーンな近代感覚」

以前二紀会の同人であったがのち退会して、現代は無所属でやっている。個展は四回。

こんどはちょうど横浜市内の、市立大学の校庭にモニュマンを依頼されたところから「モニュマンのためのエスキース」を四点出品した。モニュマンには時代を呼吸し、時代の目を持っている若人のために、というので別に具体的な注文はない。

作品はどれも石こうでプレーンな近代感にあふれた象徴的なもの。写真の作品は先ごろ志賀高原に行ったときの山の印象をとらえ、そのイメージをもとに彫り上げたものという。=写真はその作品

『夕刊京都』1967年12月8日


……三宅は記念碑的な大作の習作といったようなものを発表していたが、その作品一つ一つが大きく完成する時の姿を心に描くことはやはり私には無理であった。(田中比佐夫)

『三彩』(225)1968年2月号

12月11日 - 17日
三谷幸雄個展

DMあり

市美大専攻科二年生、同級には川端紘一、市村実らさいきん個展を開いた人たちが多い。人間の不安感、緊張感を表現するねらい。

*画像掲載:「三谷幸雄「エリエリサバクダニ」」
紙面不詳、日時不詳


‥…格子状に配列したストライプ(線)で二つのフォルムをつくった。一つはモノクロームな幾何学形状でクールな無機的な世界を出し、もう一つはこれと対照的に曲がりくねった形状で、はなやかな色彩の有機的な世界を表現している。フォルムと色感を全然相反するものにして、作者は二つの世界のかもし出す違和感から画面の緊張をねらっている。

最近、こうした仕事が類型化しているのは気がかりだが、新鮮味がある。(亀田)

『毎日新聞』1937年12月16日

12月21日 - 24日
前衛作家によるチャリティショウ

DMあり

師走の候となりました
さて今年も関西在住の前衛的な画家、彫刻家、工芸家の人たちが恵まれぬ人々の為に少しでもお役にたてばと、第五回「前衛作家によるチャリティショウ」を左記の様に開くこととなりました
進歩的な作家多数が持寄った作品を陳列し会場で入札していただこうというわけです
昨年の売上金は、大照学園に印刷機を寄贈いたしました
どうか歳末チャリティーの趣旨にご賛同下さいましてご協力をお願い致します
会期 12月21日より24日(午前11時―午後7時)(但し最終日は午後3時まで)
会場 画廊「紅」 京都・縄手四条上ル
昭和42年12月
「前衛作家によるチャリティショウ」発起人
依田義賢、奈良本辰也、上野照夫


「施設の子へ贈り物を… 前衛美術家が「慈善展」

恵まれないこどもたちに贈り物を―と、関西在住の前衛美術家の作品を集めて開く「チャリティ・ショウ」が、ことしも21日から東山区縄手通四条上ル、紅画廊ではじまった。

作家の依田義賢氏、奈良本辰也立命館大教授、上野照夫京大教授が発起人になって毎年くりひろげている歳末行事で、関西在住の前衛美術家が出品した作品を希望者の入札で買ってもらい、その純益金を恵まれないこどもたちの施設に贈るという慈善展。一昨年は府立桃山学園に陶器の電気炉を、また昨年は大照学園に印刷機を届けて喜ばれた。

歳末を飾るおなじみの恒例行事とあってことしは約50人の著名作家が出品した。いずれもこのチャリティーのために数か月前からつくり上げた作品ぞろいで、なかには絵画あり、彫刻あり、陶器ありのバラエティーに富んだ内容。会期は24日まで。入札の開票は同日午後の予定。

*画像掲載:「バラエティーに富んだ作品を見るファンたち」
『京都新聞』1967年12月22日

1968
1月29日 - 2月4日
無閑人展

DMあり

(美術評論家・文人余技)

=美学者、評論家、文化人、美術記者などによる美術工芸“余技展”-。絵画、彫刻、工芸など。

蓮実重康、絹谷与郎、土居次義、亀田正雄、竹内康、対馬忠、中川脩造、上野照夫、内山武夫、黒田英三郎、前久夫、国分綾子、下店静市、重達夫、鈴木□

2月5日 - 11日
大串佐知子作品展

DMあり

市美大西洋画科講師、小柄なタイプの人と思われない大たんなフォルムの構成で、人間の宇宙観を抽象的にまとめあげた内容。油絵百号5点、60号4点、リトグラフ(石版画)20号大3点。

紙面不詳、日時不詳


「薄塗りの明澄な画面 フリーな立ち場つらぬく」

油絵9点、石版画3点、白を地に大きくとり、赤や青や黄、紫など多彩な色を使って描く。「精神的な角度から見た人間の像をイメージとしてとり出し、それをはっきり出したいとしている」のだそうだ。「厚みを重ねずに、深みのある透明なかんじ」で描きたいといっている通り、薄塗りで、にごらず明澄な画面である。

女らしく神経のとどいた筆であるが、この人、アンデパンダンに先年2-3回出したことがあるというきりで、今はどこにも所属せず「公募展に出すということはいろいろな点で仕事がやりにくい、もっとフリーな立ち場で仕事をしたい」ときっぱり言いきるあたり、シンがしっかりしている。石版画3点もまとまっておもしろい作品であるが、やはり仕事の上からはかわかしたり、道具がいったりして、油絵の方が自由な制作意欲をみたすらしく、これからの仕事は油絵が中心になろうという。

市美大専攻科昭和34年卒、すぐ同校研究室にはいって8年、現在美大洋画科講師、個展は大阪で2回、京都では一昨年紅画廊以来2回目。

*画像掲載:「大串佐知子作品展の「作品No2」」
『夕刊京都』1968年2月9日


大串佐知子は京都市立美大を卒業して、現在同校講師をつとめる新進で、作風は具象を追求しながら形象を抽象して画面を構成する方向を示している。前回の個展と比較してみるならかつては具象的な形姿がかなり明確にうかがえ、いわば抽象的志向とのバランスが主題となっている感があった。それだけ一種の情趣的な漂いがあったともいえる。今回は、画面に強さを求めて情趣的なものを消去しようとしているようだ。このような構成の重視はいわゆる純粋な抽象の土壌から出発した傾向と接近することとなる。問題はこの努力が彼女の場合類型化に結びついてはいないかという点である。そのことは本人も自覚しているとみえて具象画的な部分を暗示的に入れようとしたりしている作品もある。しかし、このような試みは成功しているとはいえないようだ。(S)

*画像掲載:《作品NO.5》
『京都国立近代美術館ニュース 視る10』 1968年3月号


……大串は大胆な色面を組み合わせて効果をねらっていたが、部分的な妥協からどうも成功したとは言えないように思う。……が最近の傾向ではこういう作品に対しては甘いという言葉で片付けることが普通らしい。しかし、あまい絵と作品のあまさはちがう筈である。あまい絵を描く素質をもっている人は大胆に、あまい絵を描くべきだ。観念的にあまい絵をいけないと思って自分をいつわっている人も多い。(田中比佐夫)

『三彩』(228)1968年4月号

2月12日 - 18日
坂井清個展

DMあり

市民美術アトリエ(保地謹哉行動美術会員指導)に学んだ人たちがたまたま会期をあわせて町の画廊で個展を開いている。

坂井清(紅画廊)、橋本敏子(ギャラリー16)、太田康平(アヅマギャラリー)、中院紀子(木屋町画廊)がそれ。太田のほかはいずれも昨年に続いての個展である。

坂井と中院はアンフォルメル風の画面で、塗り込めた形態に情感をうたい、太田は「欲望」を主題にブリキ板で有機的な形態を切り抜き、生々しい色彩で構成している。「感度計」と題したテーマで図式的な作品は橋本。昨年のアンデパンダン、次元展に継続した仕事ぶりで、壁面の拘泥から立体化の方向を見せている。しかし、それぞれに共通して見えるのはその取り組みにおいてオートマティズムに流れ、独語の訴えが希薄なのはいなめない。

たとえば坂井は樹脂塗料の処理が多分に寓(ぐう)意的で、おどろおどろした画面の割りには共感に乏しい。中院も同様で、体質的な情感が露呈されているにすぎない。太田は有機的なフォルムに必然をかき、ブリキという素材の採用にも問題が残る。ただ、橋本は従来のヒモをあつかった連作だが、これまでの“生”な思考から新たな創作的な進歩が見える。現象的なグラフに実体のない帯の形態をとけ込ませた画面は作家の位置と現実的な対象に対しての立ち向かい方がうかがえるようである。(杉)

『京都新聞』1968年2月17日

2月19日 - 25日
本田悦子個展

DMあり

……本田は童話的な世界をのびやかに描いていた。彼らはいずれも自分の歌をうたおうとしている。が最近の傾向ではこういう作品に対しては甘いという言葉で片付けることが普通らしい。しかし、あまい絵と作品のあまさはちがう筈である。あまい絵を描く素質をもっている人は大胆に、あまい絵を描くべきだ。観念的にあまい絵をいけないと思って自分をいつわっている人も多い。(田中比佐夫)

『三彩』(228)1968年4月号

2月26日 - 3月3日
しがらきクラフト展

DMあり

信楽クラフトマン協会

今井康人、神山清子、神山易久、加藤丈平、小島太郎、小西立士、前川行雄、松尾賢策、中井龍三、西尾泰明、小川顕三、奥田陶器夫、大原薫、大谷司朗、笹山忠保、鈴木茂至、高井弘、高橋政男、田村広、谷裕治、山本雄二、山田直美


「真価を問う若もの 信楽の陶芸グループ」

陶産地信楽で現代のやきものをつくっている若い陶芸グループ「信楽クラフトマン協会」(会長笹山忠夫氏)の会員たちが、27日から京都市東山区縄手通四条上ルの紅画廊で作品展を開いた。

やきもので有名な信楽なのに戦後は陶芸もすっかり下火になったが町や信楽窯業試験場が若い作家の養成に力を入れた。京都の陶芸家、熊倉順吉氏らの指導で、このグループが発足したのは三年前。ことしはじめて京都で、展覧会を開くことにしたもので、25人の会員が一人3点ずつ出品している。

前衛的なモダンアートのオブジェ、酒器、食器、壁面装飾などの力作ぞろい。

はなやかな京焼には見られぬ素朴な土くささ、信楽焼のトレードマークの美しい緑色の灰かぶりなど、信楽に新風を吹込んだような作品が陶器ファンを喜ばせた。

*画像掲載:「フタ開けした作品展」
『毎日新聞』1968年2月28日

3月4日 - 10日
小谷謙個展

DMあり

行動美術会員、金属を材料とした彫塑昆虫の碑の連作11点発表している。テントウ虫が発想となっているそうだが、別にむしの生活を通して生理的あるいは心理的なものを追求しているのではなさそう。丸くて触覚をもつ虫の形態にまず造形意欲を感じる。そしてその球体に切り込んだカットに全然別な形を発見する。しかもこの虫態は、円筒や、平板と組み合わされることによって、より興味あるフォルムを創り出す。材質のブロンズと真鍮板のコントラストが形体の対照をより的確にし、しかも効果的にする。じっと見ていると道化のようなユーモラスな感じもする。しかし単に表面的なユーモラスでなく、そこにカットされてうごめく一つの生物をみる。この作家は以前は、深刻ぶった作品が多かったが、このような境地へ抜けてきたことは大きい進歩である。類型的でなく創作性が強いのに今後の期待がもたれる。(竜)

*画像掲載:「小谷謙「昆虫碑No.2」」
『京都新聞』1968年3月9日


滋賀大学芸学部助教授、行動美術会員。青銅彫刻家としてオブジェ作品に取り組む異色のひとり。ことしは「昆虫碑」をテーマに昆虫を思わせる有機体、ユーモラスな造形を組み合わせた作品群。昨年夏の行動展以来、追求している仕事で、立体構成もこれまで以上に整理され、みがきもかかっている。1メートル大作品11点。

『読売新聞』1968年3月5日


金属による昆虫のイメージを表した作品で、触覚をもつ球を基本にし、それらを大きく明快にえぐったり、組み合わせたり、さらには円筒や平板と組み合せて変化をみせている。それらは虫の形態のもつ奇怪さではなく明るくユーモラスで一種の洒脱をさえ感じさせる。これは以前の彼の作品に見られた、やや繁雑なフォルムやその底にあった明るさが整理されて表れてきたといえる。なかで真鍮板に「昆虫」が埋め込まれた作品に、無機化を推し進めることによって一層の発展を期待した。(U)

*画像掲載:《V検虫碑》
『京都国立近代美術館ニュース 視る11』 1968年4月号

3月11日 - 17日
版画展 8ピキの梟

DMあり

麻田浩、石原薫、佐野猛夫、下村良之介、辻晉堂、鈴木治、不動茂弥、森本紀久子

3月18日 - 24日
伊勢信子陶彫展

DMあり

9年前に市美大洋画科卒、6年前にアメリカ・クリーブランド美大彫刻科専攻科卒業。二紀会、グループ「起」所属。ブロンズ、テラコッタなどの作品が多かったが、こんどはねん土による造形や伊羅保釉で完成した陶彫。純粋造型の追求からしだいに人間の象徴化した内容追求に移っている。30-70センチ大20点。

*画像掲載:「伊勢信子陶彫展作品から」
『読売新聞』1968年3月19日


二紀会展に出品している市立美大西洋画科専攻科卒の女流、渡米し、クリーブランド美術大学彫刻科、同専攻科を出ているが、その間、第43回クリーブランド美術館ならびにJ.C.Cショーなどで受賞をしている。

