下村良之介について
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下村良之介(『みづゑ』NO.826 1974年1月号
「特集:発言‘74=日本画」アンケートへの解答
S.Sさま
おたずねの項目について、できるだけ忠実にお答えしたいと存じます。ということは、私がこの特集にえらばれたことの意味を確認したいためもあってのことです。私は、近年日本画というジャンルで自身を考えたことはなく、そういうジャンルのもつ特別の意味についてもよくわかりませんので、特集とあり何人かの画家への質問状として出されているであろう企画のねらいも、他にどういう方にアンケートをもとめておられるのかもわからぬまま答えることに、若干の危惧を感じながら、私自身への答えとして記すものです
- Qあなたはなぜ「日本画」を描きますか。また、あなたは「日本画」とどうかかわっていますか。
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A 私は小学校6年を卒えると、すぐ京都市立美術工芸学校に入りました。なぜ「日本画」を描くか、という問いは、その学校、つまり通常では中学校に入ったときに、私自身反問しつづけた課題でした。私は、小学校時代、野球が大好きでした。そして、中学校は野球の強い学校へと、ひとりで決めていました。当時、私の育った大阪では、市岡中学校、都島工芸学校といったところが、野球の強い学校として有名だったので、そのどちらかを志望したのですが、遊び好き、野球好きの小学生時代を過していたので、学力は甚だいたらず、私のいた小学校の担任は、どちらも君の学力ではダメ、京都に学力は低くてもいける絵の学校があるからそこにゆきなさい、といわれたのが(?)日本画に触れるきっかけとなりました。
私は、その学校を勉強をせず絵ばかり描く、つまりは遊んでいる時間の多い学校、と思い、野球校に羨望の横目をつかいながら、渋々行ったものです。入学に際しては、先輩金島桂華氏の多大なお世話を蒙りました。桂華氏は若い頃大阪におられて、私の叔父がその頃から親しくしていた関係もあって、ろくに絵もかけない厄介息子の入学に便宜をはからざるを得なかったのでしょう。
ところが、入った学校は、勉強は普通の中学校とまったく同じにあり、絵を描く時間が余分にある、という始末でした。中学1年から胡粉の塗り方、黄土の溶き方、といった日本画のテクニックを丹念に教えこまれたのです。絵は、眼の前に置いたものを、そのとおりに描くという修業でした。鉛筆で形をとり、それを先生になおしてもらってから、本紙に面相筆で骨描きし、紙貼りし、地塗りをし、色をつける。四条派か、円山派か、狩野派か、大和絵か、なんというものかわかりませんが、いずれそうした流派のテクニックを教えられていたのでしょう。
当時その学校の担任は、1年が、宇田荻邨、2年が徳岡神泉、3年が金島桂華、4年が登内微笑、5年が入江波光、という担任でした。私はこの5年間、くり返し、なぜ日本画を描くのかと、自身に問いつづけていたものです。但し、そのときは、絵を描くことそのものへの問いとしてです。
そんなことでしたから、学力も悪く、絵の成績も悪く、毎年の及落会議は、下村から上が及第ときめられているみたいに、お粗末なものでした。わずかに桂華氏の担任の年に、上位に近い成績だったことをみても、親の恩恵がよくわかろうというものです。
5年担当の波光氏は卒業の折の成績を中位にしてくれていました。強いていえば、そのあたりで、漸く私は、何故描くのか(!)を解決する緒口を与えてくれそうな、それ以後の相談相手としての先輩を見出したように思います。さて、そんな学習の果てに、これはもう絵を描いてゆくしか自分の道はないのか、と思いつめながら、京都市立絵画専門学校への入学試験のときがきました。
面白いことに、絵専の入試はオープンになっており、美術工芸学校を出ても、ストレートには入れず、絵専予科2年、本科3年のコースのうち、成績によって落第または予科入学とふり分けられるのですが、私はどういう訳か、本科1年へストレートに入学を認められ、いよいよ、画家修業に精進する羽目に陥りました。1年の担当は宇田荻邨氏で、2年は中村大三郎氏でしたが、その頃、レンブラントや、ダ・ヴィンチの画集に見入り、身近の発表では、須田国太郎氏の絵に関心をもっていました。つまりは、絵画の表現の可能性に関心をもっていた訳で、それまでの日本画では触れられていない表現力の問題を考え、日本画の画材で、ダ・ヴィンチの絵を模写したりしていました。そんな訳で、2年の最初に提出した絵は、大三郎担任教授に、「こんな日本画はない」と叱られ、どうしてこれが日本画ではないのですか、という反問に、そんなことは答えられん、これは日本画ではない、の一点張りで、双方納得ゆかぬまま不幸な関係を生じ、私はこの問答の不明確さに、またしても、私自身、「何故描くのか」の反問をくり返さざるを得ませんでした。