帰国してのち大阪、東京で個展、京都美術館でグループ起展に参加。こんどの展示はプリミティブな造型を五条坂の叶敏氏の電気ガマで焼きしめ、上に茶色を塗った20点。飾らぬ人間の本質的なものをねらった作品。正確大胆な立体造形と空間の構成はきびしく、甘い妥協がないところはさすがで、強い調子をもった陰影がうつくしい。

『夕刊京都』1968年3月22日


二紀会に所属し、またグループ“起”のメンバーとして作品発表を続けている。京都での個展は今回がはじめて。発表の作品は伊羅保の釉薬をまとった陶彫20点。それぞれに土俗的な影響を思わす表現と構成に裏打ちされた自然主義的な深い情趣をたたえた作品たちである。そして伊羅保の不透明な色感と具象的な形態があって、そこからの変貌を思わす有機的な未分化の形態は、この作者の情念的な志向と無関係でない、ふくらみのある暖かい幻想を現出させている。

あるものは土偶のように、あるものは朽ち落ちた樹木のように造形化された形態の影像のなかには記憶的な詩情がとりまいて、自由な視覚を開いているともいえる。

しかし、なかに釉薬の処理が寓意にすぎて全体の印象を散漫に、あるいは、けん騒にしているのは見のがせない。造形と表現により緊密な交感をかなえる意味でも、釉薬と表面の感触に考慮しなければならない問題を含んでいるといえよう。(杉)

『京都新聞』1968年3月23日

3月25日 - 31日
平松国和個展

DMあり

昨年京美大彫刻科専攻科を卒業したばかりの新進。人体の形態にくり抜き、赤や黄などに着色したベニヤ板の立体を発表。

紙面不詳、日時不詳


昨年市美大彫刻科卒業、大津市石山在住。プライマリとポップアートというさいきんアメリカで流行の絵画手法をまねた作品で、ベニヤ板(厚さ15ミリ)に人間の各様のポーズをくり抜き、縦に4枚を等間隔に配列したり横に同じポーズの大小違ったものをくり抜き配列したものを組み合わせた作品5点。表側は緑、赤、青、黄、裏面側は白と黒のまだらで着色している。

紙面不詳、日時不詳

4月1日 - 7日
松村光秀油絵個展

DMあり

4月8日 - 14日
松崎八笑亭個展

DMあり

精神病で一時は再起不能とさえいわれた松崎が、このほど7年ぶりで元気に退院、ふたたび画壇にカムバックした。

下村良之介、安田謙、古田安ら画友のすすめでいま京都市東山区縄手四条上ル、画廊紅で個展を開いている。松崎が戦前独立に出品したり京都で北脇昇らと、前衛的な運動をしていたことは有名。その後、児童画に打ち込んでいたが、不幸にして発病。七年間を精神病院で過ごした。

松崎にとっては初個展で、入院前や療養中に描いた作品約30点が出品されている。

墨絵を思わすような黒く太いりんかく(線)で簡潔にした人間の表情を「はにわ」「だるま」「顔」の主題で、描いている。暗い病中にもかかわらず、その表情は無心。あるものはみずみずしい色感によって底抜けに明るい。療養中で思うように材料が手にはいらなかったのか、パンの包み紙やクスリの包紙がキャンバスがわりとなり墨汁がその上をはっているのもなまなましい。ムンク、ゴッホなど画家の精神病疾患の例は少なくないが、松崎の療養中の作品を見ても、全然、異常さを感じさせないのが不思議だ。(亀田)

『毎日新聞』1968年4月13日


独立美術会友松崎八笑亭の個展である。彼は六年半にわたる闘病生活をつづけ、その間非情な苦しみをなめてきた。ここ一年健康も回復し、絵もできるようになった。下村良之介、安田謙、古田安氏ら画友の協力援助を得て、それこそ久し振りの個展を開くことになった。もともと独立展で活躍していたころは、独特の豪放大胆な筆致と表現法で異彩を放ち注目されていた。その当時から、日本的な感性と、人間性を追求する作品が多かったが、この特性は現在も失われていず、今回の作品にもそれがみられる。水墨の「だるま」や「埴輪」をテーマにいろいろな人間像の追求を試みる。それは古代の笑いであり、また現代の哀愁でもある。これらのだるまや、はにわが、あるいは叫び、あるいは語り、そして笑い、怒る。これは人の心の影像であろうか。

ともかく六年も七年もの闘病生活の空白を克服して個展をひらき、少しも暗い影をもっていないところは感心すると同時に今後の精進をのぞみたい。(竜)

『京都新聞』1968年4月13日

4月15日 - 21日
浜田泰介スクリーン展〈アクション〉

DMあり

4月22日 - 28日
吉竹弘作品展

DMあり

退廃(たいはい)とはおよそ縁のない健康的な態度で、そこに独自のユーモラスな陶彫を作ってきた“走泥社”の若手。今回は素材にこれまで使いなれてきた土を離れて、ポリエチレンを採用しての作品発表である。

作品は直径1.85メートル、深さ0.95メートルの円盤で、内部に円柱がにょっきとはえていたり、深いキズあとが開いたりしていて、いずれもピンクや黄などを着色したカラフルな構成だ。そして、そこにセクシャルな暗示をのぞかせているのはいうまでもないのだが、陰うつな、あるいは作為的な効果に片寄らず、それぞれ、見るからに大きな、直截(さい)な表現態度を見せている。

従来の素材にくらべれば、ポリエチレンのすべすべした材質感や張りのある量塊が作者の意志を満足させるに十分かも知れない。その意味で、一つの新しい方向を示しているといえなくもないのだ。

しかしこうした傾向が作者の資質とか感覚とかを今後どこまで継続させることができるのか、疑問に思えるのだ。自己の造形意識と素材の問題をもう一度、再検討する必要があるまいか。(杉)

『京都新聞』1968年4月27日

4月29日 - 5月5日
土田隆生彫刻展

DMあり

11月5月6日 - 12日29日
うちむら・なみを展

DMあり

内村凡夫個展

深い淵の底で静かになにかをまさぐる姿勢で、人間的な情感の漂白を試みている。そんな地味な、しかし着実な態度を連想させる作品たちである。そこには新奇なてらいはない。むしろ現実の状況を支配している新奇な様式とは無関係な仕事ぶりである。だが、その態度はまた、ある意味で、いささかまだるっこい感じを受けぬでもないといえる。

出品は7点。どれもが太く黒い、あるいは淡いピンクなどの線を直交しただけの構成。たとえば「43-3」はボード板をとりまいて線が流れ、また「43-6」は同心円が幾重にも広がる。和紙を張った簡明な構成もある。

作者にすれば、自己とのかかわり合いのなかで、風土的な情感を形象化しようとするのだろうが、画面の息をこらした取り組みのわりには現実的な緊張に乏しい。持ち味といった主観的な意識をつき抜ける非情な志向が望まれるのではあるまいか。絵の具の上をクシではいたようなマチエールにも捨象すべき部分が多いようだ。

『京都新聞』1968年5月11日


京都教育大特修美術科(33年)出身、富田林市阿南高をへて寝屋川高校教諭、大阪白鳳画廊で3年間に個展2回、二人展1回しただけで、作品発表より組合活動が忙しかった。卒業後十年目、はじめて京都での個展で、ベニヤ板をパネルに、左右対称、求心的な円や直線、弧などを描いた作品。機械を使わず、すべてフリーハンドの仕事で、日本情緒を出すのがねらい。マチエールにも気をくばり、盛り上がったえのぐをクシで削る仕事もしている。100号大3点、80号大6点、20号大2点。

『読売新聞』1968年5月7日


「打ち破るメカニック 人間臭を感じさせる」

メカニックな直線と曲線が重なって、抽象的画面を構成していく。非人間的に清潔でデザイン的になるところを、この人の場合、何かがそれを破っていて、反対にドロくさい人間臭をさえ感じさせる。それはある場合、有機的な感じを与える幻影的空間をつくったり、また色の塗りわけによって、黒線のはいった面となったりするのである。

また、意識的に細かく描線を残したり、小孔をうかがったボードを組み合わせたり―とマチエールにもさまざまの苦心がはらわれている。

メカニカルになろうとしながら、それを破るものに作者の努力が感じられるが、“それはどこかに日本の心を忘れないものを”という作者の姿勢でもあろうか。(T)

*画像掲載:「うちむら・なみおのWK43-5」
『夕刊京都』1968年5月10日

5月13日 - 19日
富樫実版画展

DMあり

行動美術(彫刻部)会員、成安女短大助教授。昨年春、フランス政府留学生選抜毎日美術コンクール最優秀賞を受けて渡仏、ウィリアム・ヘイターのアトリエ17で版画の勉強をし、このほど帰国した。ことしのフランス政府主催賀状原画コンクール大賞を受賞、パリ国際版画ヴェンナーレ(ママ)を招待出品するなど、本業の彫刻よりも多忙だったという。ヘイター直伝のきめの細かい線と面の交差した抽象風銅版画を出品する。

紙面不詳、日時不詳


作者は木彫作品で昨年のフランス留学美術コンクールにおいて受賞して渡仏、最近帰朝した行動美術協会の彫刻部会員である。彼地では、留学期間が限られたためもあり、かねて関心を寄せていた版画をヘイターの「アトリエ17」で研究した。今回の展観はこの渡欧作品からなる。

この作家の場合、誰しも気になるのは彫刻作品の形と版画におけるそれとの関連性であるが一見したところ、それの感じられる度合は少くない。むしろ、木を彫るなかで形を見定めてゆく習性からか、彫る執念のようなものが造形の軸になっている。つまり、刻むという両ジャンルに共通の技術において、また根本的な着想よりも、むしろ、それを仕上げてゆく過程において独自の雰囲気をもつ作品を生みだしているといってよい。(S)

*画像掲載:《TenkaiIX》
『京都国立近代美術館ニュース 視る13』 1968年6月号


……その他注目すべき個展は、彫刻家富樫実が渡仏中に製作した版画を発表した個展(画廊紅)、同画廊の〈森本岩雄 唐草模様展〉、ギャラリー16の〈梅本アキラ、野村久之展〉などであった。中でも富樫の版画は、そのフォルムのもつ直截な感覚において、彫刻家としての彼の仕事を想起させるものがやはりあった。(田中比佐夫)

『三彩』(232)1968年7月号

5月20日 - 26日
森田康子個展

DMあり

とにかく猛烈なハッスルぶり。京都市・縄手四条上ル、画廊紅で個展を開催中の森田康子(28)=京都市・小山=は展示場に作品を並べただけでは満足できず画廊専用の応接室から控室まで自分の作品をブラさげた。それも自分でカナヅチを手に、台に乗ってガンガン。その動きとともに笑い声の大きいのに小さな画廊はビックリぎょうてんの始末。

イタリア滞在5年。昨年末、帰国、京都での個展は今回がはじめてだ。

同志社女子中、高から東京芸大の林武教室で学び、37年、ローマ美術学校3年に編入され2年間で卒業。

さらに1年間ローマにいて、41年からミラノで生活した。

出品は油絵、デッサン各20点。

すべてイタリアでの作品で、ローマ美術学校在学中の油絵5点、デッサン8点などローマ滞在中のものと、ミラノで描いたものがほぼ半々だが、ローマでの作品は絵具をたたきつけたような抽象画。ゴテゴテしていま一つまとまりのない印象だが、ミラノの作品になると淡い色調に変わり風景画には詩情がでてきている。しかもほん放なタッチを失わず、愉快な人柄そのままに、カラリとした仕上げ。留学中の収穫を問うに十分な成果である。(横山)

*画像掲載:「森田康子個展から「ミラノ郊外の秋の夕暮」」
『毎日新聞』1968年5月25日


「人間的な内面に目 するどい才気と大胆さ」

多分に抽象性をふくんだ内面的な具象といおうか。するどい(のほうず)なところがなく、強いが決して粗野でない迫力で、神経に食い入ってくる。

「碧い椅子(イス)」をはじめ「部屋の中の影」など数点の64年代の風景、静物作品はほとんど抽象に近く、その色感も渡伊以前(61年)の、一見自虐的な暗さ(山口薫氏)がまだはっきり尾をひいているが、体当たりのはげしさが小気味よく、それは「テヴェレ河の古い橋」あたりまでつづく。デフォルメに心象を託した写実の「私の部屋からみたローマの屋並」「赤い納屋」などのころから色感もひらけた感じで明るくなり、やがてミラノ住まいとともにキャンバスに油を使いながらも墨と筆の東洋的な作品を思わせる画才気をきびしい知性でおさえて、人間的な内面に深く目をむける作品。それは大胆であって、野放図境にはいってゆく。「モンツァの杉」「帰り」「雲と夕陽」などに見る自然との対話、孤独感なども墨絵の境地と通うものがある。竹やぶを背景に自画像とも見える日本の女の顔を描いた大作に外地にあって故国日本に思いをはせたこの人の姿勢が見えて興味深い。

一筆描きにスピード感をもって描いたデッサン。かるく、明るく、ときには甘美なギリシャ旅行のスケッチにははりつめた力を抜いたたのしさがある。

京都生まれ、東京芸大油絵学部で山口薫氏、専攻科では林武氏に学び、イタリアに留学、五年間の滞伊作品を3月はじめて東京で発表した後をうけた個展。(K)

*画像掲載:「森田康子の「モンツァの杉」」
『夕刊京都』1968年5月24日


個展では、まず〈森田康子個展〉が注目されるものであった。東京いとう画廊で三月に個展をしている彼女については、ここで改めて紹介することもないかもしれない。芸大卒業後5年間イタリーで勉強をし、その間抽象的な作品から具象性の強い作品に変ってきたという。作品は骨太でたくましく、画面構成、空間処理など力強さがみなぎっている。彼女は京都の人で、京都における初個展だったわけだが、私が案ずることは、外国においてこれだけの画面における構築性を獲得した人が、日本の生活と風土に直面したとき、果してそういう力強さを貫ぬけるかどうかという点である。日本、とくに京都を中心とした自然の不思議な魔力と向いあって創造するとき――こういうことは、現在、芸術の国際性などということで誰もがさけて通っていることだが――また一つの転機になるのではなかろうか。(田中比佐夫)

『三彩』(232)1968年7月号

5月27日 - 6月2日
森本岩雄 唐草模様展

DMあり

市美大専攻科出身、ゼロの会会員。初の個展で「唐草模様(アラベスク)展」と名付け、サブタイトルが「隠喩(いんゆ)的な」とある。自己を取り囲む社会、自然をみつめているうちに、生命のイメージが展開、画面が唐草模様のような造形となったので、こう名付けたという。唐草模様は表現上、仮の名で、その画想は多彩であり、ユーモラスであり、比ゆ的である。50-100号大10点。デッサンも出品する。

『読売新聞』1968年5月28日

6月3日 - 9日
飯田教子展

DMあり

飯田は北美文化協会に属する作家で昨年の個展に続いてビニールによる作品。それはビニールを摩擦した時に生じる静電気によって何枚ものビニールを張り合わせたもので、昨年の作品のもつ一種の味を排そうとする意図からか、今回は鮮明な色板や、光を取り入れるとともに面を切るなどで変化を求めている。ビニールの重なりから生ずる意外な色合いが深みを示して興味深いものがあるが、それに対する色板の色彩や切面の鈍さは一考を要する。また光の使用も場合として作品の効果を弱めているものがあるのは注意すべきだろう。ここにはまだ作者の手仕事を強く感じさせる弱さが見られ、より造形的な処理が期待される。(U)

*画像掲載:《作品》
『京都国立近代美術館ニュース 視る14』 1968年7月号


同じく六月に京都の画廊紅で個展をひらいた飯田教子の作品にも一理屈ある。それは無色のビニールを何枚もはり重ねて透明感をもつ画面をつくろうとする作品で、ビニールの接着剤ではりあわせたのでは、不純な要素がはいり透明性がそこなわれるので摩擦によって静電気をおびたビニールは、互いに密着するという性質を利用する独自の方法をとっている。そこにこの作品の理屈がある。それはビニールの性質をたくみに着眼した理屈であり、彼女はこの理屈をもっぱら手段として駆使し、ビニールをはりあわせることを作品の目的とは考えていない。造形のテーマは主として幾何学的な構成を、ビニールのもつ独自のはだあいと、透明感とともにつくりだすことである。無色の水が層をなすと青みをおびてくるように、透明なビニールも重ねあわせることによって色調をおびてくることも、むろん計算のなかにはいっているようだ。

彼女の理屈とその使いかたには難点がないようにみえる。だがこういう方法でビニールを使うことによって生まれた結果がまったく好もしいとはいいかねる、ところがある。それはすべてビニールが、何枚も重ねられたときにもつ質感そのものにかかっている。そのような質感がこころよいか、いなかについては個人の見方の相違があるが、かりに透明感をだすための一つの材料として、偶然的にビニールが、使われているのだとしたら、それはあまり効果的な材質とはいえないようである。なによりも鈍いという印象はおおえない。

作者がビニールでなく透明感を愛するのなら、別の材料を考えてみることも必要だと思われる。しかもなお、ビニールを接着剤なしにはりあわせるという方法を、その妙味ゆえにすてきれないとしたら、この作家の場合も造形が理屈にひきずられている例になる。作者は「北美」の会員。(高橋亨)

*画像掲載:「飯田教子の作品」
『日本美術工芸(359)』1968年8月


透明ビニールを重ねて画面を作る飯田は、色彩も加えて造形性にたくましさを加えてきた。(田中比佐夫)

『三彩』(233)1968年8月号

6月10日 - 16日
佐野猛夫銅版画展

DMあり

市美大インドネシア学術調査団の一員として一年前、80日間にわたりジャワ島、バリ島に滞在、各地のインドネシア風俗、風物をスケッチしたが、帰国後に専門の染織の余暇に手なぐさみの銅版画として仕上げた絵はがき大の小品50点の初公開。

『読売新聞』1968年6月11日


日展評議員染色作家である。昨年インドネシア学術調査団の一員としてジャワ島やバリ島に約80日間滞在視察したときのスケッチを元に制作した銅版画である。インドネシアの風俗や風物がエッチングという鋭角的な白黒の線によってあざやかに描写されている。もともと染色作家で、それもろうけつという柔らかい調子の表現を主とする仕事をしているので堅い調子の銅板は当人には異質のものであるが、インドネシア風俗というテーマが、このテクニックにピッタリで、南方独特のねっとりした感触をよくとらえている。しかも染色における幻想的あるいは民話的表現を、この銅版画にも生かして小品ながら興味深い作品に仕上げている。本人はこれは余技ですといっているが、本職の染色とはまた別なおもしろさがあって、ただの余技とはちがう調子の高いものがある。

『京都新聞』1968年6月14日


佐野はインドネシヤのスケッチ銅版画展……(田中比佐夫)

『三彩』(233)1968年8月号

6月17日 - 23日
ア・コ作品展

「種々雑多な小品が調和」

スケジュールに組んであった加藤明子展が作者の都合でできなくなり、とりいそぎ代替の展覧会がつくり上げられた。同画廊のいうならばご常連といったつぎの作家らが、手元の作品を持ちよったというわけ。下村良之介、富樫実、辻晋堂、宮永理吉、堀内正和、不動茂弥、佐野猛夫、来野月乙、真野岩夫、野崎一良、山崎脩の11人で、染、陶、版画、彫刻などの作品がずらり。手馴れた作品の、それも小品ばかりで、大きさも傾向も個性的ながら各おもしろい調和を見せたところはさすが。

『夕刊京都』1968年6月21日


市美大から佐野猛夫(染織)堀内正和、辻晋堂(彫刻)(以上教授)来野月乙(染織)野崎一良(彫刻)(以上助教授)上田弘明、山崎脩、宮永理吉、井田照一(以上彫刻)真野岩夫(西洋画)(以上講師)大谷大から下村良之介(日本画)成安女短大から富樫実(彫刻)(各助教授)不動茂弥(日本画)が出品。それぞれ彫刻、版画、染織など未公開の作品の発表、なにがでるかはお楽しみ。

『読売新聞』1968年6月18日

6月24日 - 30日
市村司個展

DMあり

京都青年美術家集団創立会員、アートクラブ会員。京都アンデパンダン展の創設など前衛絵画運動に情熱を傾けてきたが、この個展には、過去に感動したシュール・リアリズムの巨匠ダリの作品集、ゴッホのひまわり複製をモチーフにし、それぞれ六ヶ月がかりで400号大の大作に仕上げた。巨匠と対話しながら作品のもつ線、色彩、構成を自己の心のなかで整理し、解釈し直し、視覚芸術の開拓を目ざしている。前衛絵画運動が、世界の潮流に押し流されているなかで、一歩後退し、伝統のなかに未来の方向を見い出そうとするねらいが秘められている。複製では見分けられないこまかいタッチ、マチェールを発見するため、三万円で新聞紙大のカラー写真に再拡大する努力をしている。

『読売新聞』1968年6月25日


ゴッホのひまわりが一見、それとわからぬまでに引きのばされていたり、ダリのシュールな作品を切って巨大なバラが大きな位置を占めて克明に描き込まれていたり、の画面たちである。

出陳は二点。大きさは400号。いずれも美術史上に名をとどめる過去の名画に画因を求め、原作を忠実に模写しながら主観的な解釈とバリエーションを視覚化しようとする。この作家の、一連の作品である。そして、今回はゴッホとダリを選んでいる。近代の多くの画家たちが自己の思想と技術を強化するために原画の再生を試みた例は少なくない。この作家もある意味では同様の手段で、名画という素材化した対象に自己を埋没させながら、視覚の展開を試みるのだろう。そこにまた、個性の回復を意図しているともいえる。

ゴッホとダリの正確で、しかも綿密な描写。明快な色彩のバランス。構図を追うという行為に徹して駆使された手わざには、この作家のふてぶてしい態度と凝集した技術の充いつを思わせ、模写を越えた緊張をつくり上げている。

ただ、模写は一つの批評であり時には逆説でもありうるとは、よくいわれる例だが、より主観的なこうした態度を明快に顕示する意味でも、さらに透徹した細密な描写が必要であるのはいうまでもない。そして、そこに発展する思想の定着化が今後の仕事ぶりに注目されるのである。絵画的な世界を、絵画の本質的な部分に目を向けた取り組みは、ユニークといわねばなるまい。(杉)

*画像掲載:「市村司個展〈作品II〉」
『京都新聞』1967年6月28日


「名画をアレンジ ダリ、ゴッホを超大作に」

画廊の二面の壁に向かい合わせに600号はあろうと思えるほどの大作を2点、それだけのさっぱりした会場である。

一つは68年作品Iで、この春のアンデパンダン出品作品。上方にダリのシュール的な作品を置いて中央大きなスペースに大輪のバラを描いた意欲の作品。黒がさき、赤、黄など濁りのない色が美しい。生地はデコラだという。

この人特有の丹念に描きこむきちょう面さがあり、計算されて乱れぬうす塗りの色の配分がある。ダリの画面を復元し、これをアレンジしようという意欲はさらに強くなり、同じ大きさの68年作品IIはゴッホのひまわりの原画によっている。

すなわち強烈な夏日のもと、たくましい花の軸から出た花のしんは燃えさかる熾(し)烈な花弁を大気に向ける。

その復元というのもかなり原作に忠実で、原作をカラー写真に大きく拡大し、小さい部分部分もなおざりにしない。何度も筆を入れて正確に、水ぎわ立った塗り込みをする。

「ダリでもゴッホでも名作という名作にいどんで、その翻訳(ほんやく)をするんだ。自己流もよいが、こうしたものをもう一度考え直し、体当たりで向かって行く。次はもう来年の仕事にかかる。どうでもいい仕事を、いい加減に切り落としたい。わずかしか残っていない人生の時間をいかに有効に、有意義に暮らすかである。そのためにこの名画を私なりに消化したい」。

市村氏の言をかりればこんな意味だったようである。

若い人が会場にはいってきて言った。「戦争の絵のようだネ」

「すごいネ。迫力があるよ。すごい戦争だ」こんな見方もまたおもしろい。自らの耳を切ったり、狂気と正気の間をさまよったゴッホのはげしい心の葛藤(かっとう)と現代のベトナム戦争にかりたてられたあたりは共通しているものがあるのだろうか。青美の指導者。(A)

*画像掲載:「市村司のゴッホ「ひまわり」の復元」
『夕刊京都』6月28日


……個展では画廊紅の〈市村司個展〉が注目に値するものであり……

市村はたて1.8米、よこ3.6米の大作2点を出品していた。1点はダリの絵の中に林武風のバラを出会わして、1点はゴッホの「ひまわり」をそのままで、大きく、ただ正確に、完ぺきに模写した作品である。それもデコラ板の上に油彩で盛りあげなく面相筆で細かく色面分割しながらの仕事である。しかしできあがった作品には一片の情緒もなく、画面全体からかわいた現代の精神が押しよせてくる。最も一般化した古典的作品を逆手にとって、鋭どい文明批評の様相さえ示しているのである。現代絵画をして、現代風俗におぼれることなく存立する突破口をさぐる一つの方法であろう。(田中比佐夫)

『三彩』(233)1968年8月号

7月1日 - 7日
西村康三郎個展

DMあり

武蔵野美大出身、独立美術会友。兵庫県西脇市双葉小学校を振り出しに西脇南中、大阪府豊中五中を経てことしから豊中第六中教諭。県展に出品した高校時代から北九州の廃坑、壁の落ちかけた荒れた建物など建築物をモチーフに13年間描き続けてきた。昨年から抽象画に転向、現代詩、現代音楽を象徴するような記号派の作品。具象画時代から抱いていた抽象画への欲望がやっと実った。どこまでこなしているかが楽しみ。100号台10点。

『読売新聞』1968年7月2日

7月8日 - 14日
田辺守人油絵個人展

DMあり

何とも奇妙な形の人間である。手、足や胴はあるが、まるでおしぶつしたようなシンプルな構造である。その上にほんとうに申しわけのようにとりつけられた丸い小さな頭。いわば最小限の人間の形体とでもいえよう。作者はこの形体を借りて、人間のもつ内面的な精神性を見てもらいたいのだ。

このため人間像のイメージをいろいろな構図や色調で強く浮出そうと試みる。透明度の強い色彩を用いて、色の配合やドリッピング(滴り)の技法で、イメージを出そうとしている。

この人間像は直接、画面に描かれているのと、シマ模様の縁で人間の視覚にワンクッションをおいてその奥から人間像を感じさせようとする二通りを並べている。

一種の抽象表現的絵画ととれるがこの種の絵画の決定的なポイントは、作者のイメージがどこまでぴしゃりと見るものの心をとらえ得るかにある。自己の様式を用いあらゆる技法を駆使しながら、作品から受けるイメージは観念的で漠としているのが惜しい。