そのときの絵は、黒い家の前面一杯に枝を張った白い大木を描き、鮮明な空を添えたもので、今日では全く問題なく日本画として通用していて不思議のないものでしょう。担任教授の覚えの悪い学生は、それでも何とか2年の関門を通過し、――きっとそれは、落第させてあいつと問答をくり返すのはもうご免だというので、3年に送り込まれたのかもしれません。ところが、2年の進級制作の「暖日」という題で、さざえを割っている老人を画面一杯に描いた作品が、当時絵専の校長だった中井宗太郎氏の眼にとまり、そのすすめで京都市展へ出品しました。展覧会への初出品でしたが、これが落選したとき、波光氏は、公募展には出さぬ方がよい、あれは別の社会だから良い絵描きをだめにする、と慰めてくれました。
3年にすすんだ折、担任は榊原紫峯氏でしたが、初教室で「下村君はどなたですか」と尋ね、立った私にわざわざ「『暖日』は良かったですね」と言って下さいました。
波光氏と紫峯氏を通じての私の立場には、きっと日本画家らしき歩みの様子がみえて、今、日本画特集に私をえらんだあなたはほくそ笑んでいることでしょう。
私にとっての貴重な記憶は、3年の3月卒業のところ、前年の9月にくり上げて卒業、学徒動員として出征することになったとき、紫峯氏に、「下村君一緒に来なさい」といわれて、神棚の前に坐らされ、「東洋美術にとってあなたは大切な人になると思われるので、生き残って帰っていただきたい。あなたはどう思うかわからないが、私の気持で、神様に生還をお願いしました」と謹厳に言いわたされたことが、「何故描くか」への2度目のキーを渡された思いとなったことです。
日本画ということでいえば、その頃開催された聖戦名画展を見て、戦争画というリアルなヴァイタリティの世界が、当時の大家だった日本画家の表現力ではまったく情けないほど描ききれておらず、藤田嗣治や宮本三郎の絵の迫力が、油絵の表現の強さとの違いを強く示していました。
日本画ということばの状況への私のかかわりは、中学校から専門学校への8年の歩みにたっぷりとあり、なおかつ、その間日本画という既成の状況にはひとつもかかわる状態がなかった、ともいえましょう。
そうして、満州2年、台湾1年の戦地での生活を経て帰国してきたとき、私は在籍していた絵専の研究科へのこのこ出かけていきました。ところが家は焼け、絵具も筆もないのです。あるはずの研究科の教室もないのです。やむをえず学校の物置にいき、陶土を水にといて、絵具にし、刷毛がわりの掌で絵を描いたものでした。そんな状況ですから、学校に行っても勉強にならず、食うにも困り、半年後に丹後の宮津に高等女学校の絵の先生として赴任しました。
その直前、金島桂華氏は熱心にご自身のところにくればアトリエも画材も充分にあるのだから、そんな不自由なことをせずに来い、と熱心に声をかけて下さいました。親とのかかわりから面倒を見ざるを得なかった腕白を、子供のように考えて下さったのでしょう。そのとき、そのご厚意に甘えていたら、またしても、本誌の日本画特集に名を列ねる当然の状態になり、関係各位をよろこばせていたかもしれません。まっとうな絵描きになって両親をよろこばせることもできたでしょう。
でも、私は丹後の宮津で1年半の教員生活をした後、再び京都に戻って、それから13年半の中学校教師の生活に入ります。
その間に、23年頃から気運あって、パンリアル美術協会を結成し、翌24年5月にその第一回展が開かれました。その宣言のあまりのすさまじさに、私は、いよいよ描かねばならぬと決意を固め、「何故描くか?」の自問にわかれを告げるときがきました。
「われわれは日本画壇の退嬰的アナクロニズムに対してここに宣言する。眼玉を抉りとれ、四畳半の陰影にかすんだ視覚をすてて、社会の現実を凝視する知性と意欲に燃えた目を養おう。感傷を踏みにじれ。因襲の殿堂を破壊して、広い科学的文化的視野から伝統の力強い生命を発掘し、世界的地盤から古典を再検討しよう。温床をぶち壊せ。隠然たる重圧の牙城をなす封建的ギルド機構を打破して、自由な芸術の芽生えを育てよう。執拗な因襲の盤石には幾多の改革運動も螳螂の斧の如くにつぶされねばならなかった。まして破壊から更に新しい絵画芸術を建設するにはもとより激浪の前途を覚悟せねばならない。しかし芸術家の若き世代にとってこの前進以外に生き甲斐はあり得ないのだ。パンリアルはこの欠陥と障壁をのりこえ、敢えて新しい美術の歩みの礎石とならんために結成された。吾々は従来の絵画芸術に凡ゆる角度から総合的批判を加え、常に社会生活の生成発展との深い関連の自覚の上に立ち、その生活感情の激しい内燃から、科学的実験的方法によって、絵画におけるリアリティを徹底的に追及しようとする。従ってモティーフ、マチエールにおいても無自覚な伝襲によって宿命づけられた限界を撤廃し、膠彩芸術の可能性を拡充し、具体化しようと努力する。この目的達成のためにわれわれは画壇ないし社会の封建的精神と機構とに確然と反対し、人類理想のためのあらゆる前進的運動と密接に協力していく覚悟である。」
- Q「日本画」の伝統的なマチエールについてどう考えますか。また、あなたは今後それにどう対応されますか。