人間の精神性というモチーフのとり方にもっと具体的で、現実的なものが作画以前に必要だと痛感させられる。(亀田)

『毎日新聞』1968年7月13日

7月15日 - 14日
岡野靖夫個展

DMあり

「好感もてる画面処理 だがものが多く、もたつく」

コンピューターが選ぶ相手と結婚したいか、自分の目と心で相手を選ぶか。科学の先端をゆく宇宙飛行士がお守りを持って宇宙を遊泳したりもする。こうして、人間の環境への順応は複雑で時間を要するものだという。そして人間は生物学的な本性と否応なしに与えられる機械文明の谷間でいともこっけいなドラマの主人公となっているのだと作者はいう。この虚(むな)しさを見つめ、この虚像の間のドラマをとらえてみたのがこんどの作品らしい。

その画題も「マジックハンド」「ヒロイン」「帰宅時間表」「複複製」「バタリー式教育法」などというものでワイシャツとハンガー、イス、など単純な形にリアルな人形などを配している。科学の中の人間味を思わせる例の「虚」を追う一連の作品。意識的にメタリックな感じをねらっているが、意あってものが多すぎ、ややもたつくものの、おもしろく、きれいな画面の処理には好感がもてる。滋賀大学芸部美術科卒で、光風会会員、昭和35年から41まで毎年2回モダンアートの入江祥三郎と組んで二人展を約十回開いてきたがその最後の回から一年ぶりに初めてのこの個展を開いたもの。150号1点、130号3点、60号1点、100号4点。

『夕刊京都』1968年7月19日

8月5日 - 11日
原田陽子「タイルによる白い方形」展

DMあり

8月15日 - 19日
山下幸次個展

DMあり

8月20日 - 25日
猪坂一展

DMあり

「軽快な流動感 紅白のビニールテープで」

福井県で前衛的な活動をしている北美のメンバーの一人。

作品は「鳥追いテープ」とよんでいるビニールの紅白のテープで、田んぼにくる鳥を追うために張りめぐらすもの。うすい、平たいこのテープを丹念にならべ紅白をそろえたり、ねじったり、あるいは扇風機の風にヒラヒラふるわせたりして軽快な流動感を見せる。

福井大学の職員を勤めるかたわらはじめはアンフォルメル風の抽象を描いて二紀や自由美術にも出していたが、次第に色面分割のハードエッジ風となり、この素材を選んだのは去年から。

赤と白、黒と白のテープのほか、みどりも青もと各種の色がほしいとメーカーに交渉しているというからこの素材と手法にこれからもまだまだ取り組むらしい。

『夕刊京都』1968年8月23日


……画廊紅で、北美の一員である〈猪坂一展〉はビニールテープという材料の使い方のおもしろさで……各々興味深い仕事を示していた。(田中比佐夫)

『三彩』(236)1968年11月号

8月26日 - 9月1日
木代喜司個展

DMあり

9月2日 - 8日
鶯田功個展

DMあり

9月9日 - 15日
土と炎による 川上力三展

DMあり

まっ赤なキノコのような物体がニョキニョキ生え出しているかと思えば、天井からぶらさがった球体がそのからだを切られて赤いキズ跡を見せていたり、生々しい肉塊が食皿の上でおどっている。まるで悪魔たちの、深夜のパーティーでも想像させる、無気味な情景である。

作者はオブジェ焼きで知られる陶芸集団“走泥社”所属の若手。これまで人間の深層心理に結びついた主題で、シリアスな構成を見せてきたが、今回はかなり自由なイメージへの脱皮を試みている。しかも、従来の作品がイメージの形態化にぜい弱な部分を残していたのにくらべ、構成的にも明快さを加えてきたようである。

作品はいずれも、セレン赤という低火度の釉薬を表面にまとった陶彫たち。それぞれに有機的な形態で、てらてらしたまっ赤な色感が作品の材質感を消失させ、不思議に生生しい動感を思わせる。そしてセクシャルな姿態はまた、ユーモラスなざわめきを幻覚させ、即物的なアイロニーをさがしているともいえなくはない。

しかし、この象徴主義的な取り組みは多分に生理的であり、さらに意志に即した試みがなされなければ単に奇異なビジョンに終わってしまうことになりかねない。いいかえれば情感的にイメージの形がはっきりしていないのは、この作家の弱さであり、ポピュラーな類型化に留意しなければなるまい。(杉)

*画像掲載:「川上力三作品」
『京都新聞』1968年9月13日


「新しい空間構成追う ユーモラスで素朴な味」

一昨年夏に開いて以来約二年ぶりの個展で、三回目の開催。

走泥社のメンバーで、前衛的な仕事を続けている陶芸家である。

土と炎による、と謳(うた)っているこんどの作品は、円い球形を細い糸で高低をつけ、リズミカルにつるした一群や、タテにつなぎだんご風に下げたもの、方形とその中をくりぬいて入れた球との関係、四角いハコ状のやきものの中に一つ一つ、赤いタコの頭か、手足のような形が立ててはいっている形、また規格の白い洋サラの上にのった赤のさまざまな形をちょんと乗せ、それをまた円型に並べて、その台の脚の高低順にしたものなど新しい空間構成についてさまざまな追求を試みている。

そのフォルムも色もすっきりとあかぬけ、何かユーモラスなゆとりがあり、あたたかく素朴な味がある。

作者は伏見高校窯業科の出身。河合瑞豊氏に師事し、現在は右京区松尾苔寺付近で陶器を焼いている。

*画像掲載:「川上力三展から紅」
『夕刊京都』1968年9月13日


走泥社同人。大型肉皿(市販の白釉陶器)にオブジェを盛ったもの、箱のなかにオブジェを入れたもの、サッカーボール大の球状に割れ目をつけ、そのなかに造形したもので、二度焼きし、白色が既製品のさらなどの容器の色、赤色がオブジェの色彩とあざやかな判別のつく陶彫。

紙面不詳、日時不詳


川上力三は前衛的な工芸作家グループ・走泥社に所属する作家で、一昨年に続いて同じ画廊で開いた個展である。赤い釉薬を用いた有機的なフォルムの暗示をもつオブジェが白い皿の上にのって群集していたり、植物をうえた植木鉢をよせ集めたように並べたりしている。一つづつよりは一つの群として訴えようというのである。それらのなかで、最も興味をひいたのは、天井から吊したもので、それらは色々に刻みが入れられてあり、その部分は地の曖昧ある白に対して深い赤が賦されている。それがさまざまな高さにつりさげられ、構成のフォルムと共に人間の顔への連想もあり、秀逸であった。(S)

『京都国立近代美術館ニュース 視る17』 1968年10月号

9月16日 - 22日
冬木偉沙夫作品展

DMあり

「“静かな情熱”ある作品 古色で現わす「爆発」」

京都市立美術大学工芸科講師で新匠会会員でもある。こんどの作品は漆の、円形の盆2点をのぞいては、ベニヤの合板150号余りのいずれも意欲的な大作7点。

「爆発」「起伏」「冒険」などと名づけたその作品は、先に言った合板に布を張り、その上にカシューを施したもの。下地に使う材料で立体的な盛り上げを試み、空間の処理に新味を出すことに苦心したあとが見える。漆の色やハダを出すための技術的な手法はあぶなげがなく、のびやかな線と面には漆の質感が強く、深く沈む。朱、金のハクのプリミティブな使い方も効果は上がっているが、それよりも「爆発」の古色を思わせる色調がよい。

装飾的な漆芸作品の多い中にあって、限界のある材料を使ってその質感を生かしながら自己の絵を描いて行く。そうした静かな情熱が感じられる作品である。(A)

*画像掲載:「冬木偉沙夫「爆発」」
『夕刊京都』1968年9月20日


新匠会会員。市美大講師。うるし本来の黒、朱色からしだいに黄、赤、緑など多彩化をたどっている漆芸界に対し、あくまで正統性と純粋性を尊重し、伝統を生かすことをねらって制作を続けているが、この個展作品はウルシとトノコを練り合わせて下地づくりをし、高低のついた肉盛りの上に黒、朱のウルシを塗り上げたもので、光線の当て方により多彩に変化し、幾何学模様が視覚的にかわり、絵画的印象を与える新手法をみつけて利用した。伝統の上に現代の感覚を加味したものにしようというねらいをあるていど実現し、びょう風(縦1.73メートル、横0.87メートル)一曲二双六点、額2点。

紙面不詳、日時不詳

9月23日 - 29日
第2回集団ひのき写真展

DMあり

写真作家グループ・集団ひのき主催の「第二回集団ひのき写真展」(京都新聞社後援)は、いま京都市東山区縄手通四条上ル西の紅画廊で29日まで開幕され、写真ファンや入洛中の外国客などを喜ばせている。

展示されているのは会員の組写真もふくむ36点、計78枚(カラー8点)で、25人の会員が出品、テーマは自由だが、近畿周辺の風物を取材した作品が多い。なかでも安岡孝治の「狂雪」(カラー)芝川漁蔵の「エチュード」河畑尚の「ギオン暮色」などの作品は、そのざん新なカメラ・アングルと焼き付けが話題を集めていた。

集団ひのき(安岡考治会長=50人)は一昨年秋に結成、大半は京都市内の“日曜作家”だが、月例会のほか各地の写真グループと交流し、カメラ・アイをみがいている。=写真はにぎわう展示会場

紙面不詳、日時不詳


9月23日から29日まで京都市内縄手四条上ルの画廊「紅」で開催したが、全紙全倍の約60点の出品があり、今年度は集団の研究部員安岡、田中、西村、それに筆者および外部のひとで初日にきていただいた先輩、ベテランの諸氏によって採点をし、昨年同様の10点満点法で協賛メーカー賞などを決定したが、1位(コムラー賞)「レースを終えて」高橋一郎、2位(アサヒペンタックス賞)「祈り」前田伝三、3位(コムラー賞)「世話人」(宿谷一雄)、4位(三菱カラー賞)「秋の渓流」田中健二、5位(マミヤ賞)「山里」松尾馨、6位(努力賞)須原史朗、水中聡一郎、若山宏が選ばれた。地元の大先輩や遠く名古屋や神戸、大阪などからも多くの来客があり、いろんな批評をテープに録音して出品者たちの後日のアドバイスとした。昨年度よりは全体的にみて進歩がみられると好評であったが、ズバぬけて見ごたえのあるものがなく、最高賞であるひのき賞が該当作なしは残念だった。平素会員たちはみな自由にいろんな作画法を例会で勉強しているのだから、うまい写真だと感じられるくらいは当然のことで、どうしたらもっと高度の表現力が身につけられるかいまいちど考えなおしてみる必要があり来年度にさらに期待したい。なおクラブでは意欲ある新人の入会を歓迎している。連絡は京都市下京区堀川花屋町荒川写真工房(電話351-3632)

*画像掲載:「第2回集団ひのき展記念撮影」
『日本カメラ』(267)1968年12月号

9月30日 - 10月6日
山本善弘個展

DMあり

10月7日 - 10月13日
大田洋個展

DMあり

10月14日 - 20日
佐野賢石彫展

DMあり

10月21日 - 27日
川元御祐己個展

DMあり

教育大美術科の出身、卒業後すぐ成安女子学園に勤務、今日に至っている。同時に美術文化に所属、現在美術文化協会会員。去年から運営委員をつとめている。

作品はここ3-4年をひと波にして色を使ったり、また白と黒にかえったりをくり返してきたが、こんどの個展ではホワイトをかけたキャンバスにうすくといた黒で、日本画の筆を使ってたんねんに円と線をつないだ。すべてフリーハンドで流動感を盛った一連の作品、あき、はつあき(初秋)ばんか(晩夏)などと名がついているのは「絵はすべて私にとって生活の記録だから……」という。色を使わずに色の感じを出すというのに苦心したらしい。

円がやわらかくならび、のびている。昨年の春から企て、個展ははじめて。50号を最大として17点。

『夕刊京都』1968年10月25日

10月28日 - 11月3日
井田照一個展

DMあり

「あざやかな色彩 パリ留学毎日賞受賞の井田君個展」

パリ留学の夢をのせたことしのフランス政府留学生選抜毎日美術コンクールでパリ留学賞を得た井田照一さん(28)=写真・中京区新椹木町夷川上ル=が28日、パリ出発を前に「井田照一版画展」を開いた。近作30点を並べ、京都では3年ぶりの個展だが、あざやかな色彩と大胆なフォルム、技術のさえが充実した版画展になっている。

井田さんはことし3月、第三回毎日美術コンクール(関西日仏学館、毎日新聞社主催)に400点余点の応募作の中から最優秀のパリ留学賞に選ばれ、年内にパリに出発、六ヶ月間、フランス政府の援助で勉強する。

版画展の出品作はパリ留学賞を得た“エンド”“ペーパー・アンド・ペーパー”から“ベビーボトル”(大阪信濃橋画廊個展出品)“オレンジの部屋”“プレゼント”“大きいベービー”(以上東京壱番館画廊個展)や11月1日から東京の国立近代美術館での「第6回東京国際版画ビエンナー」(ママ)に出品する。“ブルーケーキ”さらに12月、第一回イタリア国際版画展招待にだす“夏”“日曜日”など、来年1月のスイスでの第一回国際版画展に出す作品も含まれ昨年8月から手掛けた“シルクスクリーン”という技法を併用した版画が多い。技術的にむずかしいというこの技法を覚えるのに、井田さんは京都の印刷店をしらみつぶしに回り、カメラで撮影、シルクに転写するという大変な苦労をした。

今回展示された作品について井田さんは「色彩はボクにとっては非常に大事だ。しかしボクの表現したかったのはある種のエロティシズムで、それを直接的にではなく、表面はあくまで健康的に一枚突き破れば人間の危機感がある―そんな作品をねらった」と話している。

*画像掲載:「はじまった井田照一版画展」
『毎日新聞』1968年10月29日


「たくましい底力“現代の危機感を表現”」

ついこの夏東京壱番館で個展を開いたばかりで、こんどは六回目の個展、これがすむと年末にはパリにとび、留学生としての生活を始めるという。

ことしはこの他、まず大阪で個展をやりスペインの日本作家展、東京と京都で開かれた第六回東京国際版画ビエンナーレ、第一回イタリア国際版画展(イタリア)国際版画展(スイス)などに招待出品するなど目まぐるしく活躍した。こんどの留学もその間に出した第三回毎日フランス留学コンクール展に受賞した結果である。昨年のサンヨー新人賞はじめその活躍ぶりはめずらしい。

市美大卒業後版画(リトグラフ)を専門に、地道な制作をつづけ、ここ一年ほどはそのリトにシルクスクリーンを併用、面構えに似ない大胆不敵な仕事で、単純明快な作品制作を重ねてきた、その実は単純明快と背中合わせの現代の危機感をねらい、それを表現したというのがそういうたくましさを彼の版画は底力に持っている。

タブロー、オブジェ、やりたいものは多いが、それは文学におけるエッセーや詩のようなもの。紙一枚ではあっても、造型の世界は絶対に現わせるというのがその信念だという。

画面は色もかたちもきわめて単純化され、ピンク、グリーン、ブルーなどの色彩と共に童画的な要素を出しながら、その画題の「日記」、「庭」、「朝を待つ」、「追跡」、「ピンクママ」、「カレンダー」、「梟」、「ブルーリボン」、「ママがけがをした」などと一部をとり出してみても、非常にイメージがゆたかである。

パリではすぐに版画の摺(す)り師の工房にはいって勉強するという。その充実した精進に期待したい。=写真はその作品の一つ“朝を待つ”(リトグラフ65㎝×52㎝)

『夕刊京都』1968年11月1日


井田照一は今年の毎日フランス留学コンクールで受賞、東京国際版画ビエンナーレに招待されるなど、最近めざましい活躍ぶりをみせている新進である。個展も今年の初め大阪・信濃橋画廊、夏に東京・壱番館画廊そして今回と大変に意欲的だ。今回の展観は昨年後半から極く最近の作まで陳列したものである。

彼の作風は大きくはっきりした色面による構成に特徴があって、純粋視覚的な訴え方をしていたが、昨年後半頃から心理的な面を志向するようになってきた。しかし、抽象的な形態をとり、両面のバランスを考えていたようだ。それが今回は便器などを表した一見ポプ・アート風ななかに深層心理に働らきかけるようになってきている。そして、その変遷の必然性がよくうかがえた。(S)

*画像掲載:《ブルー・ケーキ》
『京都国立近代美術館ニュース 視る19』 1968年12月号


……ほかに個展では、ギャラリーの〈野村耕作品展〉画廊紅の〈井田照一版画展〉などが印象に残るものであった。……後者はのびやかな形態を明るい色彩ですりあげている。そのじめつかない、さわやかさにおいていわゆる現代風なのであろう。(田中比佐夫)

『三彩』(238)1968年12月

11月4日 - 10日
加藤正二郎個展

DMあり

11月11日 - 17日
4th 舞原克典絵画個展

DMあり

等高線や建造物をあらわした地図の青写真が明快な色彩の明度変化の帯でポジとネガに分けられ、チ密に描き込まれる。そして、その等高線などの青写真に大きな形態が侵蝕し、あるいは圧迫されて緊張した状態をのぞかせる。同時にまた、それは、妙にひえびえとした透明な画面の印象を濃くしている。

作者は京美大洋画科助手。今回は二年ぶりの個展発表だが、画面に見るかぎり前回とは一転した感じである。つまり、従来の作品たちが半ば自然的な風景に造形を求めていたのにくらべ、今回はかなり構成的な要素が強く打ち出されている。

色彩の変化に経過する時間的な推移、マジック・インクや特殊な黄色のエンピツで虚実を区別した等高線の交錯、画面は構成的にはまとまりを見せているが、制作過程に安易なオートマチズムが作用しているせいか、チ密な画面のわりには緊張度のぜい弱さを否定できないようだ。

こうした取り組みは無機的なものを無機的なままに透徹させて、現実的空間を現出させることが必然的な帰結だが、その意味において描線の集まりが決定的な障害になっているといえる。

形態を構築していく姿勢に主体と対象との間の容赦のない、タフな神経の作業がこめられていないかぎり、それはリアリティに転化されないことを認識すべきであろう。

*画像掲載:「舞原克典「作品」」
『京都新聞』1968年11月14日

11月18日 - 24日
吉田登個展

DMあり

次元68、毎日フランス留学コンクールに出品、京都市立美大西洋画科専攻科二回生。

白いキャンバスの空間を大きくとった中に動感のあふれた、さわやかな色層を散在させる。つとめて、手仕事の朱を押えた筆致をとり、冷たく、機械的に重ねた色感とし、意味のないくり返しをくり返して行く。しかしその中に明るく、かるい歌声の聞えてきそうなきれいな画面である。ホリデーのシリーズで、写真の作品はそのNo.6。

筆者は個展を前に急病で入院手術をし、搬入から陳列、その他すべて同期の友人によって運ばれた。作品と同様すっきりした話。

*画像掲載:〈HOLIDAY-NO.6〉
『夕刊京都』1968年11月22日

11月25日 - 12月1日
第三回岡田義之輔個展

DMあり

12月2日 - 8日
美山典子作品展

DMあり

「清潔であざやか 迫力は今一歩…」

白く塗ったキャンバスの中央を切り開いたように、黄、グリーン、紫、レモンイエロー、ブルー、赤などに染め分けた線を置く。鋭角的にまた上下に遠近をつけた手法で、はっきりした帯状をテープを使っての固い線で描くが、更にその上に同じ面積の厚いアクリル板をのせて、びょうで止め、奥行きを深く見せる試みを見せている。

百号大の画面は、清潔であざやかであるが、今一つ迫力はない。市美大西洋画科専攻科二回生で、独立美術協会には三年前から出品入選した。昨年のユニバーシアードには卒業制作を出品している。

『夕刊京都』1968年12月6日

12月9日 - 15日
須川武博個展

DMあり

「機能性と空間構成ねらう “室内のための”作品」

京都市立美大染織科専攻科二回生。「室内のための」とうたって、麻、ブロード、行燈(あんどん)に張る薄手の合成生地の各種にノリの型染めを施したスクリーン数点をならべている。写真の作品はその薄手の生地にラベンダーの円を大きさによって変化させて染めぬき、布の上下にはがねをはさんでつるしたもの。他に麻の作品のプリミティブなもの、ブロード生地に植物性の染料で、染め分けたものなどそれぞれにおもしろく、室内装飾の機能性と空間構成をねらった意欲の作品。この種の常設的な展示場がほしいものである。はじめての個展。=写真は須川武博個展から

『夕刊京都』1968年12月13日

12月16日 - 22日
三宅多喜男彫刻個展

DMあり

「地に足のついた抽象形態」

京都美大教養コース講師、ほとんど毎年個展を開き、その年の労作を発表する。ことしは横浜市大からモニュマン(記念碑)を頼まれてそれにかかり、六月完成。その後、淀城で枯れた大松の幹を手に入れ、大小二つに彫りを加えた「対話」と題する作品をならべている。黒牛の背のようなボリュームのある造形。黒く塗ってみがき出している。

『夕刊京都』1968年12月20日


三宅多喜男は京都市立美大を卒業し、現在同校の講師をつとめている。今まで例年この画廊で個展を開催してきた。今年は大きな木彫を一点並べている。点数こそ一点だが大変な巨木でさがし出すまでの苦労の程がしのばれる。単に量的な大きさのみならず、自分の観念を形象化するというよりは、ものの形によってひきおこされたイメージに従って刻むという作者の意図がはっきりと汲みとれるので、なおさらさがす努力も多かったことと思われる。そのことは作品そのもののできよりは姿勢が問題であるかのように観者に働きかけ、観者がその次元で受けとめる方向にむかわせる。そこにおいては悪くすると、観者とのなれ合いの気分が支配しがちとなる。厳しい評価の前に、意図を感じその実現のあり方を問うのである。この点については作者の責任ではないかも知れないが考えさせられるものがあった。(S)

『京都国立近代美術館ニュース 視る21』 1969年2月号

12月23日 - 26日
現代作家によるチャリティーショー

「年の瀬に“愛の一灯”」

恵まれぬ施設などに愛の一灯をプレゼントしよう―とする歳末の催しが、23日も各所で開かれ、市民の善意が集められた。

“有名画家”も一役 作品持ち寄り収益金

関西在住の美術家たちが作品を持ち寄って行なっている歳末恒例の「現代作家によるチャリティーショー」が、ことしも東山区縄手通四条上ル、画廊紅(松永ゆりさん経営)で、23日からはじまった。

上野照夫京大教授、奈良本辰也立命館大教授、シナリオライターの依田義賢の三氏が発起人で、出品作品の収益を恵まれない施設などに贈り、歳末の一灯をかかげようというものだが、すでに桃山学園に陶器ガマ、大照学園に印刷機を寄付したのをはじめ、昨年は財団法人大本会心身障害者福祉問題総合研究所が製作した映画製作費にさし出し、各方面から喜ばれている。

今回のショーには四十数人の作家が参加、作品は陶器、絵画、彫刻、漆芸などおよそ五十点、それぞれ入札制によって値段をつけてもらい、26日午後に開封する仕組み。迎春用の室内装飾に、贈答品に、著名作家の手ごろな作品が割り安に買えるとあって、初日から会場には主婦、学生も訪れ、品定めに時間をかける姿が続いた。会期は26日まで。

*画像掲載:「美術家たちの好意の作品展」
紙面不詳、日時不詳

1969
2月3日 - 9日
無閑人展

DMあり

下田正夫、朝山新一、石川洋二、岡満男、岡本午一、亀田正雄、神楽子治、黒田英三郎、国分綾子、重達夫、下店静市、杉田博明、高橋亨、竹内康、辻修二、土居次義、中川脩三、堀俊一、前久夫、松尾英世、横山真佳、吉村良夫、天野忠、荒木利夫、宮武義郎、山前


美術作家のなかには、美術批評家とか新聞の美術記者に、いつも作品の悪口をいわれるという被害者意識をもつ人があるらしいが、京都市中京区縄手四条上ル、画廊紅で開かれている「無閑人展」は、いつもは加害者側にいる美術関係の大学の先生や新聞記者の作品展である。同画廊の新春恒例の企画で、ことしは20人が30点の絵や陶器を出品、会場を見わたすと天井からイス、テーブルをぶらさげた作品や、浮世絵ふうの美人画などもあってビックリするが、創造的ひらめきは乏しいようだ。ただ重達夫(前京都市美術館長)の美しい色彩をちりばめた“童話のためのイラスト”や、土居次義(京都工芸繊維大教授)の“コロッセオ(ローマ)”の両油絵作品は本格的。しかし吉村良夫(朝日新聞)が高さ2メートルもの新聞の紙型を使い、杉田博明(京都新聞)が大学紛争の記事にボクシングの写真をはめ込むなど、新聞の切抜きをつぎ合わせ、そろって新聞記者らしい作品をだしているが、どうも着想だおれ。その点、同じ新聞記者でも国分綾子(夕刊京都)は、五枚そろいの陶器皿をだして「無理をせず楽しんでいる」と好評。会場には感想をかいて入れるボックスが備えてあるが、酷評がいっぱいだろうといわれているが、遊びの精神で大学の先生の素顔でものぞくつもりでみれば結構おもしろい。(横山)

『毎日新聞』1969年2月7日


学者、新聞記者などが自由作品を出品。

『朝日新聞』1969年2月2日


「暇のない人たちの作品展」

天井から机とイスがぶらさげてあり、卓上のコップやビールびんがさかさまになって、いまにも落ちそうな作品があった。また新聞のとじこみを台の上に部厚く積み重ね、表紙には新聞をコピーしてつなぎ合わせ、写真のネガフィルムがはりつけてある。どさっと置いたのが自然にずり落ちそうになっているあたりが、いかにも現代美術くさい作品である。新聞の紙型をカマボコ形に曲げてつなぎ、壁に日本の柱のように立てた作品は、その二本の柱の間から画廊の案内状の色刷りが顔をのぞかせていて、ちょっと気がきいている。ほかに油絵あり、焼きものあり、合計約40点。

専門家の作品にしては仕上げが荒いと思ったら、この展覧会「無閑人展」というアウトサイダーの作品展。つまり美術評論にたずさわる大学の先生や新聞記者、美術館員など、美術関係者の作品ばかり。「どうも才走って、技術がともなわない」とのカゲの声も聞かれたが、なかなか人気はあった。

京都市東山区縄手通四条上ルの画廊「紅」が主催するこの展覧会、ことしで五回目。名づけて「無閑人展」。すぐに「無冠の帝王」という言葉を思い起こすが、実際には、いつも「忙しい忙しい」ととび回っている人たちの作品展というわけ。最初は東京国立近代美術館の本間正義氏ら東京の人たちも作品を寄せ「美術評論家余技展」という名でオープンしたが、第3回目から関西だけになって名前を改めた。上野照夫京大教授らも写真作品などを出品したこともあるが、ことしは大学紛争でほんとうに忙しく、大学関係者の出品が少ない。