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A 伝統ということばの意味について本当にお考えになったことがありますか。私の考えるところでは、あるいは、伝統ということば、時間の流れの相対的な意味に還元され、その流れの瞬間での時点の貴重な意味、つまりは伝統という意識がつくられている積み重ねの根拠について、多くの方はお気付きになっておられないのではないか、と思うのです。たとえば、今日、日本画として、伝統的な位置の確かさとして、若冲や蕭白が、白人文化の論理を裏付けとして、騒がれています。今日の眼から見れば、それも伝統の一つですが、彼らの生存当時、それは画壇の本流たりえず、むしろアウトサイダーとして存在していたのではなかったか、または、近い発見にかかわるそんな例を意地悪く持ちだすまでもなく琳派はどうだったでしょう。設問者のお立場にかえっておたずねしたいと存じます。
私はそういうものを含めて、伝統とされている日本画のマチエールをすばらしいと想います。けれども、そうした意味での伝統的なマチエールを生かした日本画は、今日の日本画とよばれているジャンルの仕事には見当りません。
岩絵具を油絵具なみに塗りたくった、一言でいえば、マチエール負けした奇妙な絵の氾濫、その嘆きしか感じません。もっとからっとした本当の日本画の魅力を大切にしてもらいたいと思うのです。
- Q生活様式の急変している今日、日本画家として、あなたの画題(テーマ)の選択を通して、日常性の問題にどうかかわっていますか。
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A またしても日本画家という意識をよびかけて下さる。画題? 私はテーマの用い方について反問します。私が絵専2年で中村大三郎氏に、風景の画題に対し、黒い壁と白い樹をめぐって問答をくり返したときから、私にとって、三角でも四角でもテーマとして価値を生ずるものであって、テーマは画家にとって第一義ではないという考えです。画題は同時に、ジャンルとしての日本画家の方々は、デッサンを言われるようです。それを絵の基礎として大切にしろ、と言われるようです。とんでもありません。アングル以降の石膏からヌードにいたるナマの描写としてのデッサンは、絵の意味を間違えさせるものです。
眼をふし穴のようにして、対象に忠実になることを強要し、その次には、デフォルメを強要する。こんな無残なことがいつまで教育として許されるのでしょうか。
テーマが本当に自分自身と火花を散らすとき、本当の意味での技術は必要でしょう。そのときデッサンと技術とはどうかかわっているのかを、もっと慎重にみつめ直さなければなりません。
以上、3つのご質問に対し、ご指定の紙数をこえて、私は私の短い体験を通じてお答えいたしました。もし、私を日本画家として、この特集にお選び下さったのなら、この答えを通して、私の画家としての位置及び日本画というジャンルがもつ意味について、あなたのご診断を、あらためてご教示いただければ幸甚これに過ぐるものはありません。
大野俶嵩(『みづゑ』NO.826 1974年1月号
「特集:発言‘74=日本画」アンケートへの解答
- Qあなたはなぜ「日本画」を描きますか。また、あなたは「日本画」とどうかかわっていますか。
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A ・・・・・・京都にあっては画家になることは、日本画を描く画家になることであって、洋画を指導する公的な学校はなかったのである。その日本画科に進学したのであるが、そこで得たものは、日本画のアナクロニズムの自覚と、京都画壇特有の無気力な画風への不信であった。・・・当時の美術学校における日本画の実技指導は、入江波光氏を頂点に、底辺に基礎の導入には面倒見のよい宇田荻邨氏を、その上に徳岡神泉氏の植物画、金島桂華氏の鳥と動物、登内微笑氏の風景の指導といった具合に、京都画壇の実力者を配し、日本画の後進の指導に万全を期した実技指導のシステムであった。
しかし、芸術教育のむずかしさは、たまたまシステムが出来上り、指導が強化されるとその効果に比して、弊害もまたともない易いものである。特に卒業年次の入江波光氏の指導は徹底したものであり、入江イズムという呼称でよくいわれていた。その言葉には、称賛よりも非難の意味がこめられていた。・・・卒業年度の制作にあたって、わたくしは入江イズムに決然と反抗したのである。
ところが、果せるかな、多くの同級生は、わたくしにつづくことになって、卒業展の会場からは入江イズムを払拭してしまったのである。会場の入江波光氏の表情には、深い苦悩の影が感じられてなにかすまないことをしてしまったと、くやまれた。
それでも氏の批評は好意的であった。そしてさらにつけ加えて、「君はずい分廻り道をしますね いずれもとの道へ帰るのですから」あえて廻り道をしなくてもといった心づかいがそこにあったのであろう。
わたくしは、この孤高の異端の画家を尊敬していた。それでも入江イズムというお決りの絵を描くことを拒んだのである。……がしかしこの画家に人間のタイプとしての、親近感を感じていた。あるいはすね者としての自分の将来の姿を、そこにみていたのかもしれない。それにしても、わたくしには、この人がのこした「廻り道」と、「本来あるべき道」についての命題は、今日も忘れることが出来ない。事あるごとに、その問題に自分はかかわっているように思われる。いいかえれば、入江波光氏の考えていた「あるべき日本画」とは、かなりへだたったところから、わたくしは、長い画業への第一歩を出発したことになるのである。・・・