それでも大阪市大の朝山新一教授、美大の岡本午一氏、同志社の黒田英三郎氏ら大学関係者、岡満男、国分綾子、杉田博明、横山真佳、吉村良夫、松尾英世、神楽子治の各氏は新聞関係、それに前京都市美術館長重達夫氏も名作(?)を披露した。

*画像掲載:「無閑人展」会場
『日本美術工芸(366)』1969年3月

2月10日 - 16日
小西煕個展

「パチンコに題をとる 機械と人間の関係に興味もつ」

昭和38年市美大洋画科卒、すぐに教職につき、現在洛北高校と豊中高校の美術を非常勤で担当している。

3年ほど制作に空白があって、一昨年自由美術に出品したのを機に描きだしたという油絵。

こんどははじめての個展で、100号5点、80,60,50の各号作品を入れて計10点はすべてパチンコに題をとった。二年ばかり、パチンコに熱中した間の所産らしく、画面は「パチンコ―並列」、「パチンコ―とズボン」などとパチンコの機械、タマ、その走る曲線、押したくなるようなバネ、機械との距離、パチンコをしている群像などを抽象的に描く。機械と人間との関係に興味を持ち、はじめは多少のうらみをこめて?この一連の作品に取り組んだらしい。構図にもう一つつっこみがほしいが、全体にユーモラスで、深刻ぶらないところがよい。

グループ展に三回ほど発表、また版画(エッチング)もやり、版画集団にも加わって作品を発表している。

*画像掲載:「作品の「パチンコ」」
『夕刊京都』1969年2月14日


昭和38年市美大西洋画科出身、洛北高講師。自由美術(42,43年)入選。個展ははじめて、半具象傾向の作風で、モチーフはパチンコとそれに勝負する人間を取り上げた。一昨年から追求しているもので、パチンコの機械が放つ現代的感覚と人間の日常慣習的行動ギャンブル根性の取り合わせを描いた百号大5点など計10点。

『読売新聞』1969年2月11日

2月17日 - 23日
駒井達子個展

Group Wa所属  インドのおんな


インドの風物をモチーフにした油絵を並べている。山や道、海の風景の中に半裸のインド人を具象で描いている。お行儀よくおさまった画面だが、こじんまりまとまりすぎて迫力を失っている。広い雄大なインドの自然、東洋のナゾを秘めたインド人の表情が見られない。日本のどこにでも見られる風景という感じが、画面を平凡にしている。写実的な絵でも自然や人間の語らいは失いたくない。36年京美大洋画科卒現在岡山中学の先生。

『毎日新聞』1969年2月21日


*画像掲載:「「インドのおんな」駒井達子展から(京都・紅画廊)」
『読売新聞』1969年2月18日

2月24日 - 3月2日
三尾公三個展

広々と続いた深淵にゆらいで歪(ひず)んだビートルズたちや女性の顔。そしてその不安定な形態にこだました生々しいレモンとあざやかな赤の道路標識。二つの相ぼうと対応と交錯のなかに、カーンとさえた不思議な空間が現出した画面である。

昨年に続いて安井賞候補に推されている三尾公三の作品たち。出品は「THE SPACE」「PERSPECTIVE IN BLUE」「THE LONGEST」「ある孤独なる肖像」など十数点で、いずれも先に大阪で開いた個展の作品を並べたものだ。ブルーとメタリックな銀を基調に、情緒的な粉飾を拒絶し、透徹した虚構の世界を開いて注目されているが今回もまた例外ではない。しかも手のこん跡をまったく消失してしまった画面はその空間に心理的な奥行きと屈折をより増幅しているようだ。

描かれているジョン・レノンもポール・マッカートニーも、女性も、ここではすべてその実態をもぎとられ、イメージの容器に変ぼうし定着化されているにすぎない。そして、そこに虚と実の映像を再構成し意識下の世界や非合理的な幻想の交錯した覚醒がもくろまれているのである。パースペクティブな方法論と吹きつけによる処理が効果的で、タブローという二次元の空間が広いイルージョンをひき出している。

*画像掲載:「THE SPACE 三尾公三」
『京都新聞』1969年2月28日


「凹レンズに映った顔 虚実交互する空間…」

昨年秋東京で個展を開いた作品がほとんど。パースペクティブ・イン・ブルーという題の通り、ブルーを主調にした独特の画面、それは凹レンズに映った人間の顔を配し、虚実交互に作り出す空間、そしてそれを現実にひきもどすかのように中央に置かれたレモンの黄色が妙にあざやかである。

ベニヤに吹きつけの手法、なめらかな面を作るのにみがきをかけ、型を置いては吹きつけて行く技法、光沢あるこまやかな質の上に美しい造型がひろがって行く。

市美専の出身、元光風会に属していたが、昭和39年以来どこへも所属せず、安井賞候補、現代日本美術展五回入選、ジャパン・アート・フェスティバル展で文部大臣賞を受けるなど目下アブラがのりきった感じ。

その一連の作を見ることができる個展である。

*画像掲載:「独特の画面をみせる三尾公三の作品」
誌面不詳 1969年2月28日


三尾公三は、一昨年、安井賞の次点になってから急に注目された気鋭の作家で、ジャパン・アート・フェスティヴァルや芸術生活画廊コンクールにも意欲的な作品を出品して入賞している。その画風は、ブルー一色の湾曲した女性の顔を中心とした現代人の不安な心象風景といったものであるが、今回の個展にも、かようなイメージの作品が十点あまり展示されている。スプレーによる描写力は驚くほど的確であり、画面の構成もきわめてしっかりしている。しかしこのようなテクニックの巧妙さは、ややもすればそれだけうわすべりして、全体に雑誌広告のような通俗性をもたらす危険をはらんでいる。レモンを克明に描いて画面の造形的なポイントとした作品などに、それがつよくうかがわれる。この意味で、人体の影や遠近法的な空間をとりいれた最近作は、構成はやや粗雑であるが、あたらしい表現の可能性を追求したものとして興味があった。心理的なイメージから脱却して、実像と虚像との観念的な関係の表現へと、この作家は今や転換しようとしているようであり、今後の発展が期待される。(I)

*画像掲載:《The Longest》
『京都国立近代美術館ニュース 視る23』 1969年4月号


……個展では紅画廊で開かれた〈三尾公三作品展〉が非常に強烈に印象にのこるものであった。実はここに出品された作品の殆んどは、すでに東京や大阪の個展で発表ずみのものだというが、考えぬいたいくつかの複合した空間を変形・平面の画面の中に組み立て、その中に一般化し普遍化した人物の影を描いて現代的な虚構の世界を強い実在性をもってつくりあげていた。そこには精緻な計算と、どこをでも画家として描くということを放棄しない鮮烈な精神が秘められており注目に価するものであった。(田中比佐夫)

*画像掲載:「Perspective in space “B”三尾公三〈個展 京都紅画廊〉」
『三彩』(243)1969年4月号

3月3日 - 9日
和田章作品展

DMあり

3月10日 - 16日
志野明墨象展

DMあり

水墨画といえば、室町時代に花開き、いまも南画などの大きな流れをもっている。また墨跡も一つの美術であり、現代前衛書道がある。しかし、京都市東山区縄手四条上ル、画廊紅で開かれている「志野明墨象展」は、南画にみられる写真的なものでも、また前衛書道とも違い、日本人に親しみ深い“スミ”の味わいを現代に生かそうとしている。

出品は高さ2メートル、横1メートルくらいのかなりの大きさのが9点と、小品が1点だが、どれもスミを淡くぼかして画面いっぱいにまるい円をかいたり、大胆に画面を区切って黒い部分と余白との対比のおもしろさをだしている。作者によると「私は、東洋の風土から生まれた水墨の世界を、現代の騒音と色と形に共鳴させ、融合させてみたいのだ」という。

同志社大経済学部を出たという変わり種で、画家を志したが、才能に自信が持てなかった。しかし卒業後、ある書物で「才能は自分ではわからない。執念の長い集積だ」ということばを発見して、日本画の先生について二年前からスミの作品に先年、昨年「シェル美術コンクール」で佳作賞になりこんどはじめての個展開催。

出品作のうちには、この佳作賞の“白のある世界”もだしているが、いずれもスミと紙とのハーモニーがやわらかく素朴。京都に三日間滞在したドイツ人観光客が“一目ぼれ”して、各所めぐりの合間をみて、連日、画廊を訪れてきたのにすっかり感激しているのもほほえましい。

『毎日新聞』1969年日時不詳


西京高をへて昭和30年同志社大経済学部卒業、姉経営の医院事務長役をしていたが、39年から新制作日本画部に出品、日本画の独学を続けてきた。昨年、自宅近くの要樹平日本画家(無所属、水田硯山の実弟)を訪れ、その水墨画の妙味に深く感動し、要に師事しながら墨の魅力を追求し続けてきた。昨年シェル美術賞展の佳作にはいった。この個展は和紙を切ったり、もんだりして、そのために墨に必然的に濃淡が生れる手法をとったコラジュー(ママ)作品、90センチ四方1点、80-50号大9点。和紙にかいた墨がにじむ状態は作家の意志に反し、偶発性と自由性があるが、現代文明の世界ではそのこと自体を受け入れない世界を形成している面があり、その現代感覚の表現をねらった。

紙面不詳、日時不詳


……個展では、画廊紅の墨による〈志野明個展〉……などが面白かった。《墨象》とサブタイトルをつけた志野明の作品は、薄墨を多用して、墨でいろどった紙を抽象的な形態に切って別の画面の上にはりつけたりした作品であるが、そのサブタイトルはなくもがなの印象を与えるものであった。また薄墨、青墨などの生かし方にも今後の問題があったし、まずその抽象形態の造形性に一定の自己主張がみられなかったことは残念に思うが、いわゆる現在の「墨による造形」の一つのタイプとして注目すべきものであったと思う。(田中比佐夫)

*画像掲載:「作品」志野明〈個展 紅画廊〉
『三彩』(244)1969年5月

3月17日 - 23日
谷イサオ個展

DMあり

34年京都教育大西洋画科卒業、大阪府立山本高(八尾市)教諭、新象作家協会員。一昨年についでの個展。グラフィック・デザイン的傾向をみせた油絵で、円と直線との組み合わせだけの単純な造形図柄だが、幾何学模様派(ジェオメトリック・アート)の整然とした配列よりも、複雑な構成をみせたポップ・アートの心象的印象を与える作品。百号大5点、50号3点、小品7点。

紙面不詳、1969年3月18日

3月24日 - 30日
川合英治個展

DMあり

親友加藤が京都で作品発表するので、競演のかたちとなった。昨年までは、アルミ板を使うなど平面の世界から立体へと移り、初の個展には「空間のカット・イン」のテーマで、発砲スチロールをダイヤモンド風に光彩を見せように彫刻した作品を天井からつるす。

紙面不詳、日時不詳

3月31日 - 4月6日
第3回 西谷成個展

DMあり

4月7日 - 13日
エリザベス・アンダーソン個展

DMあり

ONE-MAN SHOW Elizabeth Anderson


京都在住二年のアメリカ女性の個展で、シルクスクリーンの版画9点と、ラッカーを使った大作4点。いずれも抽象だが赤、青緑などの原色が大胆で、明るくクールな詩情が好評。

紙面不詳、日時不詳


作者は来日して二年になるアメリカ人で、モダン・バレーを学んでいたが、最近美術を志して初めての個展を開いた。作品は朱の画面に雲形のパターンが、一つないし数個、シルク・スクリーンで刷られているだけといった簡潔なものだが、朱と緑という大胆な色彩にも拘わらず、そこには破綻がなく、しかも重厚感さえ与えて、彼女の色彩感覚の非凡さを示しており、そこにはわが国の作家には見られない骨太の感覚を感じさせる。(U)

*画像掲載
『京都国立近代美術館ニュース 視る24』 1969年5月号

4月14日 - 20日
西村精司個展

DMあり

紫野高出身、昨年末までツーリスト広告勤務、現在フリー。下村良之介(パンリアル会員)に師事したことがある。昨年四月末、アヅマギャラリー(先月末で廃業)で個展を開いた仕事の延長で、当時の縄文時代の土器の文様や土偶をモチーフに、陰と陽の世界を拡大鏡で拡大した内容と、弥生時代から大和絵までの日本人の祖先の絵画感を現代風にアレンジしたものなどで、作品は大きくなり、40-80号13点。

『読売新聞』1969年4月15日

4月21日 - 27日
坂井清個展

DMあり

行動展に40年から毎回出品。ことし京展に初出品して入選した。個展は二回目。白い平面にカラースプレーで着色。一部に腐食銅板を使用。10点。

紙面不詳、日時不詳

4月28日 - 5月4日
今井幸二 第3回作品展

DMあり

5月5日 - 11日
うちむら・なみお個展

DMあり

内村凡夫(なみお)個展

京都教育大特修美術コース出身の抽象画家。現在、寝屋川高校の美術担当教諭。どの会にも出品せず、もっぱら個展(今回は五度目)――。抽象形体の絵画十数点を並べているが、発想はかなり文学的。風船を思わすシマ模様の球体が、どの作品にも浮かんでいて、バックの幾何学模様とひびき合いながら、何かを訴えようとする。作品によっては工芸的とも思える“装飾”のほどこされたものもあるが、もっとスッキリした構成の中にこそ、“現代の詩”が強烈に出てきそうな気がする。

紙面不詳、日時不詳

5月12日 - 18日
川端孝則個展

DMあり

京都芸大染織専攻科に在学中の若手染色作家。今回の初個展には、360号大の大作染色作品5点を発表、元気のいいところをみせている。染めの微妙な“味”にたよることをやめたクールな仕事ぶり。そのため生地も化学繊維を用い、染料はすべてけい光染料。作品によってはハク押ししたり、抽象形態にぎこちなさが残って気になるものもあるが、カラッとした色彩と、動きのある形が互いにハレーションを起こして楽しい。たまたま“型染め”という技法を使って、抽象絵画を追求しようというタブロー意識は明確。

紙面不詳、日時不詳

5月19日 - 25日
田中昇彫刻展

DMあり

黒い合成樹脂と、黄金色の真ちゅうを使った抽象的な彫刻。ところが抽象形体のどこかに、乳房のようにふくらんだ目があったり、への字に曲げた口があったり…発想は具象的だ。最近作では、具象的イメージは、ますます消えて、フォルムそのものによる“おかしさ”を表現しようとする方向へ進んでいるようだ。ただ、この種の仕事では、雑な仕上げが気になる。作家は京都学芸大出身の若手彫刻家。新制作協友で、個展はこれが初めて。

紙面不詳、日時不詳


市教育大特修美術科出身、元富田林高教諭、大阪美術大講師、新制作協友。トルソからはじめて抽象造形に転向した。プラスチックをみがき上げ、真鍮メッキで金色に着色する手法で、一見顔のようでもあり女性の胸をも思わせるフォルムをつくっている。リアリズム出身だけに具象性から抜け出せないが、抽象彫刻になり表象性が見られる。

紙面不詳、日時不詳

5月26日 - 6月1日
中村彦之個展

DMあり

市芸大染織科助手、元日展、現代工芸展所属、一昨年につづいての個展で“空間における織物”をテーマに、室内間仕切り的要素をもち、両面が作品になっている内容。タピスリー(壁掛け)は、壁面装飾という用途をもっているが、空間のなかにつり下げられた織物の新しい用途を考えた。材料もウールをやめ、ビニールを使い“若者”と“まじめ人間”を象徴した抽象的図柄で、ヨコ93センチ、タテ2メートルの織り布を3枚、2枚などに組み合わせたもの8点。

紙面不詳、日時不詳

6月2日 - 8日
笹山忠保個展 陶―腰掛

DMあり

岐阜県立多治見工高出身、京都市工芸指導所訓練生をへて、郷里滋賀県甲賀郡信楽町に帰り、信楽焼をはじめた人、現在信楽クラフトマン協会員、走泥社同人。昨年の貯金箱を思わすオブジェ陶がこんどは「腰掛け」をテーマにした陶彫に一転した。腰掛け、イスをモチーフにしたのは室内の装飾と実用を兼ねた家具が室内と調和しているのが基本姿勢だが、この作家は逆に不協和音を発するのがねらいで、ワイングラスにフタをしたような造形物をつくり、フタの部分に人間のクチビルやハナなどをとりつけ、すわれるようなすわれないところをミソとしている。

紙面不詳、日時不詳


陶の椅子が20個、会場いっぱいに並ぶ。白や朱、青などカラッとした色調の釉薬がかかり、椅子のすわる部分からは、クチビルがのぞいたり、花びらが開いたり…すわれたものではない。もちろん作者の意図は椅子の形を借りた装飾オブジェだろう。緑の芝生などに、このクチビルの椅子を置いた場合、室内会場とはまた違った異様さが出そうだ。ユーモラスな陶彫だが、椅子の形という既成概念を捨てて、もっと自由な造型を試みてもよさそう。作者は滋賀・信楽在住の若手陶芸家。走泥社の一員で初個展。

紙面不詳、日時不詳

6月9日 - 15日
724秒イメージの結合

DMあり

724秒イメージの結合 6月9日―15日 京都・ギャラリー・スペース・ピカ、紅画廊

赤石逸三(京都)伊東五六(京都)柏原えつとむ(京都)松本正司(京都)西真(京都)武田雄二(京都)藤野登(京都)井上藤太郎(大阪)河口龍夫(神戸)宮川憲明(大阪)庄司達(名古屋)臼田宏(東京)


「724秒イメージの結合」 京都国立近代美術館 乾由明

過去の芸術作品は、ひとつひとつが完結した全体であり、独立したミクロコスモスであった。一枚のカンバスは額縁で仕切られることにより、現実とはべつの法則の支配する世界と化し、一塊の大理石は台座をそなえることにより、日常の事象から明確に区別された存在であることを主張していたのである。

だがいまや、芸術と現実とは、そのあいだの垣根をのぞかれて相互に流通しあい、作品と「もの」とは、連続した空間においてわかちがたく重なりあっている。したがって、芸術は、現実と異質の次元にある世界ではなくて、現実そのものの特異な状況にすぎなくなる。つまり「もの」は、それが存在する場の状況に応じて、「作品」としての意味をになうことになるのである。

だからここでは、同一のフォルムの作品も、もたらされる状態によってまったく別個の仕事ともなり、また逆に、ことなった事物も、あらわれかたによってはおなじ内容の作品となる。芸術の完結性の否定は、このように、作品のフォルムと意味を分裂せしめて、複雑な相互の流動と交換を可能にしたのである。

二つの画廊において同時に行われるこの「724秒イメージの結合」は、作品のイメージと観念、実体と理念、形式と内容の、結合による分裂、そして分裂によるあらたな結合をしめす実験展である。それは実と虚、ポジとネガという単純なイメージのコントラストを提示するものではない。むしろ現代美術においては、あらゆる作品がつねにノン・フィニト(未完成)であり、そしてそれゆえにこそ、かえって無限の変容の可能性をひめているという興味ある事実の一端を、これに参加する10数名の作家たちはあきらかにするであろう。(プリント)


「ブレーン・ショック企画展」

第一会場=中京区新京極六角、京都ピカデリー劇場内、ギャラリー・スペース・ピカ。第二会場=東山区縄手通四条上る、画廊紅。松本正司、西真、赤石逸三、藤野登、伊東五六、柏原えつとむ、武田雄二(以上京都)井上藤太郎、宮川憲明(以上大阪)庄司達(名古屋)河口竜夫(神戸)臼田宏(東京)の前衛作家12人が出品。両画廊を歩いてゆくに要する時間が平均12分4秒かかることから「七二四(なによ)秒イメージの結合」を企画展の呼び名にした。両画廊を独立した会場にせず、関連のある展示をし、鑑賞者が四条、木屋町、河原町、三条、縄手などをぶらつきながら、画廊から画廊へ行くと、そこにはじめの会場でみた作品の影があったり、裏返しの絵画や彫刻がある。また、同じにおいの出る物体が置かれているといったぐあい。これまで限定された閉鎖社会の産物だった芸術作品に対し鑑賞者が両画廊を移動するうちに心境、思想、鑑賞眼などが変化し、その作品のイメージは変容するはずで、その芸術作品に別の世界をつくり出してもらおうというねらい。

紙面不詳、1969年6月10日


「二つの会場を結ぶ「七二四秒・イメージの結合」展」

従来の完結した“芸術作品”の観念を捨て「芸術と現実とは、その間のかき根をのぞかれて相互に流通しあい、作品と“もの”とは連続した空間において分かちがたく重なりあっている。従って芸術は、現実と異質の次元にある世界ではなく、現実そのものの特殊な状況である」(乾由明氏)―この観点から、関西の若手前衛作家たちが試みた、新しい実験展である。

具体的には、市内の二つの画廊に、同時に関連性のある作品が並んでいる。歩いて平均“724秒”(12分4秒)かかる二つの画廊を、歩けば、それぞれの作品の既成概念は分裂し、新たなイメージが結合される―という試み。

A画廊にドクロの作品があるかと思えば、B画廊に全く同じ形のキャンバスに鏡がはりつけてある。自分の顔を鏡の中に発見した鑑賞者は、A画廊にあったドクロのイメージと二重写しになる“自分”にドキリとする…。あるいはA画廊の球体の影が三角すいなのに、B画廊の三角すいの影が球体…という不思議さ。12人の作家が思い思いのアイデアを駆使して、新しい試みにいどんでいるが、アッと驚かすような着想は必ずしも多くない。この種の試み―もっと演出効果を考えてもいい。(F)

『京都新聞』1969年6月13日


“時間”を美術作品にとりいれるという現代美術の新しい実験展が、京都で開かれている。歩いて724秒(12分間)かかる二つの画廊に、12人の作家がそれぞれ1点ずつ作品を出品、画廊から画廊へ移動することによって、見るもののイメージを自由に開放しよう、という試みである。これは、現代の「作品」が過去に芸術作品といわれたものとちがい、現実そのものの特殊な状況にすぎない、という考え方に立っている。美術作品は額ぶちにはいった絵や、台座におさまった彫刻という、それ自身、日常の現実からかけ離れた存在でなく、空間、環境、時間、行為などのいろんな現実の要素を加味した状況だ、というわけである。

実験展に参加した12人は京阪神の若い前衛作家たちに、名古屋、東京からも加わって頭脳をしぼった。第一の画廊で映像の虚像をうつした松本正司は第二の画廊で見る人の顔をうつしだすステンレス板の鏡面をすえつけ、さきの虚像のイメージと結合さす。西真は鏡面からガイ骨の絵に、宮川憲明は骨組だけの立方体から、ちゃんと出来あがった作品へ――と、時間的経過をストレートに組みこんだ作品を並べている。庄司達は白と赤の布地というきわめて日常的な素材を前後におきかえただけでイメージを結びつけ、柏原えつとむはブルーに着色したリンゴから、遠近法的に並べたガラス板へと「もの」の異質を見せながら、一連数字の配列によってイメージを統一する。河口竜夫は円錐から球へと作品を変えているが、その台上にうつした影が逆になっている。これによって作品のフォルムと意味の分裂を目ざしているわけだ。

むずかしい理屈が並んだ展覧会のようだが、こうした実験で現代美術は「作品とは」「芸術とは」という問いかけに対し一つの解答を見せているようでもある。=亀田正雄記者

*画像掲載:「会場風景=スペース・ピカで」
『毎日新聞』日時不詳


「二つの画廊を結ぶ珍しい企画展 京の前衛作家たちが計画」

京都市内の二つの画廊が結んで開く、珍しい企画展が、いま京の前衛作家たちの手で計画されている。題して「724秒イメージの結合」展―。

この企画展。12人の作家たちが、二つの画廊に、それぞれ「実体と虚像」「本ものとニセ物」「右半分と左半分」「動と静」「におい箱」などの作品を同時に展示、「鑑賞者は二つの会場を歩いて、イメージの結合をはかってください」というもの。中には「A画廊でジョッキーを買えば、B画廊でビールが飲めます」という商魂たくましいアイデアも飛び出しているとか。期間は9日から15日まで。会場は縄手四条上ル、画廊・紅と、新京極ピカデリー劇場四階、スペース・ピカ。ちなみに、この二つの画廊を、ブラリブラリ歩けば、大人の足で724秒(12分4秒)―。このアイデア、現代美術の新しい試みを示すとともに、お客を画廊へ引き寄せる新手として流行しそうな雲行き。

紙面不詳、日時不詳


京都市内の二つの画廊を会場とし、そのあいだの距離による時間(歩いて約12分)も作品のファクターとして計算に入れ、両方の作品のイメージを連関せしめようとする興味ある企画展が開かれた。松本正司、西真などが中心になってプランをねり、ほかに河口竜夫、柏原えつとむ、庄司達、宮川憲明など10名の作家が参加している。作品自体の統一ある完結性を解体し、空間と時間の流動的な現実の場のひとつのシチュエイションを創造することは、現代美術の大きな特長であるが、そういう断片的な美術の性格を際立たせるとともに、いくつかの作品の結合がまたあたらしい別個のイメージをもたらすことを立証するのは、たしかに実験として面白い。けれども今回の展覧会は実像と虚像といった、たんなるイメージの裏がえしやコントラストの提示に終り、それ以上の変容の過程を視覚化するには至っていないものが多かった。せまい会場に多数の作品を展示して、全体に混乱した印象しか与えなかったことにもよるが、根本的には、出品作家のすべてに、共通の明確な制作の理念が欠如していたことが大きな原因であろう。両会場をつなぐ時間の意識も、河口竜夫の地図による作品以外ほとんど具体化されていなかった。その点、最初に企画されていたテレビの使用が実現出来なかったのは残念であった。(I)

*画像掲載:松本正司《作品》
『京都国立近代美術館ニュース 視る26』 1969年7月号

6月23日 - 29日
藤波晃作品展

DMあり

…藤波晃作品展(画廊紅)など注目すべきものであった。(田中比佐夫)

『三彩』(247)1969年8月号

6月23日 - 29日
アルベルト・ジャコメッティ小品展

DMあり

矢内原伊作先生の著作「ジャコメッティとともに」の刊行を記念して、ジャコメッティのデッサンと版画の小品展を開催いたします。《画廊 紅》

6月30日 - 7月6日
土田隆生彫刻展

DMあり

リアルな顔があって、その下に首をにぎっている、これもリアルな手。「マスクと指の習作」と題する“具象彫刻”だが、意識の底はアイロニックな要素が確かにある。もっと、それが明確になるのは、突然飛び出した両手が、顔いっぱいに覆いかぶさった作品「ギリギリの私」など。顔は、すべて、ゆがんでおり、それをささえたり、にぎったりする手の指先にも、意識の裏をまさぐるような神経が通っているようだ。“ゆがみのユーモア”とでもいうべきか。昨年に続き二度目の個展を開いた作者は、滋賀大出身の若手彫刻家。長浜市在住。まさに、ブロンズに見える材質は、実のところ樹脂に彩色したもの。

『京都新聞』1969年7月4日

7月7日 - 13日
萩森公馨展

DMあり

油絵の具で描いた抽象フォルムの大作8点を発表している。黒やネズミ色、黄土色…といった地味な色調に、うねうねした形。一昨年の石版画の個展に続く京都での発表である。京都美大洋画専攻科出身の若手で、現在奈良市在住。(F)

『京都新聞』1969年7月11日

7月14日 - 20日
畠中光享個展

DMあり

やさしい一面と、激しい半面を見せてくれる、若手日本画家の初個展である。風に吹かれて浮遊するタンポポの図や、星空に浮かぶ風船…といった小品は、チ密な仕事ぶりで詩的。ところが、ヘルメット学生集団を題材にした「アナキスト」などの大作は、可れんどころか、激しさを爆発させる社会派。この両面性が、香月泰男を思わすような土くさい画面の中に同居している。大谷大四回生。

『京都新聞』1969年7月18日


……画廊紅で開かれた〈畠中光享個展〉はその私のいらだたしさを一時的にでもいやしてくれるものであった。奈良県の寺の生まれで現在大谷大谷大学在学中の畠中光亨は、香月泰男を想わせる色彩の日本画で「ゲバ棒」「鉄パイプ」などという大作を描く一方、たんぽぽなどをせん細に描いた小品を発表していた。三派に近い心情をもつ彼は、たんぽぽなどを描くときの深く細い大作を描くときにも失わず、ゲバ棒をもつ手と、鉄パイプをもつ手の組み合わせのちがいに彼の心情を表現しようとさえしている。このような生々しい現実に身体ごとぶつかり、それを多くの可能性を秘めて表現しようとする若者が現われたことに、そのことに私は相手するのである。(田中比佐夫)

*画像掲載:「日本の木 畠中光享〈画廊紅 個展〉」
『三彩』(248)1969年9月号

7月21日 - 27日
岸田紘司個展 染による幻想作品

DMあり

35年日吉ヶ丘高漆芸科卒業。二年後に染色に転向、京展入選一回、初個展。抽象造形から一転、童話的幻想作風に変わった作品の発表で、100号大9点、60号大5点。

紙面不詳、日時不詳


……他に個展ではおなじく画廊紅で開かれた〈岸田紘司個展〉が染色の技法を駆使した幻想的作品という点で注目すべきものであった。彼は着尺の染色を業としているというのでへたに作家ぶることなく、自分の業を根底において作品をつくっていくことを願うものである。(田中比佐夫)

『三彩』(248)1969年9月号

7月28日 - 8月3日
彫刻三人展

滋賀大彫塑研究室を卒業した若手彫刻家三人のグループ展である。京都在住(吉忠マネキン勤務)の岸辺隆雄「記憶された自画像」―ケイ光アクリル板の囲いの中にヘソのオが巻きついたままの胎児が三個、無気味な静寂さで宙に浮いている。草津在住(草津中学教師)の小久保信蔵「地神」「種」「土の根」―うねうねと、からみ合う抽象フォルム。材質(合成樹脂)の軽さが損をする。その点は、大津在住(南郷中学教師)の田中昌弘「風の巣」「風の舞」にもいえそう。三人とも行動美術展に出品を続けている。

『京都新聞』1969年8月1日

8月4日 - 10日
岡野靖夫個展

DMあり

鏡を利用した“虚像立方体”をロープできちょうめんに梱(こん)包している作品。また、別の作品では、ロープの代わりに、空気を充満させたビニール袋で、やはり“梱包”する。さらには、梱包役のビニール袋が、こんどは逆に、ロープで梱包される。「空間を仕切る」とか「梱包された空間」といった題名の立体作品約十点を並べた二度目の個展。“風刺とユーモア”を根底に感じさす作品が、鏡が割れたり、工芸化に陥らないための注意は必要だろう。現代日本展やジャパン・アート・フェスチバルに前衛作品を発表するなど、具象派が大半の光風会(会員)では異色。大津市在住。

『京都新聞』1969年8月8日

9月2日 - 7日
松原龍夫個展

DMあり

まっ青な空と緑の草むら、その上に魚網を打ちかけたような絵がある。吹きつけ技法、フリー・ハンド(手描)、さらにはスライドを映しての模写…といった、あらゆる描法を駆使して、明快な画面をつくり上げている。ことに、けい光塗料に輝くゆがんだアミ目の波状など、スライド模写のやり方でしか生まれない楽しいフォルムだ。作品によっては、だまし絵的な要素もあり、仕上げに神経がいきとどいて好感がもてる。富山在住、北美グループの若手ホープである。

『京都新聞』1969年9月5日


松原龍夫は北美グループに所属する作家で、日本現代美術展や芸術生活画廊コンクールにも入選している。今回の個展では百号十数点をならべ、いずれも神経のゆきとどいた力作である。植物の葉をこまかく、かなりリアルに描きこみ、それに魚網や人間のシルエットや布地などを、細いシマ模様の線で蛍光塗料をもちいて重ね合わした幻想的な画風の作品が中心をなしている。幻想的といってもシュール的な画面ではなくて、むしろ実像と虚像の対比や重複によって、イメージの虚構と観念の自由を強調しようとしているようである。描写力もあり、構成も手がたいけれども、しかし虚像による観念の透明化がもうひとつアイマイで、つよくうったえかける力にとぼしい。その点全般的に、中途半端な印象をあたえるだけに終っている。(I)

*画像掲載:《Close up 2》
京都国立近代美術館ニュース 視る29 1969年10月号

9月9日 - 14日
蔦田功個展

市芸大洋画科卒業。個展は二度目、UカーブやLカーブを描き、直線と交錯してつくる錯覚の構図をつくった。200号2点、100号6点。

『読売新聞』日時不詳


白いキャンバスの上に、交通標識を思わすような青と黒のフォルム。Uカーブ、Lカーブにひずみを生じさせるなど目の錯覚に訴えようという試み。100号から200号の大作8点。昨年に続いて二度目の個展。京都学芸大洋画科出身の若手。

紙面不詳、日時不詳

9月16日 - 21日
冬木偉沙夫 漆作品展

DMあり

朱色に塗られたキャンバス上に、人体を思わすような立体オブジェが、ガバッとからみついている。抽象絵画とも抽象彫刻とも区別のつきにくい、この作品群――油絵の具で塗られたのではなく、化粧はすべて漆。いわれてみて、画面の細部を見直すと、油では出ない漆芸独特の“とぎ出し”技法や“蒔絵”技法などが、そっと用いられている。この細部の工芸意識が、純粋造形を志向するさい、かえって足手まといになることもありうる。比較的小品の二点に凝集の跡を見る思いがした。京都芸大工芸科(塗装)専任講師で新匠会会員。

『京都新聞』1969年9月19日

9月23日 - 28日
松田良介作品展

DMあり

人の頭部を連結させたような有機的なフォルムが、キャンバス上をはい回る。視覚的マンガとでもいうべき作品群だ。4点ほど石版画も並べている。油絵も版画も、あらわれた形は抽象だが、発想は具象的。京都美大洋画専攻科を卒業、現在大阪芸大助手。芦屋在住の若手である。

紙面不詳、日時不詳

9月30日 - 10月5日
織二人展

「将来が楽しみ」

松原緑、小尻多賀子の二人の女性、ともに美大染織科を出て、小尻は成蹊女子短大に、松原は池坊短大に、いずれも助手として勤務している。松原は京展で市長賞をうけ、日展入選一回、小尻が日展入選一回、京展出品。

松原は植物と植物のある風景、のびやかな花のかたち、これものびやかな色の感覚の壁かけで、各種の糸を使って立体的な効果をねらう。

小尻の方は動くものに興味があるといい、そのモチーフも「葵祭」と題した牛車(ぎっしゃ)の牛をひく童(わらべ)や、「宵山」というちまきをひろう群衆や、ゴーゴーを踊る一群など、素朴な形を使って動感を躍動させているのは、ほほえましい。あくまで具象でゆくという、今後がたのしみな女性二人である。

『夕刊京都』1969年10月4日

10月7日 - 12日
広重明展

DMあり

500号は優にある大画面。その中に、渦巻き模様や小紋模様などのパターンが、縦横にくり返され、花やいだ色彩乱舞をみせる。それなのに、ふと、源氏物語絵巻でも見るようなシックさを感じる。幾種類かの模様の単位を、かつてこの作家は木版で刷り上げていたが、今度の第四回個展では、新しい試みを用いている。つまり、木を彫る代わりに製図した“原画”を描き、それを一度写真製版(凸版)したものを一枚ずつ刷っていく、というやり方。手で彫る“味”を極力さけたのだろう。この種の仕事は、建築空間に大胆に取り入れられていい。京都在住の新匠会会員。

『京都新聞』1969年10月10日


……この青美の一員、広重明が〈ハンガ・コラージュ展〉(画廊紅)を開いた。今年のシェルで佳作に入った彼は、写真製版の技術などを混用して、技術的洗練度の非常に高い作品群を発表していた。色彩のある作品と白黒だけの作品があったが、私には後者の方がおもしろかった。(田中比佐夫)

『三彩』(252)1969年12月号

10月14日 - 19日
新海玉豊 乾漆展

DMあり

京都美大塗装専攻科出身の漆芸作家。発ポウスチロールを使って乾漆による立体オブジェ約十点を発表している。みがきのかかった技術と大ぶりにとらえた抽象フォルムの握手とでもいうべきか。

紙面不詳、日時不詳

10月21日 - 26日
森田和雄個展

DMあり

判読不明新聞記事一点

10月28日 - 11月2日
木代喜司彫塑展

唐三彩にでもありそうな、ユーモラスな青犬。たたくと、ポカリとポリエステル樹脂の音。ハニワや道祖神を思わす胸像や座像もある。壁には、オカメの面と観音仏を一緒にしたような、丸やかな女の面。これまで日展、京展などに、まともな人物像を出品していたが、こんどの個展では、写実描写から離れて、のびやかな造形が始まった感じだ。「青犬」など、陶土でつくってもいいと思う。京都教育大出身の彫刻家。個展は三度目。

紙面不詳、日時不詳


……〈木代喜司彫塑展〉も面白い展覧会であった。非常に素朴な形態を追求している作家であるが、あとひとひねりできないものだろうかと思う。でないと、現代では素朴な形態は素朴にすればするほどどうにも身うごきのできないせまい袋小路に追い込まれてしまう恐れがあるのである。(田中比佐夫)

『三彩』(252)1969年12月号

11月4日 - 9日
山崎脩彫刻展

「知的な遊び」を感じさす、真ちゅうの彫刻である。円筒形の切断両面がクチビルのフォルムをあらわす「何処を切ってもクチビル型をした円筒」や、刀の先を思わす作品。具象的な発想から出発するのでなく純粋に形のおもしろさを追っていきながら、どことなく文学的なウィットやエロスがにおってくる……といった造形だ。京都在住の実力派彫刻家。二紀会委員。母校の京都芸大彫刻科で後進の指導にあたる。

紙面不詳、日時不詳


……他に、11月の個展としては……〈山崎脩彫刻展〉などが印象にのこるものであった。……さらに山崎脩はどこかにユーモラスな情感をたたえた鋭利な造形感覚の彫刻作品をならべていた。

なお京都の縄手通四条上ルに過去5年余り、主として前衛作品の画廊として活躍していた「画廊紅」が、11月9日までの「山崎脩彫刻展」を最後として閉廊することになった。(田中比佐夫)

『三彩』(253)1970年1月号

新 画廊散歩
ギャラリー紅

京都市美術館、京都国立近代美術館のほか、府立図書館、京都会館などが並び、京都の芸術センターとなっている岡崎の一角。左京区聖護院円頓美町にある小ぢんまりした画廊。八年ほど京の繁華街(縄手通四条上ル)で営業していたが、バーやスナックの進出で歓楽街の色彩が濃くなり「落ちついて美術鑑賞してもらうふん囲気もこれまで!」と、昨年十一月、移転した。

面積は約23平方メートル。壁面は白で統一されている。壁板を少しずつ、ずらして規則正しい縦のへこみを入れ、天井も二段に高低をつけて、狭いスペースに変化を加えており、デザインは、版画家・井田照一氏。経営者の松永ゆりさんは、四条縄手時代から前衛美術に力を入れており、ここでも、この方針は守り続け、最近では、真野岩夫、下野正雄、川崎千足、舞原克典といった有望作家の個展を開いた。

間もなく、移転一周年。“画廊企画展”に加えて、貸し画廊も検討中。「貸し」によって、京都の新人作家に発表の場を与え、新人育成と発掘をしたいということだが、従来の「紅」の色彩とを、いかに両立させるかが課題になりそう。今秋には、一周年記念事業として岡崎の歩行者天国に協賛“紅バザール”も計画。「美術関係者や市民に手持ちの美術品や手芸品などを持ち込んでもらい、にぎやかに交換してもらう」という趣向だという。「古い京の中で、創造性に富んだ町・岡崎に引っ越してよかった」という松永さんだ。午前11時―午後7時で、休みは原則として月曜。貸し画廊は週五万円。

『京都新聞』